零ミリ
2026-04-26 18:26:40
39322文字
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輝石と筆跡2026毎日ワンライ

がんばります



 ぺら、と英字の雑誌をめくる。今日は无諦の家に行かずに自宅で海外論文の精読に精を出していた。无諦が人と会う約束があると言っていたからだ。高等学校と大学では主にドイツ語で学習していたが、アメリカの科学力の興盛は凄まじく、学生時代はおざなりにしていた英語とも向き合わなければならなくなっていた。英字がびっしりと書かれた薬学雑誌と英和辞書、英独辞書、ノートを行ったり来たりしながら読み進めていく。
 刺激的な論文に没頭し、久しぶりに壁の時計を見上げるともう四時になっていた。昼食は十二時きっかりに食べたから、三時間以上は集中して読んでいたことになる。肩を回すとこきこきと固い音がした。少し運動した方が良さそうだ。
 気分転換に書斎の障子を開けると雨がざあざあと降っていた。朝は晴れていたのに。洗濯は昨日しておいて良かった。しかし、通り雨のような降り方に見える。夕食のために定食屋に行く時には止んでいると良いけれど、と考えていると玄関から聞き覚えのある声がした。
「藍桐、いるか!?」
 无諦の声だ。聞き覚えある声だか、声量には聞き覚えがない。聞こえるはずのない大声に小走りで玄関へ向かう。
「无諦!?」
 そこには全身びしょ濡れになった无諦が立っていた。驚きながら駆け寄ると、无諦は弱々しく事情を説明する。
「用事から帰っている間に雨に降られた。君の家の近くだったから駆け込んだというわけだ」
「それは災難だったね……。手拭いを持ってくるから上がって!」
 无諦は頷くと裾と袖を絞ってから靴を脱いで家に上がる。廊下には濡れた足跡が残ったが後で拭けばいいことだ。
 无諦を居間に待たせて大きな手拭いと着替えを持ってくる。无諦は立ったまま手拭いを受け取ると肌が見えてる部分から拭いていく。髪を拭った後で着替えを渡そうとすると无諦は不思議そうな顔をした。
「君の服だと小さいだろう」
「无諦がいつ泊まりに来てもいいように着替えは用意しておいていたんだ! でも、君ったら全然僕の家に来ないから!」
「それは君が私の家に入り浸るからだろう」
 无諦の言う通り、これについては、僕に原因がある。とりあえず休みがあれば僕の方から无諦の家に赴くので、无諦から来る機会がないのだ。しかし、使わない着替えがこんなところで役に立つとは。備えとはしておくべきものである。无諦は納得したようで、一度着替えを受け取り床に置く。
「下帯もあるのか」
「あるよ! 新品のやつが!」
 无諦は頷くと雨で張り付いた靴下を脱ぎ、着物の帯を解き、下帯だけの姿になる。手拭いで濡れた肌の水分を拭っていく。无諦が濡れている姿は銭湯でも閨の中でも見たことがあるが、意図に反して濡れた姿というのはまた違った色気がある。あまり不躾な視線にならないようほどほどに視線を外すが、恋人の濡れた肌を見て何も思わないのも難しいのではないだろうか。
 着物が張り付いていた部分の水分も拭い終わると无諦はするりと下帯を解き一糸纏わない姿になる。下帯を床に落とすと无諦はするすると衣服を身につけ始める。そしてあっという間に新品の服を纏った姿になる。髪はまだしっとりしていて荒れているので、頭部と体で随分印象が違う。
「ありがとう、助かった」
「无諦のためならこれくらい! ……それで、帰るのかい?」
 一歩歩み寄り、无諦の顔を見上げ、裾を掴む。无諦はふっと笑って言葉を返した。
「帰ってほしくなさそうだな」
「だって折角来たんだから!」
「いいよ、明日は私に予定はない。君がどうかは知らないがな」
「无諦!」
「それに、」
 无諦が僕の耳元に唇を寄せる。笑いの含んだ調子で囁く。
「あんな熱視線を浴びては私も応えなければ男として恥ずかしい」
 やっぱり无諦にはバレバレだったようだ!