零ミリ
2026-04-26 18:26:40
39322文字
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輝石と筆跡2026毎日ワンライ

がんばります

ずっと言う瞬間を狙ってた

 万年筆を動かす手を止めて、壁の時計を見る。四時半。そろそろ出かける時刻だ。
 昨日と明日は藍桐が休みなので、我が家で過ごすことになっていた。今日は午後の早い時間に友人と会うらしく、昨日我が家に泊まって我が家から出かけていった。用事が終わった後に本屋巡りでもして夕食を食べよう、という予定だ。待ち合わせに間に合わせるためには、そろそろ出かけなければならない。万年筆を置き、立ち上がる。
 今執筆している物語の次の展開を考えながら待ち合わせ場所へ歩いていく。約束の場所まで着くと藍桐が既に待っていた。
「藍桐」
「无諦!」
 私が声をかけると藍桐が振り向いてにぱっと笑う。洋装ではなく和服だが、いつもの藍桐……、と思った瞬間ぎょっとしてしまった。首筋の襟元の左側に僅かに赤い痕が見えている。はっきりとは見えないから虫さされか何かにも見えるが、思い当たる節がある自分としてはひやりとする。思わず襟元に手が伸びた。
「藍桐、襟元が乱れている」
 なんでもないようにして、痕を隠す。藍桐は特に気づいていなかったようで、少し首を傾げる。
「そう? 无諦が言うならそうなんだろうね! ありがとう!」
 とりあえず安心か、と思ったが、今日は暑い。藍桐が襟元をくつろがせないように気を付けていなければ。
 本屋巡りと称した散歩の間は問題は起こらなかったが、問題は夕食のために入った居酒屋だった。まず、店の中が暑い。建物の造りで換気が悪く、満席だ。そして、今日の藍桐は酒を呑みたい気分らしく、杯を重ねている。
「あっついねー!」
 藍桐が胸元をぐいと広げようとする。
「藍桐!」
「それは、なんというか、はしたない」
「え!? 无諦らしくないよ!」
 騒がしい居酒屋なら指摘しても周りに聞こえないだろうが、外で二人の秘密のことを口に出すのは抵抗があった。結局、完全には嘘ではないが、より恥ずかしい言葉を口に出してしまった。
「私が嫌なんだ。君の肌が他の人の目に見えるのは」
「む、无諦……!」
 藍桐は暑さと酔いだけでない赤さで頬と耳を染める。原田无諦がこんなベタベタな恋人の嫉妬を口に出すのは初めてだ。
「そ、そう? なら我慢するよ!」
 藍桐はわたわたと胸元を隠すようにした。

 二人してしっかりと酔っ払って我が家に帰ってきた。玄関の扉を閉めると廊下に上がる前に藍桐に声をかける。
「藍桐」
「なんだい?」
「今日、私の言動がおかしかっただろう。服を直したり、肌を見せるなと言ったり」
「自覚あったんだ!」
「君が気付いていないことがある。ずっと言おうとしていたが言えなかった。私が昨日の夜つけた痕が見えていたんだ」
「!?」
 藍桐は襟元を開いて確認する。確認したのか、声にならない声を出しながら座り込む。
「友達に見られていたかなあ!?」
「どうだろう。完全には見えていなかったから、虫さされに見えていた可能性もある」
「とんでもない浮かれ野朗と思われていたら嫌だなあ!」
「実際浮かれ野朗だろう、君は」
「そうだけど! 恥ずかしさの種類が違うっていうか!」
「朝支度する時に鏡で気付かなかったのか」
「朝の時点では隠れていたんだろうね……。あーーー! 恥ずかしい!」
 藍桐はうずくまって顔を伏せる。肩を叩いて手を差し伸べると、藍桐は弱々しく手を乗せる。
「次からは痕をつけないようにするか」
「それは嫌。だって僕は无諦のものなんだから!」
 どうしようもない男だな、と笑う。私としても所有印は残したいのだ。今晩はもっと内側の、私にしか見せないところに残すことにしよう。