零ミリ
2026-04-26 18:26:40
39322文字
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輝石と筆跡2026毎日ワンライ

がんばります



 ふーっと息を吐きながら社屋に鍵をかける。今日も夜遅くまで研究室に詰め、最後に退勤した。路面電車の最後の便にギリギリ間に合う時間だ。毎日朝早くに来て夜遅くに家に帰る。家には寝るだけに帰っているようなものだ。
 社員に「社長はなんでそんなに毎日頑張れるんですか」と軟弱な問いをされたことがある。アイスクラーは世界中の人間の癒しの権利のためと愛する无諦のためにある。自分にはそれだけで人生を捧げられる価値がある。とはいえ、体を酷使している自覚は多少ある。
 少しでも体を和らげようと、ぐるぐると首を回す。首を上に向けた時、夜空の星が目に入った。東京の夜は星が少ないが、今日は新月だから明るい星であれば目に入る。学生の頃、天体観測が趣味の友人から北極星と北斗七星以外の星の名前も教わったのだが、どれがどれだったか。思い出そうと夜空を見上げていると光の軌跡が横切った。
「あっ!」
 流れ星だ。珍しい。
「无諦に見せたかったなあ……
 彼は吉兆と見るか、凶兆と見るか。どちらにせよ、珍しいものは无諦と共有したい。数日すれば无諦とまた会える。その時、話してみよう。

「无諦、おはよう!」
 玄関先で声をかけても返事がなかったので、无諦の家に入り、書斎にもいなかったので寝室に入る。予想通り、无諦が眠っていた。
「らんぎり……
「おはよう!」
「う……
 今日の无諦の寝起きは相当らしい。体を起こすのに手を貸して着替えさせる。着替えた无諦はとりあえず目が開いている状態だ。
「朝食におにぎりと漬け物持ってきたよ! 食べよう!」
 无諦はぽやぽやと頷く。居間で卓につき、もそもそと食べる无諦を眺める。リスのような一口から大人の男性の一口になっていくにつれ、无諦の表情が覚醒していく。そろそろ話ができそうだ、と思って話し始める。
「この前、会社から帰る時に流れ星を見たんだ! 无諦にも見せたかったなあ!」
「流れ星か、私も見たな。火曜日だったか」
「え! 同じ日だ! 无諦も見ていたんだね! 外出していたのかい?」
「外出はしていない。夜風で涼もうと縁側でくつろいでいたら見たんだ」
「无諦と同じものを見ていたんだ! 嬉しいなあ!」
「でもどうせなら君と見たかったな。今晩、星空観察をするか。また見られるかは分からないが」
「いいね!」
 顔の横で手を打ち鳴らす。无諦と見る流れ星ならば、きっと吉兆だろう。无諦も頷き、最後の一口を嚥下した。

 夜になり、二人で縁側に出る。无諦は冷酒を入れた徳利もお供に持ってきている。これまでの話の続きをしながら、夜空を見上げる。
「无諦はこの間見た流れ星を、吉兆だと思った? 凶兆だと思った?」
 洋の東西を問わず、流れ星は様々な前兆と考えられてきた。凶兆と捉えてきたことも多いが、ヨーロッパには「流れ星が流れている間に三回願い事を唱えると願い事が叶う」という伝承もある。
「流れ星を吉兆と見るのも凶兆と見るのも為政者にとってどちらが都合良いかというだけだろう。だが、」
 无諦が僕の頬を手の甲で撫でる。
「君と見るのであればとても美しく見えるのだろうな」
 頬が落ちるような照れと嬉しさを感じ、无諦の手を握る。自然と顔が近付き、唇が重なる瞬間、无諦が横を向いた。
「今、流れ星が流れなかったか」
「え!? 本当!」
「多分」
「无諦に夢中で気付かなかったよ!」
「それは……残念だったな」
 无諦がくすくすと笑う。もう一度夜空を見上げるが、天体図は動かない。
「どうする、粘るか」
「うーん、粘る!」
 その後、しばらく夜空を見上げていたが流れ星は観測できなかった。けれど、无諦と見上げた夜空は一人で見上げるよりもとても美しかった。