零ミリ
2026-04-26 18:26:40
39322文字
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輝石と筆跡2026毎日ワンライ

がんばります

思い出すのはあの声・もう一度呼ばれたい

 ぐしゃりと机の上に散らばった資料を掴み、乱雑に叩きつける。こんなことをしても何もならないと分かっているけれど。
「无諦、无諦……!」
 无諦が消えて数年。正気に戻る度に无諦を思い出し、この世界では会えないことに行きどころのない思いに悶え苦しむ。
 思い出すのはかつて彼が優しく呼んだ僕の名前。あれだけ毎日のように呼ばれていたのに、どのような声だったか薄らとしか思い出せない。
 初めて无諦が僕を下の名前で呼んだあの日。
 共に至高天の先を目指そうと誓い合ったあの日。
 恋人として初めて結ばれたあの日。
 无諦はずっと僕のことを愛おしく呼んでくれた。甘い優しい記憶は確かにあるのに、音声がかすれてはっきりと思い出せない。
「いやだいやだいやだ! 无諦を忘れたくない!」
 このまま彼の声を忘れてしまうのだろうか。そんなことは絶対に嫌だ。どうすればいい?
「无諦……また会いたいよ……
 古い写真に写る若い无諦の姿をなぞる。在りし日に四人で撮った写真だ。この日々はもう戻ってこない。戻らないのならば、せめて忘れたくないのに。
「无諦、君の呼ぶ僕の名前をもう一度聞かせてくれ。そこにいるんだろう?」
 虚空に応えはない。でも分かるよ。君はきっとこの声が聞こえる。だから、僕も君の名前を呼ぼう。
「无諦!」

 空中に浮かび上がる文字を見て一人呟く。
「藍桐、君は死んだのだな」
 あの訪問者から読み取った因子で藍桐の死は知ったが、こうして最後の手紙を見ると改めて実感する。
 藍桐が死んだということは、仮にもし私がこの先再び肉体を得ることがあったとしても、藍桐とは会えないということだ。
 悲しみを感じる。私の中に色が徐々に取り戻されている。
 もう、彼が私の名前を呼ぶことはないし、彼に触れることもできない。ああ、彼が呼ぶ私の名前はなんて甘美な響きだっただろうか。
「藍桐」
 どこでもない空間にただの無意味な音が響く。名前を呼んでも聞く人はいないというのに。受け取ることがないということと同じくらい。もう彼が私の名前を呼ぶことがない、という事実が悲しかった。
「藍桐、もう一度私の名前を呼んでくれないか」
 君が呼ぶ私の名前が好きだったから。そんな願いも届くことなく、霧散する。
「藍桐」
 それでも彼の名前を呼びたかった。私が愛した彼の名前を。