零ミリ
2026-04-26 18:26:40
39322文字
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輝石と筆跡2026毎日ワンライ

がんばります

昨日までが、幸せでした

「むてむて〜むってむて〜」
 下宿の居間にて、藍桐は謎の歌詞の即興の歌を歌いながら珈琲を淹れる。いかにも浮かれています、という様子にテーブルで本を読んでいた无諦がため息をつく。
「なんだ、その珍妙な歌は」
「无諦の歌!」
「やめろ」
「どうして!?」
「自分の名前が変な歌にされて喜ぶと思うか?」
「えーーー!」
 藍桐は口を尖らせるも、无諦の不平を受け入れて歌詞のない同じメロディの鼻歌を続ける。時折、藍桐の鼻歌はメロディが外れるが无諦はそれには不平を言わなかった。
 藍桐が珈琲を入れ終わるとテーブルに深い黒が波打つカップが並び、藍桐も无諦の向かいに座る。カップは藍桐が蚤の市で買ってきた揃いのもので、少し縁が欠けているが、緑色の美しい紋様が描かれている。ランドール夫人が言うに保存状態が良ければちょっとしたコレクションになる、とのことで无諦たちは門外漢だか良い物らしい。本を閉じて脇に寄せた无諦はそっと縁に口を付け、湯気の昇る珈琲を口の中に流し込む。
「ああ、今日も美味いな」
「ありがとう!」
 藍桐は无諦の言葉にニコニコするばかりで、自分のカップを持とうとしない。无諦は不思議そうに尋ねる。
「君は飲まないのか。君が淹れたのに」
「无諦が僕の淹れた珈琲を飲んでいるところを見ていたくって!」
「そんなもの見慣れているだろう」
「だってね、初夜の後の朝なんだよ! 全てが特別さ!」
 藍桐が言う通り、无諦と藍桐は昨日の夜初めて身体を重ねた。二人にとって満ち足りた夜で、幸福感の中で朝、目が覚めた。
「无諦は特別な朝って思わないの!?」
「それは……特別だが。今日が終わらなければ良いと思うくらいには」
「んっふふ!」
 无諦の言葉に藍桐は怪しい笑いが漏れ出る。いつも通りに冷静な表情を掲げながら、ちゃんと恋人として特別な朝を感じている无諦を藍桐は愛おしく眺めながら話し出す。
「无諦ね、僕、昨日までは幸せだったんだ!」
「ほう?」
 そのような言葉の後に続くのは、今は幸せではない、だが、藍桐の表情は幸せでたまらない、というような満面の笑みだった。
「无諦と出会って、共に至高天を目指して。毎日が輝いていた! だけどね、今は分からないんだ! 今の満ち足りた想いがいつか消えてしまうのが怖い、とかではないんだ! 本当に"幸せ"以上の言葉が見つからないんだ!」
 藍桐の告白に无諦は頷く。无諦としても気持ちは同じだった。
「そうだな。今の私たちの気持ちを表すのに"幸せ"は少し陳腐すぎるかもしれない。だがいいのか? 私と契ったくらいで、そんな立ち止まって」
 无諦は赤い瞳を優しく細め、藍桐に微笑みかける。
「至高天の先に辿り着いたら幸せすぎて死んでしまうかもしれないぞ」
「あはは! そうかもしれない! そうしたら僕の葬式で弔辞は読んでくれる?」
「もちろん。日ノ本一の弔辞を読むし、私の著作の中で君の友情を永遠にしてあげるよ」
「やったあ!」
 无諦は立ち上がり、藍桐の目の前に立ち、こめかみに口付ける。藍桐は心地よさそうに口付けを受け入れ、无諦の指に自分の指を絡める。
「今日も、我々の旅路の一歩を進んでいこう。友人として、恋人として。我々は祝福されているのだから」
「うん! 行こう、无諦!」
 同じ前を向く二人を朝日がキラキラと照らし出していた。