零ミリ
2026-04-26 18:26:40
39322文字
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輝石と筆跡2026毎日ワンライ

がんばります

ほころび

 喫茶店に入り、馴染みの店員に会釈して奥の席へと真っ直ぐに進む。いつもの休みの日の午後だ。目当ての席には赤みのかかった深い茶色の布張りのソファに藍桐が深々と座り新聞を読んでいる。新聞に頭の影を落とし、声をかける。
「藍桐」
「无諦!」
 藍桐は顔を上げぱっと笑顔を見せる。多分、数歩前から気付いている。いつだったか、留学から帰国したくらいの頃に藍桐が「无諦なら足音で分かるよ!」と豪語していたことがある。真偽は分からないが、待ち合わせで私が声をかける前に藍桐の方から声をかけてくることは多かった。しかし、次第に藍桐は私から声をかけるのを待つようになった。どのような心境の変化は分からないが。
「何か注目すべきニュースはあったか」
「そうだねえ、日本も海外も物騒な世の中だよ、相変わらず!」
 世間話に藍桐は乗って紙面の事件を伝える。注文をしながら、藍桐の話に適当な相槌を打つ。朝、新聞で読んでいる内容なので目新しいことは何もないが、ただの会話の呼び水なのでそれはさほど重要ではない。キリのいいところで、さて、と藍桐が話を変える。
「飾君の尋常小学校卒業と高等小学校入学おめでとう!」
「ああ。君のところの桜ちゃんもな」
「ありがとう! いやあ、子供の成長というのは早いね! 飾君の卒業祝いに何か贈りたいのだけど、全集とかどうかな?」
「いいんじゃないか。後日我が家にある全集を書き送るから、被らないようにしてくれ」
「うん! ……ところで、君のところの飾君と話徒君は素直に育っているかい?」
 藍桐は明るいいつもの調子から声を少し潜めて問いかけた。飾も話徒も自分の子供時代に比べれば驚くほど素直な子供だ。少し嫌な予感をしながら、所感を伝える。
「二人ともとても素直だ。君のところはそうではないのか」
「桜はともかく、桂市が最近やたらと反抗的でね。昨日も、宿題をしたくない! と駄々をこねてね。何か他にしたいことがあるのかと聞いてもろくに答えやしない! だからしょうがなく折檻をしたよ!」
 ああ、やはり、と嫌な予感は当たった。私が暗い気持ちになっていることも気付かず、藍桐は続ける。
「ああ、君の子供たちの素直さの百分の一でもあればなあ!」
 藍桐は自身の子供に折檻を行うことに疑問を感じていない。私は、子供相手といえど暴力ではなく言葉で言い聞かせるようにしなければならないと思っている。それが、真に思考する人間を育てると思っている。だが、藍桐は子供とは理屈が通じず痛みをもって言い聞かせる相手と思っているようだった。女子の桜はともかく、後継者の長男の桂市には物心つくかつかないかの頃から折檻を行っていると聞いている。
 このような野蛮な人間だったか、と彼から初めて折檻の話を聞いた時に思った。私たちが出会ったのはまだ独身の頃だったから、彼が元からそういった人間だったのか分からない。元からそういう人間であれば、いくらか諦めもつく。そういった一面を持っていても私は藍桐を連れていく。しかし、私と出会ったことで自分の後継者への期待が肥大化し歪んだのであれば? この疑念は今日も言葉にできず、曖昧な返しだけが残った。
……藍桐、ほどほどにな」
「僕だってこんなことしたくはないのだけれどねえ!」
 藍桐は大仰に嘆く。大丈夫、この程度のほころび、我々の友情のひびにはならない。藍桐の子供たちの将来に幸あれ、と弱々しい祈りをそっと捧げた。