Day1:夕涼み
比良坂の家は広い。そのぶん、片手では足りない人数が住んでいるが、それでも広いと感じる程度には大きな家だ。
真白のような
比良坂家と何の関係もない居候が一人住み着いていてもなお、持て余している部屋は多い。こうして家の中を歩き回っても本来の住人たちの気配を感じることはない。家族同士、過干渉を避けられるという点では悪くない環境なのかもしれない。
縁側に出て空を眺める。空は赤と青のグラデーションで彩られている。西日が差し込んで少し眩しいが、まあ構わない。縁側に直に腰を下ろし、その場で片膝を立てて座る。懐から
煙管とマッチを取り出し、火皿に詰めた煙草の葉に火をつける。ゆっくり息を吸い、口の中で煙を転がして味を楽しむ。火がついたマッチ棒は適当に振って火を消し、持ってきていた灰皿に置いておく。ふーっと息を吐き出すと、赤く染まった空に煙草の煙が吹きかけられ、そして霧散していった。
昼間はあんなに煩かった蝉の合唱はすっかり鳴りを潜め、代わりにヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。軒下に吊るされた風鈴が風に吹かれて涼やかな音色を響かせる。夏の夕暮れ時にこうして縁側に出て風に吹かれながら一人で
煙管を楽しむ時間を、
真白は気に入っている。ジメジメとした汗ばむ夏という季節の中で、一時だけ暑さを忘れることができるような気がする。
煙管を吹かす
真白の後ろで不意にドン、と何かが落ちるような音がした。
真白は大して驚きもせずに振り返る。そこには大きな蛙
……のような魔法生物が鎮座していた。「いろは」という名の
楓の友人だ。いろはは蛙と同じように飛び跳ねて、着地のたびにドン、と音を立てながら
真白の隣までやってきた。
「あなたも涼みに?」
「ケロ~」
真白が声をかけると、いろはは
真白の顔を見上げながら返事をするように鳴いた。実際、返事をしているのだ。魔法生物は普通の動物より遥かに知能が高く、人の言葉をかなり正確に理解することができる。
「ケロ?」
「
私が
煙管を吸っているのが珍しいですか? まあ、そうですね。たまにしか吸いませんし」
そして
真白もまた、いろはが何を言いたいのか正確に理解することができる。
真白はその魔力によって記憶を司り、他者の思考や意図を読み取ることができる。それは言葉による仲介を必要としない、世界の
理を外れた特別な魔法。
一人と一匹の間には穏やかな時間が流れている。赤かった空が少しずつ暗闇の比率を増している。もうすぐ
黄昏時は終わりを告げる。
真白は最後の煙をゆっくり吐き出してから、逆さにした
煙管を指で軽く叩き、火皿の中身を灰皿に落としていく。そのまま灰皿と
煙管を持って立ち上がり、足元のいろはに声をかけておく。
「
私は先に中に戻ります」
「ケロ」
人が手を振るのを真似るように、いろはは長い舌を左右に振って
真白を見送った。
真白がいなくなった縁側はわずかに残っていた赤味もなくなり、すっかり夜の色をしている。
真白が吸っていた
煙管の煙はすでに風で洗い流され、空にはひと際明るい星が一つ、どの星よりも早く輝き始めている。ヒグラシの声はやみ、小さな虫たちの演奏会が始まっている。これから夏の夜が始まる。
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