七月に入って、急激に気候が夏めいてきたように思う。少し前に制服の衣替えは済ませたけれど、湿って独特な空気のにおいを吸い込むと、いよいよ本格的に夏が迫ってきたと実感する。
爆豪くんのリハビリに、毎週のように付き合うことにも慣れてきた。週に一度のリハビリは、貴重なデートの時間でもある。それとは別に、爆豪くんが実家に戻るときには、爆豪家に呼ばれてお邪魔することもある。
当たり前に爆豪くんに会える生活というのは、昨夏以来一年ぶりくらいになる。ここ一年ほど、爆豪くん濃度の薄い生活にすっかり慣れていた私は、最初のうち、ペースを掴むのに苦労した。
自分の都合だけ考えればいい、勉強ばかりしていた日々とは違う。爆豪くんという歯車がひとつ増えるだけで、生活のなかで考えなければならないことの数は、どっと増える。
爆豪くんの都合に合わせつつ、成績を落とすことがあってはならない。それは最低限求められる条件だ。
加えて、爆豪くんと一緒に出歩くことが増えたことで、身だしなみを整えるための努力もきちんとしなければならなくなった。以前より爆豪くんの注目度が増しているぶん、私が視線を感じることも増えている。
考えることが多い。高校二年の夏なのだから、浮ついてばかりもいられない。それなのに、心はずっと落ち着かないまま、ざわざわと表面を波立たせつづけている。
こんなことでいいんだろうか。
漠然とした不安を抱きながら、私は駅なかの書店で、特に目的もなく歩く。
今日はリハビリのため病院に向かう爆豪くんと、いつものように駅で待ち合わせの約束をしていた。現在時刻は朝の九時半を過ぎたところ。
土曜日なので学校後の待ち合わせではない。待ち合せの場所も、病院の最寄り駅での待ち合わせだ。
待ち合わせ場所である駅までは、自転車でやってきた。多忙な爆豪くんを待たせるのは悪いと思い、早めに家を出たところ、思ったよりもだいぶ早く待ち合わせ場所に到着してしまい、駅の中の書店で待ち時間をつぶすことにしたのだった。
欲しい本があるわけでもない。目的もなく、ぶらぶらと書架を見て回る。
去年までは、勉強の合間に本ばかり読んでいた。ここのところは、まったく読書をしていない。飽きたというわけではなく、単純に、大戦以降はそんな暇がなくなった。
二年になって高校の授業は難しくなったし、爆豪くんと出掛ける頻度も増えた。遊んだぶんは、どこかしらで別に勉強の時間を作らなければいけない。
今年の夏は、どんなふうに過ごすことになるのだろう。夏期講習は申し込むとして、そろそろ大学のオープンキャンパスにも行ったほうがいいのだろうか。爆豪くんは夏休みでも、きっと少し帰省するくらいで寮にいるはずだ。遊びに行く余裕は、もしかしたらないのかもしれない。
そんなことを考えていたせいだろうか。気付くと私は、大学入試の過去問が、一面ずらりと並ぶ書架の前に立っていた。勉強や受験のことを考えていたから、知らず知らずのうちに足が受験問題集のコーナーに向かっていたらしい。
せっかくなので、真っ赤な書棚を前に、自分の志望校を探す。これでもかと並ぶ背表紙の大学名を、指先でなぞりながら順に見ていくと、そのなかにある一冊が、ふいに目に入った。
大学名の下に記された学部名に、視線が吸い寄せられる。
個性工学部。まだ学部創設から年数が浅いけれど、国内でも珍しい学部で注目されている……らしい。以前読んだ受験情報誌に書いてあったので、知識としては知っていた。
今の今まで、そんなものを読んだことすら、すっかり忘れていた。面白そうな学部だとは思うけれど、私は文系だから無関係だと、無意識にそう判断していたのだろう。
書架から一冊取り出して、中身をぺらぺらとめくった。
数学と英語、それに化学の、見るからに難度の高い問題。見ているだけで、頭が痛くなりそうだ。もしも私がこの学部を受験しようと思ったら、このレベルの問題を解けないといけないのか……。
自分の現在の学力と、この学部を受験するのに必要な学力レベルの差を考える。そもそも今の文系クラスでは受験に必要な科目が足りていないから、受験するとしたら三年生からでも理系転向の必要がある。
そこからのスタートで、もともと理系で受験勉強をしている子たちに追いつき、受験に間に合わせることが、果たしてできるだろうか。もしも本当にそれをやろうと思ったら、生半可な勉強量では間に合わない。
けれど、逆に言えば、そこを乗り越えることさえできたなら──
「おい、根暗」
そこまで考えたところで、背後から声をかけられた。振り向かなくても、声だけで爆豪くんだと分かる。
私はすばやく、脳内から今の思考を追い払った。
「早かったね、もう少しかかるかと思った」
振り返って言いながら、私は手に持った赤本を閉じた。それをそのまま、書架の元あった場所に戻す。
爆豪くんは私の手元、次いで書架を見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「……個性工学部?」
私が見ていた過去問が気になったのだろう。爆豪くんが読み上げたので、私はうなずいた。
「うちの高校、二年の夏から志望校出さないといけないから。模試もあるし、そろそろ大学進学のこと考えないといけないんだよね」
「おまえ文系じゃねえのかよ」
「うん。だからこれは何となく見てただけ」
そこに他意があったわけではない。どんなものかと、ただ見てみただけだ。別に、本当に、ただそれだけ。ちょっと空想を遊ばせていただけ。
右の耳朶を、指先でするりとひと撫でする。そうして気持ちを切り替えて、私は爆豪くんに言った。
「行こっか、爆豪くん」
爆豪くんはまるで変なものでも飲み込んだ顔をして、不機嫌そうに舌打ちをした。
爆豪くんのリハビリはいつも通り、つつがなく終了した。今日は私も、午後から高校の友人と会う予定がある。病院を出ると、ふたりで一緒に地下鉄へ乗り込んだ。
ほどよく空いた地下鉄の車内でも、爆豪くんはやはり座席に座らない。爆豪くんが座らないので、私も自然と立っていることになる。そうしてふたりで立ったまま地下鉄に揺られていると、高校に入学したばかりのころ、爆豪くんと一緒に登校していた日々のことを思いだした。
いつから爆豪くんのことを好きになったのだろう。高校に入学したばかりのときは、多分まだ好きにはなっていなかったと思う。特別には感じていたような気もするけれど、はっきり好きだと自覚したのは、もっと後のことだった。
こんなに爆豪くんのことを好きになるなんて、まったく想像もしていなかった。自分がこんなふうになるなんて、少しも思いもしなかった。
「……何考えてんだ」
爆豪くんが問う。低く平坦な声音に、ほんの少しだけこちらを気遣っているような気配が忍び込んでいる。
「今までのこと、いろいろ思い出してた」
「んなことよりもっと考えることあんだろ」
「お昼に何食べるかとか?」
「クソ呑気が」
呆れたように爆豪くんに溜息を吐かれ、私は笑う。
呑気な話をしていられるのが幸福なことであることを、私はもう嫌というほどよく知っていた。
そうして、話をしながら地下鉄に揺られること四十分。
雄英の最寄りであり、私の高校の最寄りでもある目的の駅でおりた私たちは、ひとまずどこかで適当に食事をすることにした。
ちょうど昼を少しすぎたくらいだ。いい具合におなかが空いている。
「ファミレスか、前に行ったカフェか、ハンバーガー」
私の挙げた候補に、爆豪くんが「そんなかならハンバーガー」と即決する。
「じゃあ、ハンバーガーで」
さくっと店を決めて、さくっと昼食にありついた。さいわい席には空きが目立つ。このあたりは学生街なので、休日はむしろ平日よりもすいていることも多い。
シェアしたポテトをかじりながら、私は目の前の爆豪くんを見るともなく眺めた。
柄シャツにゆるっとしたパンツの爆豪くんは、見ているだけで涼しげな夏の装いだ。うっかりすると輩みたいになりそうなのに、絶妙に品を損なっていないのだから凄い。
「んだよ」
「や、爆豪くんって黙ってたら格好いいなぁと思って」
聞かれたことに正直に答えたら、爆豪くんがなぜか目を吊り上げた。
「ハァ!? なんだいきなりてめえ」
「褒めてる褒めてる。落ち着いてね。コーラ飲んだら?」
「指図すんじゃねえ! 飲むわ、言われるまでもなく!」
爆豪くんがハン、と鼻を鳴らし、コーラを勢いよくすすった。これは照れているときのやつだな、と表情としぐさからなんとなく分かる。そのくらいのことを察する程度には、私と爆豪くんの付き合いも長くなってきた。
付き合って、一年と二か月。
出会ってからの期間なら、二年と三か月になる。
今が一番、爆豪くんとの関係が安定している。爆豪くんはまるくなって、無茶苦茶な暴言や理不尽な物言いがずいぶん減った。リハビリの付き添いというかたちではあるけれど、一緒に出歩くことも増えた。周りからもなんだかんだで「お似合いだね」と言われる。
文句はないし、不自由もない。
このままでいい。
このまま、欲を出さないほうがいい。
このまま、今の状態を維持すればいい。
それが正しい選択だ。
「八月の三週目の土曜、空けとけ」
ふいに爆豪くんがいう。爆豪くんの視線の先を追うけれど、そこには特に何があるわけではない。窓の外、行きかう人々の姿を漫然と眺めているだけだ。
かばんから携帯を取り出し、スケジュールを開く。今が七月の初旬なので、まだ一か月以上も先の話だ。爆豪くんがこんなふうに先の話をするのは珍しい。
「その日って、なんかあったっけ」
「空いてるかどうか聞いてんだよ」
「いや、聞かれてはいない……。まあ、空いてるんだけど」
今のところ予定はまだ何も入れていなかった。その時期であれば、学校は夏休みに入っている。夏休みは夏期講習くらいしか予定を考えていないし、土日は夏期講習もないだろう。
爆豪くんは私の携帯の画面をのぞきこむ。そして、少しだけ気まずげに言った。
「花火大会。去年行けんかっただろ」
「え、あ、そうか」
言われて私も思い出した。そういえば去年も、八月に花火大会に行く約束をしていた。たしかあれは、爆豪くんと付き合い始めてしばらく経ったころのことだったと思う。
あのときは結局、爆豪くんが敵連合にさらわれたり、全寮制が始まることになったりして、それどころではなくなってしまったのだった。行けなかった花火大会の予定は、今でもスケジュールアプリに残ったままになっている。
「そういえば、そんな時期かぁ……。今年のほうが去年より、むしろ世間的にはドタバタしてると思うけど、今年も花火やるのかな?」
「やんだろ。つーかこういうときに祭やらねえで、いつやんだ」
「たしかに、そういうものかも」
爆豪くんの言うことにも一理あった。うっかりすると世間が落ち込みそうなときこそ、お祭り騒ぎで気持ちを盛り上げた方がいいという考え方もある。
敵連合の脅威が去って、すでに二か月が経つ。ひとつの苦難を無事に乗り越えたということを示すためにも、できるだけそういう催しはやったほうがいいのかもしれない。
さっそく、スケジュールアプリに予定を入力する。すいすいと文字を打ちながら、自然に顔がほころんだ。
「嬉しいな。去年、本当はすごく行きたいなと思ってたから」
知っとるわ、と爆豪くん。何気なく発された言葉だったけれど、私はそれが嬉しかった。
私が花火大会に行きたがっていたことを、爆豪くんはちゃんと知っていてくれた。だからこそ、今年はこうして爆豪くんのほうから誘ってくれたのかもしれない。
爆豪くんの状態を考えたら、人が集まる場所には極力行きたくないと思っていてもおかしくない。私から爆豪くんを誘うことは、きっとなかっただろう。よくて実家のベランダから一緒に花火を見る程度だ。
爆豪くんのやさしさが、単純に嬉しかった。
好きだな、と思う。
私は爆豪くんのことが好き。今も、多分これからもずっと。
「去年の今頃はさ、未来がどうなってるかなんて少しも分からなかったよね。だから、あんまり先の話とかしないようにって思ってた」
携帯をかばんに戻し、私は言った。爆豪くんが残ったポテトをつまみながら、口をゆがめて笑う。
「今は違ェのかよ」
「今は、そうだね。先のことが全然分かんないってことは、なくなったかな。なんとなく、こんな感じになるだろうなっていうのは分かるというか。こういう道筋を行って、こうなるんだろうなって予想がついてる感じ」
予測できない未来に振り回されるのは、疲れもするし、なにより恐ろしかった。そういうことがなくなって、今は状況が落ち着いている。安全だと分かっている道を選び続けるのは精神的にもらくで、何より安心していられる。
挑戦なんかしなくていい。安パイを選べばいい。
そう考えた瞬間、一瞬、胃がぐるりと反転するような気持ち悪さを感じた。けれどそれはすぐにおさまって、かわりに胸のなかを、すうすうと冷たい風が吹き抜けていくような感覚を覚える。
イレイザー・ヘッドの声が、頭の奥の奥のほうで、ちいさくちいさく鳴っている。
その声を、私は聞こえないふりで無視した。
「約束ができるようになってよかったって、そう思うよ」
「…………」
爆豪くんは、最近よく見せるようになった探るような目つきをして、正面の私を眺めていた。
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