【創作|馬軸】春雷 芽吹- 春の嵐

※支部からの移植版です。文面そのままです。第一話~第三話までのクラシック編。

Attention
・この作品は競走馬とそのジョッキーを中心に描いていますが、実在する団体とは何の関係もない創作作品です。
・実際の競馬に関してわからない部分は調べていますが、事実と異なる点やありえない点もあるかと思います。そこについては創作だと割り切ってお楽しみいただければ幸いです。
・実在する競走馬をモデルにした競走馬が登場します。名前がもじってある場合があります。




「Manner Makes Man」____〝礼節が人を作る〟

そんな言葉を代名詞に、痛快なアクションと最新式のスパイガジェットを用いて敵を倒すスパイ映画がある。『スパイ・イン・ザ・ニューヨーク』という映画だ。幼いころ何度も見た。それこそ十回以上は見ている。
そんな風に暗躍するヒーローというのか、スパイ映画と言うのか、そういうジャンルの物語は好きだった。常に物語の主人公はその世界では誰にもその活躍を悟られないが、知らない間に世界を救っている。なんそれめっちゃかっこいいやん、と思った。
それを見た単純な私は、小さい頃は警察官に憧れた。知らない間に大阪の治安を守り、父と母の笑顔を守りたいと__本気でそう思っていた時期があった。

ある日突然母は帰って来んくなった。
今思えば私は父へ相当残酷な質問をしただろう。「何でお母さんは帰って来ぉへんの」と。
確かに、父の動物病院は当時あまり経営状態が良くなかった。借金もたくさんあったし、今でも私と父の二人で絶賛返済中やし、まぁ……大人になったら母が蒸発した理由なんざさすがに嫌でもわかる。父が診療する動物は変なんばっかやった。
今でこそカメレオンだのイグアナだのフェレットやのはよぉ飼育されてるけど、私が小さかった頃はかなりマイナーな動物やったから、当然診せに来る飼い主さんも少ない。経営難なんざ必至、当然どんどん生活は苦しくなる。

気づけば借金は七千万円を超え、桁は億へ行こうとしていた。

それからというもの父の酒の量は増えた。お金全然ないのに競馬も行きよった。しかも負けるし。最悪やった。貧乏に拍車がかかった。これは捨てられるかもしれんと心の隅で思ったのは事実やから否定はできん。
だがそれでも父は私を見捨てんかった。
大嫌いになったはずの母親にそっくりな顔の私を捨てず、愛情を注いでくれた。六畳半しかないボロボロで壁の薄いアパートで父と二人暮らしてきた。全寮制の競馬学校に入るまで。

道頓堀の外れにあるボロボロの六畳半のアパートには、今も父が住んでいるはずだ。あの家に残してきたものはほとんどないけど、私の暮らす栗東トレセンの独身寮にはあの家から持ってきたものがある。
ロジェールマーニュの祖父馬、シャルルのぬいぐるみとか。これは私が父に初めて競馬場に連れてってもらったときに買ってもらったもの。その横には皐月賞の優勝杯がある。

私は、憧れが遺した馬の背にいる。
そしてそれと同時に__もう〝運負け騎手〟とは呼ばれない。決して一発屋にはならない。
スノーホワイトと共に安田記念を勝って、私は。


「私は、__必ず……馬が誇れる騎手になる」


止まれ、の合図で意識が外に向いた。パドックを周回していた馬たちはピタリと脚を止めてそこに静止する。残念ながら真っ白な馬体が輝く日にはならなかった。
土砂降りの雨だ。鈍色の空から大粒の水滴が零れ落ち、まるで天が泣いているようだった。私は肩甲骨を引き寄せて胸を開き、前を見据えて息を吸い込む。横隔膜が上昇し肺が開くのを感じながら雨の中に踏み出した。白い馬体を雨が濡らしていく。私の着ている勝負服にも雨が叩きつける。ヘルメットからはみ出した金髪に雨が染み込んで、水滴が肩に落ちた。

「スノーホワイト」

馬の左側に寄って首筋を撫でる。耳をピンと立てて顔をこちらへ向けた。黒い瞳がじっと私を見ている。
スノーホワイト。白雪姫。……姫いうても、牡馬やけど。その名前に恥じない白さの、本当に雪のように白い馬。ロジェールマーニュとは真逆の色をした馬。真逆の距離が得意な馬。強烈な追い込みとピッチ走法で駆ける馬。


「私は……スノーを信じてる。__好きに走りや。合わすさかい」


その言葉に驚いたのか、手綱を引いていた岩蔵厩務員が目を丸くした。私は岩蔵さんに大丈夫ですよ、と笑いかける。スノーは一瞬体を震わせた。雨が冷たいから寒いのか、それとも私の発した言葉に反応したのか__それはわからない。
けれど、スノーホワイトは間違いなく私の言葉を聞いている。
私は岩蔵さんに手伝ってもらって体を持ち上げ、スノーの背中に跨った。目に映るのは曇天と冷たい雨。そして真っ白なスノーの馬体。パドックを囲む観客の騒めきは雨の音にかき消され、私の耳に届くのは雨音と体内で拍動する心臓の音だけだ。

スノーは岩倉さんに引っ張られて地下馬道へ歩き出す。その足取りは今までで一番落ち着いていた。いつだってスノーホワイトはどこかチャカチャカと小走りになったり、顎をぐっと引いて鶴のような首を作ったり__少し落ち着かないことが多かった。NHKマイルカップや過去のレースでの映像を見る限り、だが。瞳は前を見据え、耳もしっかり前に向けている。
ロジェの場合は多少ぴこぴこと耳を動かすことが多いがスノーはそういう訳ではないらしい。随分落ち着き払ったスノーに一抹の不安を覚えないこともないが、濡れてぬかるんだ芝を踏んで__手綱が外されたのを合図に駆けだす。

……今日はえらい大人しいなぁ」

声を掛けても反応はないかと一瞬思ったが、スノーは片耳を動かして私の方へ向けた。聞いてはいるらしい。鼻を鳴らす音を返して、スノーはスピードを落とし始める。待避所で馬たちの列に加わって常歩に切り替え、静かにゲート入りを待つ。
今日は五枠十番で出走する__可もなく不可もなくという枠順だが、この馬場なら大外ぶん回す馬が多そうな気がした。何せ内側はめちゃくちゃぬかるんでいて芝が少し剥げている。この内側を突っ切ろうという馬は少ないだろう。

まぁ、私らは突っ切るけど。
着々とゲート入りが進む。私もスノーホワイトを歩かせてゲートへ導いた。大人しくゲートに入ってからも特にうるさくする様子もなく、極めて冷静に発走を待っている。


「行こう、スノー。勝つのは私らや」

叩きつける雨粒と共に、銀色のゲートが開いた。