河童の皿箱
2025-04-02 09:27:13
53202文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、能楽師であった。

あるグループがグループになる前、昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 その後、ふたりの初公演は何らかのトラブルに見舞われることもなく、無事に終了時間を迎え、ふたりはその足でいつものように、能楽師の小さな小さな家に帰ってきた。誰かに感想を述べられたわけじゃない。通りがかった人からすれば、あの公園でよくやっているストリートパフォーマンスの、そのひとつに過ぎない。それでも、誰かが投げ銭を端末から送ってくれた。集まった額は1日の食事の分にも満たない程度だったが、雅楽師はその額以上の満足感を得て、けれど俯いたまま何も言わない能楽師を気にかけていた。
 また、何かあったのだろうか。何か、心残りでもあったのか。何も聞き出すことができないままの帰宅。押し入れに荷物を押し込んで、能楽師が口を開くのを待ち続けた。

 なんだかんだでやることの多い帰宅後の身支度を終えたふたりは、ちゃぶ台を囲んだ。ふと雅楽師が能楽師に目を向けると、ギョッとした。能楽師は、その目からほろほろと涙を流していた。
 ど、ど、どうしたんじゃ!? 雅楽師はすぐに側へ寄って、けれど能楽師はそれを押し返した。いや、いや、違うんだ。悲しいんじゃ、なくて。ぐずぐず声の先を、雅楽師は静かに待つ。
 舞っている間、いろんな人の息遣いが聞こえた。俺の舞と、お前の音に集中してくれた。拍手もしてもらえたし、まさか、投げ銭まで。……俺、俺、こんなの初めてだ。長く劇場でやってたが客入りはほとんどないし、退屈そうな様子しか見れなかった。今日だって、お前と一緒にいろいろ工夫は考えたけど、本当は怖かった。また冷たい目で見られるんじゃないかとか、お前の頑張りが報われないかもしれないとか。だから……だから、受け入れてもらえて、楽しんでもらえて、すごく嬉しかった。すごく、驚いた。そうしたら、何にも言えなくなっちまって、俺……
 シャツの袖でぐしぐしと涙を拭う能楽師に、雅楽師は押し入れからタオルを取り出し、その顔にバッと被せてやった。能楽師は咄嗟に顔を隠し、雅楽師はその正面に座っては、とうとう堪え切れなくなり、豪快に笑った。なぁっはっは! お前は案外、悲観的なんじゃなぁ。これなら絶対に上手くいくと、わしは思っとったぞ。仮に今日が上手くいかなくても、上手くいくまで、お前となら何度だって奏でられるともな。肩を強く叩き、続ける。な、そうしてメソメソしてないで、酒でも買いに行こうぜ。ようやっとわしらのやっていることが、お客さんたちに通じたんじゃ! めでたいことじゃ、喜ぶことじゃ! ほらほら、立て立て! 祝杯を上げに行くぞ!
 雅楽師は能楽師を待つ。ふと、能楽師はタオルから顔を上げた。目元が真っ赤に腫れてぐしゃぐしゃだったが、ずずっと鼻を啜り、眉を下げて微笑んだ。……あぁ、めでたいことだ! ようやく、ようやく、俺たちはスタートラインに立てた。だから……これからどんどん中身を詰めていくぞ。能楽師はパチンと自分の両頬を叩いて、ついにニヤッと笑っては、雅楽師の肩を叩いて立ち上がる。さあ行こうぜ。今日は少し高い酒を買っちまおうかな。そんな様子に、雅楽師は背を追いかける。

 扉を開き、ふたりは近所のコンビニまでと、夜の街を歩く。すれ違う人々はわずかに俯いて、足早で。そんな中を、ふたりはのんびりと歩いていく。ほんの少し、ほんの少しだけ、自分たちを知る人が増えた。その人たちは、はるか昔の伝統を、新たな何かとして見ていたはずだ。他者に認めてもらえた。ただそれだけが、ふたりにはありがたかった。

 仕事は無くなっちまったし、投げ銭だけで食っていけやしないだろう。メシ代、稼がないとな。
 そうだなぁ。わしらが持っているものが金になればとは思うが、このご時世じゃ。値は付きはするだろうが、一度手放しゃあもう戻ってきそうにないし。
 ボットメンテナンスの勉強でもするか? あの辺の資格はどこも引っ張りだこって聞くし。それと、役所に提出する書類も進めないとな。
 はは、お前は本当に、よく先のことを見据えるられるのう。……あぁ、書類ついでに相談なんだが……その、一緒に住まないか。家賃が……それに会うたびに交通費も嵩むしのう。折半できたら、そもそも一緒ならなぁと、近頃よく考えちまうんだ。
 住む、か。なら不動産行くのと……。お前になら、言ってもいいか。
 ん? 何をじゃ?
 あぁ、いや。ほんと、大したことじゃないんだ。俺の習慣というか、あー……なんというか。一緒に住むのは全然、俺もその方がいいと思うし。ただ、伝えとかないとなって。明日の夜、付き合ってくれよ。