河童の皿箱
2025-04-02 09:27:13
53202文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、能楽師であった。

あるグループがグループになる前、昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 ひらり、ゆるりと翻る扇子。すり足がひとつ、トンと鳴れば、面は虚空を睨みつける。当然だ。観客などほとんど居ないのだから。
 男はひとり、舞い続ける。古びた衣がまたバサリ。けれど、息もない無音より返ってくる音は、心の隙間をこじ開け、ただただ虚しく。
 数少ない観客が、舞の隙間から立ち上がり、去っていく。ひとり、またひとりと。
 なぜ。これほど。俺は。どうして。とうとう自問自答を始めた男の胸が、虚無に満たされていく。ひとり退場していくたび、胸にはまるで剣が突き立てられたかのような痛みが走り、とうとう足がもつれて転んだ。舞台上にたたきつけられれば、更に観客は立ち去っていく。痛みに悶え、立ち上がる力もなくなり、ぜえ、ぜえと、息が乱れる。
 最後に残った観客、ふたり。立ち上がって、劇場の出口へと去っていく。

 あぁ、待ってくれ。
 行かないでくれ。



 ……むう。そりゃあ……つまらん夢じゃったのう。雅楽師が顔を顰めて呟けば、能楽師は苦笑をこぼした。まあ、夢だ。夢だったから、さ。布団に包まったまま、3人は駄弁っていた。
 しんしんと降る雪、水に触れば凍えてしまうほどだろう。けれど布団の中のぬくもりは相変わらずで、ひとまず昨晩の夢について語った。けれど、と人形師は続ける。あなたが夢を見たあの時、現実にも不思議なことが起きたの。不思議なこと? 能楽師は自らを挟み込む2人の顔を交互に見つめた。
 雅楽師は口にする。昨晩、お前が夢に魘されてわしは起きたんじゃが、どうにも部屋が真っ暗でな。いや、深夜だから暗いのは当たり前じゃが、明かりをつけてもその光がわしらまで届かなかった。お前が目覚めて落ち着いた頃にその暗闇は晴れたが、どうやら部屋が真っ黒いモヤに包まれておったみたいじゃった。しばらくしてモヤが消えれば、明かりはついとったんじゃ。……お前、あの黒いモヤはなんじゃ? 聞かれた能楽師は絶句した。心当たり、ないの? と人形師が訊ねれば、能楽師は視線を逸らした。どうやら、心当たりはありそうだ。
 雅楽師は戸惑う手を取り、ゆっくりと続ける。力を抜け。わしらのこれからのためにも、ちゃあんと確かめにゃあならん。お前はあの時、うわ言を繰り返しておった。それは覚えておるか? 能楽師は頷いた。だが、口にはしたくないらしく、黙ったままで。雅楽師はなおも続けた。今、わしの中にはひとつの可能性が浮かんでおる。詳しいことは言わなくてもいいが、確かめさせとくれ。お前は、サイキックなのか?

 長い沈黙。泳ぐ視線。無が塗りつけられた顔は覆い隠され、とうとう頷いた。……そうだ。俺は、サイキックだ。あぁ、そうだ……俺は……サイキックで……。ずん、と胸の内にのしかかる虚無が、雅楽師と人形師の胸にも突き刺さる。体からあふれ出る黒い霧が、部屋に充満し始める。そうだ。こんな現象、サイキック以外にはあり得ない。
 よう、言ってくれた。雅楽師はまた、能楽師を抱きしめた。そして、人形師もまた、能楽師にそっと抱きついた。黒い霧に閉ざされた暗闇の中、3人は惹かれ合うままに触れ合う。より身を寄せて、くっついて、目を閉じろ、と。言われるがまま、目を閉じる。じっとしていろ。囁く声に、息に耳を澄ませ、次第に、体の感覚が抜けていく。眠気はなかったはずなのに、夢路が開いた。

 狭い狭い、劇場の舞台の上。観客は誰も居ない。倒れ伏したままの体を何とか起こせば、現状を把握する。もはや誰も居ない。客のない演者などと。喉から飛び出したのは、乾いた笑いだけ。最後に出て行ったふたりは、紛れもなく雅楽師と人形師だった。……黙っていてしまった。何時か話さなければならない事だった。失望されただろうか。もう、一緒に居られないのだろうか。そんな逡巡が脳裏を駆け抜けては、酷く惨めな思いばかりに満たされていく。けれどこれで、誰にも見られないで済む。そんな安堵が足首にまとわりつけば、身を沈めようと影に引きずり込もうとする。けれど、どこからか小波の音、そして滝の音が、その思考をかき消し、意識をハッと外へと向けた。
 どこからだろうか。劇場の中を見回しても、それらしいところはない。寄せては返す波の音。流れ落ちるは滝の音。決してささやかではない音につられて、能楽師は影を振り切って舞台を降り、劇場の外へと繋がる扉に手をかけた。
 その先に広がっていたのは、広大な海と、淑やかに落ちる滝だった。海の磯には美しい龍が横たわっていて、滝には煌びやかな蜘蛛が巣を張っていて。能楽師は戸惑いながらも、朝日を受けて輝く水に胸を打たれ、一歩、また一歩と踏み出した。
 辿り着いた磯の辺に、寝転がった龍は長い首を持ち上げて笑う。とうとう弦が切れちまった。これじゃあ、お前のために奏でようとも、奏でられない。龍の鬣の一部が、切れている。これを、弦というのか。何とも不思議な龍だ。そう笑えば、言葉が喉をついて飛び出した。あぁ、だからこそ俺たちは、歩み始めたんだろう。龍は笑う。愉快そうに笑う。良かった、ちゃあんとあそこから出てきたな。そうだ、わしらはもう、あの狭い場所とはおさらばしておる。……さあ、あいつも待っている。顔を見せてやれ。龍はまた、磯に横たわった。
 水が絶えず注がれ続ける滝つぼに、男ほどもある巨大な蜘蛛が巣にじっと佇んでいる。なりは怪物そのものだったが、男は恐れることもなく、その水辺へと入り、糸に触れれば、蜘蛛は穏やかに寄ってきた。鮮やかな色彩を帯びた足が、男の胸にそっと触れる。私の望みを、夢を、その全力をもって叶えてくれたあなただからこそ、私はあなたの力になりたいの。あなたの力になれるのなら、私の全てを捧げても構わない。……なんて、情熱的な言葉なのか。いつもは、あんなにも寡黙なのに。蜘蛛がまた寂しげにひとつ、足を絡めれば、男は謝罪した。お前たちを恐れていた俺を、どうか許してくれ。……俺は、お前たちと歩み続けたい。絡む蜘蛛の足と、糸を受け入れ、抱き返してやれば、蜘蛛はようやく、笑った。

 龍は笑う。蜘蛛は笑う。その輪郭がどうあろうと、それは。

 意識が、ぐいと浮上する。かっと目が見開かれれば、黒い霧が晴れていくのが見えた。差し込むは曇天の淡い光。そして、布団の柔いぬくもりと、ふたりの腕の中で、不可思議な繋がりを感じた。まるで楔が刺し込まれたかのように、はっきりと、けれど痛みなどなく。胸に手を当て、目を閉じて糸を辿れば、その先には夢に変わらず、磯と滝が見える。これは、一体、なんだろうか。あの劇場で見た嫌な景色を、一度しか見ていないはずのそれを幾度も幾度も夢で見ては、小さな傷は掻きむしられた。傷は徐々に大きくなり、血が出続けていた。ひとりでは、酒で誤魔化すしかできなくて。けれど、彼と出会って、彼女と出会って。焦燥に駆られ、必死に仕事をこなして、予定を詰め込むことで、痛みを忘れられたのに。あの夢はまた、傷を引っ掻き回した。耐え難い痛みと、明かせなかった秘密が牙を剥いて、また血が出た。そこに包帯を巻いてくれたかのように、痛みは、霧は、鎮まっていて……なにより、心地よい。そうか、俺は……俺はまだ、お前たちに……。呟けば、目を覚ました雅楽師と、目を覚ました人形師と、目が合った。
 ……やあ、おはよう。んふふ、うむ。いつものええ男前じゃ。……実はな。わしも、そしてこいつも、サイキック……や、流石にこいつも同じっちゅうのはたった今知って腰ん抜けそうになったが……毎日楽しくて忙しくて、すっかり言う機会を逃しちまっててのう。お前がここまで悩んでるとは思わなんだ。お前の心がお前を傷つけていると、もっと早くに気づけたら。お前を蝕んで変えちまう不安に、お前をあの頃へ連れ戻す痛みに、もっとしっかり向き合うべきだった。……すまなかった。
 私も、黙っていてごめんなさい。……本当は、あの日、ふたりを見つけたのは、偶然なんかじゃないの。私は、あの公園へ、ふたりのもとへ、導かれた。惹かれて行った。ふたりを見つけた時、私の居場所はここしかない……そう思ったの。だから、手放したくなくて……変わってしまうのが、怖かったの。それでも、一緒にいたい。……矛盾を抱えていたの。一緒に住むのなら、いつかは気付くことなのにね。
 ……はは、なんだ。みんな、同じだったのか。能楽師はつい脱力しては、両腕を広げ、ふたりを抱き寄せた。……心配、かけたな。もう大丈夫だ。雅楽師は笑う。お前は頭が切れるからのう。先々を見通して、その分の不安を背負い込んでは、知らず知らずのうちに苦しんでおったんじゃな。人形師がそっとすり寄っては、能楽師は包み込んだ。頭が切れる、なぁ。俺はただ、あそこにずっと囚われていただけだったんだろうな。雅楽師がまた、身を寄せる。なに、お前は自分であそこから出てきたんだ。その先の景色を見に行こうじゃあないか、なあ。