河童の皿箱
2025-04-02 09:27:13
53202文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、能楽師であった。

あるグループがグループになる前、昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 月の沈んだ四畳半と、小さな押し入れ。吊り下げられた裸電球、どんと置かれた旧式の大型なデスクトップPC、モニター。あれから、すぐに能楽師の家、こと、ぼろアパートに滑り込んでは、大荷物は押し入れに押し込んで、酔いの勢いと圧し掛かる疲労のなすがまま、何をするでもなく、敷きっぱなしの布団に転がっては、ほどなくして眠りの底へとおちた。
 朝なのに薄暗い、外のビルの窓に乱反射した日光が、窓辺から差し込んでは、ふたりの若い男を照らす。能楽師が目を開けた。寝ぼけ眼をこすりながら、だるい体を起こし、部屋の隅っこで掛け布団に包まった雅楽師の体を揺する。ほどなくして雅楽師も目覚めるが、また布団を被って眠ろうとしていた。
 伝統の潰れた街であっても、安物件の狭小具合は遥か昔から変わらぬまま。ここには厨房も、風呂場もない。近くに風呂屋とコンビニがある。いつもそこで朝の支度をしてんだ。能楽師が伝えれば、雅楽師は布団からひょっこりと顔をのぞかせて、細い目をさらに細め、乾いた声で言う。あぁ……風呂……わしら、昨日風呂入っとらんし、風呂……。どうにも目覚めきれないそんな様子に、能楽師はこらえきれず吹き出し、布団を剥ぎ取ってはその手を取り、なんとか上体を引っ張り上げた。ほら、じゃあ行こうぜ。

 何とか外へは連れ出したものの、まだふらふらしている雅楽師は、能楽師よりもほんの少しだけ背が高く、けれど今にも眠気に負けそうなものだから、能楽師は気が気ではなかった。お前、すっげぇ朝弱いのな。ひとり暮らししてるんだろ? 今までどうしてたんだよ。他愛もない問いかけに、雅楽師はあくびをひとつこぼして、ぼんやりと呟いた。酒は……酒は好きなんじゃ。ただ、飲むと……こうな……ふあぁ……ひとりん時は飲まんようにしててなぁ……。またひとつあくびが、ビルが塞ぐ空へとこぼれれば、その隣でもまた、あくびがこぼれた。
 程なくして、ふたりは銭湯の道半ばのコンビニまでたどり着く。手動ドアを開ければ、どこでも見るようなボットが陳列作業をしている。ガァと効いている冷房が、蒸し暑さを和らげてくれ、僅かに眠気を攫って行った。能楽師はプロテイン入りの飲料と完全栄養エネルギーバーを、雅楽師は割引されたおにぎり2個とこれまた割引弁当、そしてボトル入りのお茶を手に取って、袋に詰める。……お前、それ朝飯かぁ? 雅楽師が問うと、能楽師は答える。栄養ならこれで十分だしさ。雅楽師はふにゃりとはにかむ。なぁるほど、お前さんは会食以外だと割とそういう食事なんじゃな。その言葉に、能楽師は頷く。そうだな、ひとりの時はこれで済ましちまう。そういうお前は……昨日もだが、結構な量食うよな、と。そのまま、ふたりはコンビニを出る。念のために端末を確認し、決済済みの通知を確認し、また懐に仕舞いこむ。何らかの不具合で万引きになるなんて、真っ平ごめんだ。

 銭湯のラウンジで買い食いを済ませ、ザっと風呂に入り、はぁさっぱりした、と一息ついては、また小さな部屋まで戻ってきた。その頃には、いかに目覚めの悪い雅楽師といえど、いつも通りの目の細さに戻っていた。
 ……さて、それじゃ、そろそろ本題に入ろうか。能楽師はちゃぶ台に紙を3枚ほど置き、鉛筆を準備する。雅楽師もようやく背筋をピンと伸ばしては、真剣に向き合う。
 まず、自分たちの目指さなくてはならないもの。ふたりが背負った伝統芸能、能楽と雅楽の継承……なのだが、かつてこれらの文化と共に栄華を誇った都は滅び、残ったもので観光地となり、そして開発され、もはや影も形もない。諸行無常とはよく言ったもので、世間が変われば、暮らしぶりが変わる。暮らしぶりが変われば、人々の興味や流行する文化だって当然変わる。能楽師はふと、口走る。そうだよな、変わるものがあるんだから、昔のままやろうとしたって、上手くいかねぇよな、と。
 続いて、雅楽師も意見をひとつ。そも、わしらがやっている能楽と雅楽は、本当に昔からのものだと、胸を張って言えるのだろうか? ふたりは頭を抱えた。芸能の修練を積むとともに、歴史書や研究資料などは目を通していたのだが、そこで描かれた姿と、今の自分たちの姿には、至極単純な、埋めきれない乖離が存在する。それは、人数が足りていない、ということ。能楽は、西洋風に言えばミュージカル。雅楽は、西洋風に言えばオーケストラ。だが、廃れかけの伝統、残されたのは自分たちひとりずつしかいない。いや、探せばいるかもしれないのだが、それらを統括していた組織は、ずっとずっと昔に解散している。役者の、演者の数が、全く足りない。仕方がないからと目を背けてきた巨大な壁に、ふたりはまずぶち当たった。
 次に上がったのは、道具の修繕について。受け継いできた道具の手入れはできるものの、楽器も、面も、衣装も、とにかく経年劣化が激しい。何がいつ壊れても不思議ではないし、切れてしまった和琴の弦の入手が、火急の課題である。……が、骨董市ではすでに歴史的遺物、実用しない美術品として取り扱われ、値段が吊り上げられており、当然、ふたりには手が届かない。蚤の市で探すのは余りに確実性がない。ネットオークション、大抵は詐欺だ。職人、居るならとっくに頼っている。これに関しては代用品を探すか、手作りするしかないだろう。幸い、弦の材料となる正絹の製造は、着物に薬品にと用途が目立ち、まだ研究されている。弦の製造法は、本に残されている。だが、技能はない。制作が現実的かというと……
 次々に見つかる問題点に、ふたりは黙り込む。考えれば考える程、自分たちの立ち位置というのは、切り立った崖っぷちなのだと痛感する。投げ出したくなる気持ちをぐっとこらえ、では、自分たちが今できることは何なのか。ふたりはまた、討論を続ける。
 元の芸能の形は、既に崩壊している。役者を集めて教育する? そんなツテはない。なら、規模を縮小して、少なくとも空きが目立たない形に、不格好ではない程度に収めるしかないだろう。ふたりは顔を見合わせた。能楽師には、囃子が居ない。雅楽師には、舞人が居ない。ならば。
 ふたりはふと立ち上がり、押し入れの中から自分たちの荷物を取り出し、漁る。能楽師が取り出したのは、古ぼけた謡本。雅楽師が取り出したのは、手作りの覚書。ふたりはそれを交換しては開き、雅楽師は謡本をすらすらと読んだが、能楽師は頭を掻いた。どうやって読めばいいんだ、これ。そんな様子に、雅楽師は笑った。なははは、全然読めんじゃろ。雅楽は口伝じゃ。そして、わしの手元に残ったのを、わしが書き残したのがそれだ。なに、時間はたぁっぷりある。それに、わしも能楽の楽譜の読み方はあやふや。お前さんにも、色々と教わらんといかん。能楽師は苦笑をこぼしながらも、そうだな、と。しっかり勉強して、お互い分かるように落とし込んで。……俺は、お前のために舞う。お前は、俺のために奏でる。……まずは、そこから始めよう。