河童の皿箱
2025-04-02 09:27:13
53202文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、能楽師であった。

あるグループがグループになる前、昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 能楽師が朝早くに目を覚まし、外をぐるりと走る間、次には雅楽師が目を覚まし、朝食の支度を始める。程なくして人形師も目を覚まし、雅楽師の手伝いをしては、能楽師の帰りを待つ。ただいまと戻ってくる頃には朝食が並べられていて、3人でそろっていただきます、と。食べ終われば、次は人形師の出勤を見送って、残ったふたりは商い場であるもうひとつの現実のために、仮想の物と音を作り続ける。夕方、列車に乗っていつもの公園に出ては、仕事を終えた人形師と現地で合流し、少しずつ増えていく常連の顔を見ながら、能楽と雅楽と浄瑠璃の公演を執り行う。それが終われば、歓楽街近くの飲食店で喰って帰り、家でのんびり過ごしつつ、交代ごうたいに風呂に入る。そうして1日の疲れを取ってから、居間に布団を敷いて眠る。時折、もうひとつの現実に入っては、遊び歩く。おおよそ、そのような毎日であった。週末、人形師が休みの日は、どこか出かけようかなどと、絵を描きながら訊ねる能楽師。夜が深まって眠るまでのささやかな間に調べ、談笑するのが日課であった。

 あと1週間もすれば年明けか。どうする、初詣は行くか? そう問いかけて、行くと決めて眠った満月の日の事。ふと、雅楽師は夜深い時間に目を覚ました。なにか、唸り声がする。獣、ではない。じゃあなんだ、と寝ぼけ眼を擦るけれど、どうしたことか、月明りすら差し込んでいない。すぐ近くで眠っているはずのふたりの姿も見えないほどの暗闇ばかり。おい、明かりをつけてくれ。音声操作で照明を点けようとした。けれど、明かりがつかない。いや、操作音は聞こえた。もう一度伝える。明かりをつけてくれ。けれど、やはり操作音だけが聞こえて、明かりはつかない。故障かとも思ったが、まだ取り換えたばかり。辛うじて自分の手は見えるけれど、その奥は真っ暗で。耳を澄まさなくても聞こえる唸り声と歯ぎしりが眠気を退け、雅楽師はようやく現状の一端を掴んだ。声の主が眠っているだろう方向に、手を伸ばす。居た。能楽師だ。顔を近づけてようやく見えた。酷く魘されている。
 おい、おい、起きろ。雅楽師はその肩を揺らした。けれど、うぅ、と唸るばかりで目を覚まさない。すると、その反対側から、また手が伸びてきた。顔は見えないが、ほっそりとした指、人形師の手だ。起きて、ねえ。一緒に揺さぶれば、ようやく能楽師ははっと目を覚ましては、ぜえぜえ、はあはあと、肩で息をする。覗き込むふたりの顔を見れば、大きく息を吐き出して、顔を覆い隠した。いや、いや、なんでもない。何でもないんだ……。いつもの力強さのない、弱弱しい声。これまでにないほど憔悴しきった能楽師の様子に、雅楽師と人形師が顔を見合わせていれば、次第に部屋が明るくなってくる。明かりがついている。それと共に、何か黒い、靄のようなものが、この部屋を満たしていたようで。
 ……こりゃあ、なんじゃ。雅楽師は身を起こし、怪訝な顔で、部屋の隅に逃げていく黒い靄を追いかけた。けれど、靄は掴めるわけでもなく、僅かに残っていたそれも、程なくして霧散して消え去った。なあ、見たよな。雅楽師が問えば、人形師は頷く。けれど、人形師は能楽師の様子を特段、気にかけていた。ひゅうひゅうと弱く息をする能楽師。誰の姿も見ようとせず、腕で目を覆い、その身は震えている。人形師は怯える能楽師に細腕を回し、ぎゅうと抱きしめた。怖い夢でも、みたの? と。雅楽師がまた隣まで戻ってくれば、能楽師はうわ言を呟いた。

 ……また、ひとりで……あぁ……

 その言葉に、ふたりは頷いた。雅楽師もまた、怯える能楽師に腕を回し、抱きしめ、布団を被せた。なに、寒いのならこうしておればいい。今はもう、ひとりじゃないからのう。雅楽師は朗々と慰めては、人形師は静かに、能楽師を撫でる。そうしていれば、徐々に息が落ち着いてくる。代わりに、ぶつぶつとうわ言を呟く。み……、み……でく。聞き取れそうで、聞き取れない。言葉にもならないそれを、雅楽師は聞いたことがあった。初めて出会ったあの日、泥酔していた彼がひとりで呟いていたものとそっくりだった。あぁ、でも、ようやくその意味が分かった。あれは、懇願だ。

 そうか。心だけが、あの日に戻っちまったんだなぁ。なに、明日目が覚めれば、わしらがおる。怖がらんでええ。

 怯える男を、抱きしめて、撫でて、慰めて。そうしていれば、ふぅーと長い息を吐いてはうわ言も止まり、力が入って固まっていた体も、徐々に緩んでいく。

 ……ごめんな。

 曖昧ながらも確かに聞こえたその言葉に、雅楽師は気にするなと返し、人形師はそっとあやして返した。程なくして、能楽師はまた、夢路へと旅立った。
 すう、すう、と穏やかな寝息を立てて、胸をなでおろすのもつかの間。雅楽師は人形師に問いかけた。なあ、あの靄は……。人形師は、首を横に振った。分からない。あれは、なんだろう、と。雅楽師は首を捻った。頭を過ぎったのは、うわ言であった。

 みるな、みないでくれ。

 何も見えなくなるほどの黒い靄と、あのうわ言は、何か関係性があるのか。だとしたら、あれは……。そこまで考えて、雅楽師の口からはふと、大あくびが出た。
 ……明日起きたら、聞いてみよう。人形師と約束を交わし、また明かりを消しては、持ち寄ったぬくもりに任せ、次第に意識を手放した。