χχχ-medµme アンシーリーコート:探偵不在の事件録【CASE.01】

【CASE.01】探偵不在の密室
※改行が少ないため縦書きリーダー表示で読むことをお勧めします。

【あらすじ】
舞台は暗転し、明かす者は既に無く、彼らはただ取り残される。
これより語るは、探偵亡き世の物語。
彼の者の凋落よりおよそ120年。喪に服し続ける嘗ての右腕が、ひとりの馬子に出会うとき、静止した時は氷解する。
嘗ての友の旅路を辿り、その真実を秘匿せよ。そして拭い去れない夜を覆う──この世界の謎を解け。

ベイカー・ストリート221Bに拠点を構える小説家、エマ=ジェームズ・ワトソンのもとに奇妙な事件の話が持ち込まれる。それは嘗てロンドンを賑わせた探偵小説──シャーロック・ホームズの始まりの物語、「緋色の研究」で綴られた状況に酷似していた。密室で殺害された男。壁にかかれた『RACHE』という血文字。しかしそれらが示すのは、この世ならざる幻想の気配。そしてワトソンがひとりの馬子に出会うとき、黒よりも黒に彩られた真実が示すものは?
〈χχχ-medµme〉第一部、全ての始まりはこの場所に。

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 数日後──ベイカー・ストリート221B


 探偵はとうの昔に死んでいる。
 127年前の5月4日に、ライヘンバッハの滝に堕ちて死んだ。

 俺はサイフォンでコーヒーを温めながらそんなことを考えた。ベイカー・ストリート221B──その一階に居を構える『Café Doyle』でアルバイトを始めたものの、俺の心は鬱々としている。それこそ誇張などはないほどに、ロンドンを覆う曇り空よりもずしりとした重量を持っていた。
 火を止めてマグカップへ黒々とした執筆のガソリンを注ぐ。猫が丸まっている絵が描かれたその黒いマグは二階に暮らす家主のものだった。
 小さな木製トレーにマグカップとチョコレートを載せて俺はキッチンを出る。
 先日の騒動は夢であったのではないかとさえ思う。ニュースを見ようとベイカー・ストリートで爆発騒ぎがあったとか、或いはエイリアンかと思われるような見た目の天使を見たとか、そんな嘘八百と普段なら笑い飛ばすような記事は出ていない。
 まず半壊したはずの221Bは綺麗さっぱり元に戻っていたのだ。俺の経験したことは全て夢か幻か何かとしか思えなかった。
 だが同時に魔術や幻想なんて代物を、腹一杯この一週間ほどの間に経験した俺としては、ありえないなんてことはありえない、これ以外には言えなかった。
 二階へ続く階段を登っていくと、バイオリンの音色が聞こえてくる。暖炉の前に置かれた二つの椅子、その片方にいつも置かれているのは知っていた。それが誰の席であるのかも。普段読書をしなくなって久しい俺でも知っている探偵が座っていた席だ。
 バイオリンはいつも磨かれて美しい輝きを放っていた。弦も切れておらず、ジェームズは決して手入れを怠っていないのだろう。そのバイオリンが誰の私物だったのか手に取るようにわかる。
 彼は自分自身よりも、過去の日々を大切にしている。
 それはエマ=ジェームズ・ワトソンという存在と関わって強く感じたことだ。
 幻想の住人である彼は忘却するという機能がないはずだが、自分自身が忘れてしまうというより、世界が彼らを忘れ去る事に恐怖を覚えているように見えた。
 だから彼は筆を執る。
 物語は永遠にその姿をとどめておけるから。

「ジェームズ〜」
 俺は勝手に扉を開け、わざとらしく明るい声を出す。ぴたりとバイオリンの演奏が止まり、すらりと背の高い男の姿を取っている其がこちらを視界に入れた。
……なんだ、そのふざけたエプロンは」
「これ?カワイイでしょ。ガチョウだよ」
「見ればわかるが……
「作家先生にコーヒーサービスで〜す」
……頼んでいないが」
「俺からの〜、あ・い・じょ・う♡」
……頼むから心の中にしまっておいてくれ」
 割と本気で「気色悪い」とそう思っているのだろう、ジェームズはドン引きと顔に思い切り描かれたような顔をしてトレーを受け取った。
 俺だって傷つくぞこの野郎、と思いはしたが流石に黙っておく。いつも通りに振る舞う事でお互いの傷を抉らないよう彼も努めているのだろうから。
……シャルルマーニュ、悪いがポットで淹れてくれるか。三人分のカップも」
「誰か来るのか?」
「ツェペシとアルブレヒト、それとホークアイが来る。……別に報告などいらないと言ったんだが」
「そりゃあやっぱこれのおかげじゃね?」
 俺は箪笥の上に置かれていた藍色の封筒を手に取った。開封こそされたものの中身にちゃんと触れた形跡はない。『諮問探偵開業許可証』の英字が並び、その許しがどれほどジェームズの心を抉っているかについて、発行者は全く気を回していないだろう。
 ツェペシ曰く、ロジェールマーニュがハイドノーブル家の新当主となって真っ先にしたことらしい。何の目的でこれを作成したのかは分からないが、少なくともロジェは自分たちの陣営にジェームズを引き込もうとか、そういう意図はないと思われた。
 ロジェはジェームズにある程度の権限を与えて、自分で自分の身を守れるようにした?否、恐らく違うだろう。──これは俺のせいだ。シャルロッテワルツとロジェがどういう関係だったかは定かではないが、俺が英国へやってきたことがジェームズを無理やり諮問探偵にするという結果を導いたのだろう。
「あのさ、一個聞きてえんだけど……
……何だ?」
 ジェームズはバイオリンを柔らかい布で拭きながら答える。その手つきには明らかな優しさがあり、過去へ思いを馳せているのがよくわかった。
「シャルロッテワルツが呼んだあの……天使みたいなやつに、221Bって半壊させられたと思ったんだけど……俺って夢か何か見てたの?」
……私はこの建物自体を秘匿領地にしている。秘匿領地というのは、一種の幻想領域──即ち現実から隔絶された空間を指すが、私の場合は少し違う。私は領域を閉じていないんだ」
「はあ……
 俺は分かるような分からないような声を上げてジェームズの言葉を待った。実際のところ微塵も分かってはいないが。
……とにかく、私はこの建物全体を自分自身の一部と同化させている。ジンベエザメが口を開けた状態で泳ぐところを見たことがあるか?領域を閉じていないというのはあれと大体似たような話だ」
「あ~、つまり口を開けたままにしてんのか。……えっ?ちょっと待てよ。じゃあこのアパートってお前の腹の中ってことかよ!?」
……概念的にはそうなる。だが私が同化させている一部は髪鰭の一房ほどにすぎない。それを細く糸のように引き延ばし、この周辺領域全体に魔術を張っていた。蜘蛛の巣のようにな」
 ジェームズはそれだけ言ってバイオリンを拭く手を止め、暖炉の前に置かれた椅子の片方──いつもの定位置に戻す。
……それは私に対する第三者の悪意ある攻撃で、私が一時的に瀕死に陥った場合、または異界由来の神秘生命体が領域内部へ侵入した場合にのみ発動する」
「だから俺にかけられたっていう魔術と呪いを己に移して、自ら瀕死になったって?」
……そういうことだ。……あの時は時間が惜しかった。それにシャルロッテワルツを早く神秘管理局に引き渡さねば、逃げ切られる恐れもあった」
「いつワルツが真犯人だと気づいた?」
……最初から奴が糸を引いているとは思っていた」
「えっ」
 俺は思わず手に持っていた白いコーヒーカップを床に落とした。ガシャン、と音を立てて陶器が割れる。ジェームズはそれを見て破片を拾い上げ、右手の内でふわふわと破片を浮かび上がらせる。
「だが、奴が真犯人だと確信した決め手はイースト・ヒル墓地でレイチェル・アーカーシャの遺体が掘り返されたことだ」
 ジェームズは何も気にせず続けた。
……トーマス・ハリッツは死の間際に契約妖精へ自分の心臓を固定化し、そして妖精から罰を受けて死んだ。その時既にハリッツはシャルロッテワルツの傀儡魔術で操られていたために、死後心臓の所有権がシャルロッテワルツに移動する。故に奴はもう一度屍人を使って傀儡を作ることが可能だった」
「けどなんでレイチェルが次の器に選ばれたんだよ」
「理由は一つだけだ。あれはシャルロッテワルツの妻だった。精神的な結びつきが強い相手や、血が近い相手は傀儡魔術で操りやすい。ハイドノーブル家の家宝であるあの指輪は血縁者を操る効果があるが、恐らくその範囲は家に引き入れた存在へも及ぶ」
「でも天使は?ありゃあなんなんだよ」
……あの指輪は幻想を引き寄せる。多分、引き寄せるのはこの世界の幻想ではなく──異界の幻想だ。そもそも墓地という場所は、現実と異界が強く交わる場所とされている。つまりステュクスだ」
「ステュクス……ああ、三途の川か。あの世とこの世の境目が墓地だから、あの世側から天使を呼べるってことか」
……そういうことだ」
 ジェームズは左手を陶器の破片へ翳す。くるくるとそれらは回転して元の形に戻り、罅が入っていた部分には金色の筋が入る。まるで金接ぎのようで美しい──ジェームズはすっかり元通りになったカップを俺に手渡した。
「っていうか、異界って……そもそも存在するわけ?あの世ってマジであんの?」
「存在している。軽率に接続することはできないが」
「おやおや、楽しそうだねえ」
「おー、ツェペシ。アルブレヒトも元気そうだな」
 銀髪の美丈夫はにやにやと相変わらず悦に入ったような笑顔を浮かべて居間に入ってくる。ツェペシ・バートリーの背後には上背の神秘秘匿執行官がいた。ジョン・アルブレヒトは相変わらず表情筋が凍り付いたかのように無を浮かべている。
「バレルは?」
「もう来るんじゃないかい。ここ座ってもいい?」
……好きにしろ。どうせ椅子が足りない」
「我が師よ。シャルロッテワルツ・ハイドノーブルに関してですが、余罪がかなりある可能性が出てきましたので、スコットランドヤードと共同で身辺を洗うことになりました。押収した指輪はチェルシーの金庫で厳重に封印しています」
……そうか。奴は罪人の塔で拘留しているのか?」
「ええ。罪人の塔の最下層で凍結拘留しています」
……まあ、妥当な判断だな」
「凍結拘留って何?」
「端的に言うと、コールドスリープです」
 アルブレヒトは眼鏡のブリッジを押し上げて言った。確かにコールドスリープさせてしまえば逃げられる心配はない。
 ドタバタと階下から音を立てて誰かが上がってくる音が聞こえた──ジェームズが「……喧しい鳥が来た」と鬱陶しそうにつぶやく。
「ワトソン先生!聞いてください、余罪がいっぱい出てきてもう大変ですよ!」
 室内に駆け込んできたのはスコットランドヤードの刑事、バレル・ホークアイである。相変わらずふわふわとしたモップのような髪の毛を後ろの高い位置で括っている。
……ああ、先程アルブレヒトに聞いた」
「そんなあ……ま、まあとにかくですね。シャルロッテワルツが件の宝石強盗にも関与したという自供が取れたので、今後は神秘管理局とも協力しつつ送検することになるはずです。いやぁ警部に怒られずに済みました。ジョンもまた調書作るの手伝えよ」
「ええ。勿論手伝いましょう」
 アルブレヒトはバレルに応える。表情は相変わらず微塵も変化していないが、二人の間にはこの短期間に確かな信頼が芽生えていることが伺えた。
「ワトソン、一つ君に渡しておきたいものがあってねえ。今日はそれを持ってきた」
……下らないものを持ってきたら窓から捨てるぞ」
「そんなわけがないだろう?全く君ってやつは、相変わらずいけずだなあ」
 ツェペシはポケットから銀色の懐中時計を取り出した。ジェームズが赤い瞳をはっきりと見開く。僅かに唇の端が震え、か細い息がその間から零れる。
「君には今回とても助けられた。金銭的な報酬だけでは不足だろうから、僕の独断で持ち出した」
………………ツェペシ……、一体、何の……、つもりだ」
 ジェームズがその懐中時計を左手に収め、開く。硝子には傷が入り、時計の針は止まっていた。
 蝶と薔薇が施された美しい透かし彫りの意匠は作られた当時のままを留めており、十九世紀という時代を感じられて美しい。しかし以前の持ち主の、即ち生者の気配はない。
 誰の私物だったのかは、彼の表情をみれば想像がついた。
 原生神秘・原初の泡という現実から切り離された神秘生命体であるはずの彼は、俺が今まで出会ってきたどんな存在よりも人間臭かった。俺は一度瞼を閉じる。
「何のつもりでもないさ。君は名探偵じゃない。名探偵の傍で、その道行を見守った存在だ。だから君に諮問探偵開業許可証を渡すのは、正直言うと憚られると思っていた。
……これは僕なりの、君への贖罪だ。それに越権行為なんてそうそうできるもんじゃないからねえ。一度やってみたかったんだ」
………………そうか」
「それじゃあ、僕らはこれで。まだ書類仕事がこ~んな、山みたいに溜まってるからねえ」
 三人は連れだって居間を離れ、再び室内には沈黙だけが満ちる。
 ジェームズは懐中時計の蓋を閉じる。窓の外では雪が静かに降っていた。俺は暖炉に火を入れて、新しい乾燥した薪をくべてやる。

 誰もが沈黙していた。誰もが祈っていた。探偵の不在にも拘わらず、事件はその代理人の手によって正しく解体された。
 一層強まる風雪が、温かさを知らぬ指先を冷やす。

 其はただ孤独に揺蕩う彼の在り方を──色褪せぬまま、映し出していた。





 ────【Case: 001】Fin