χχχ-medµme アンシーリーコート:探偵不在の事件録【CASE.01】

【CASE.01】探偵不在の密室
※改行が少ないため縦書きリーダー表示で読むことをお勧めします。

【あらすじ】
舞台は暗転し、明かす者は既に無く、彼らはただ取り残される。
これより語るは、探偵亡き世の物語。
彼の者の凋落よりおよそ120年。喪に服し続ける嘗ての右腕が、ひとりの馬子に出会うとき、静止した時は氷解する。
嘗ての友の旅路を辿り、その真実を秘匿せよ。そして拭い去れない夜を覆う──この世界の謎を解け。

ベイカー・ストリート221Bに拠点を構える小説家、エマ=ジェームズ・ワトソンのもとに奇妙な事件の話が持ち込まれる。それは嘗てロンドンを賑わせた探偵小説──シャーロック・ホームズの始まりの物語、「緋色の研究」で綴られた状況に酷似していた。密室で殺害された男。壁にかかれた『RACHE』という血文字。しかしそれらが示すのは、この世ならざる幻想の気配。そしてワトソンがひとりの馬子に出会うとき、黒よりも黒に彩られた真実が示すものは?
〈χχχ-medµme〉第一部、全ての始まりはこの場所に。

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序幕 "A Study in Scarlet"

1878年────ロンドン某所



「部屋の内部に手を付けていないだろうな?」
「言われた通り、ホームズさんが来るまで何もしていません」

 警官は少し緊張した声音でそう言った。しかし、彼はその様子に一瞥もくれず建物の中へ入っていく。
 建物は三階建ての大きな屋敷である。奥から続いている血の跡を辿り、地下室へとたどり着く。
 探偵は乱暴にドアを開けた。
 内部にはまるで腐った魚のような臭いが立ち込めていた。カーペットを剥がされて露出した床には何かの血が赤黒く張りつき、拭えない証拠を残している。
 何らかの宗教的な儀式か。それとも単純にこの場で、死体を処理するために解体したのか。
 部屋の四隅に配置された蠟燭は、今にも消えかかっていた。

 ひとつ。

 ──何かが、ゆらり、と蠢いた。

 気配に顔を上げる。左右を見渡すが何もいない。
 指に貼りつく冷たい空気に怯える警官は、地面に釘を刺したように突っ立って動けずにいた。
 まだ彼はヤードに入って数か月程度の新人である。このような現場に尻ごんでしまうのは、無理もない事だった。
 彼は警官の手からランタンを奪い取って気配があるもう一つの部屋へ足早に向かう。
 探偵は外側から鍵を無理やりかけられたドアを近場にあった斧で叩き壊し、内部へ押し入る。天井からは明かりが吊るされ、その明かりによって白いタイルで舗装されたバスルームのような部屋の内部が露わになる。

 それは泡であり、形を持つ生物であり、神秘であり、友となる無二の存在だった。

……何だ、これは」

 呆然と、探偵──シャーロック・ホームズは呟く。

 斧でドアを破壊する音で我に返った警官たちが慌ててホームズを追いかけて来た。同じようにぽかんと警官たちは口を開けて、その奇妙な生物を見つめた。
 上半身はアザラシか、アシカのような海獣か、一方でシャチのようにも見える細い肉体。イッカクのような細く鋭利な角があり、頭部からは髪のような飾り鰭と思しき物が垂れ下がる。
 所々に紺と赤が混じり合った色調の鱗がついていた。
 胸鰭には赤い色の水かき、身体の所々から生えている鮮やかな鰭は意志を持ったようにうねって動き、下半身はイルカに似た下半身を持っている。
 遠目で見れば、寓話の人魚にも見える容貌であった。
 奇妙な生き物の傍に、食い荒らされた若い女の死体があることに気付いたのは、数拍遅れてからのことであった。
 首、腕、脚、ありとあらゆる全身の骨が折れ、あらぬ方向へ曲がっている。中身と血液がタイルを塗りつぶし、暗い色調の館にさらなる影を落としている。
「骨が砕けている」
 ホームズの視線は、その生物へ真っ直ぐ向けられていた。
「それに、これは……寓話がそのまま形を得たような……、いや、有り得ない」
 常識は瓦礫と化し、幻想に塗り替わる。
 警官は「こんなのどう報告すれば」と頭を抱えている。そう口にすることで、必死にせり上がってくる胃の中身を堪えているようにも見えた。
 奇怪な生物は状況を理解していないのか、首をもたげて周囲を気にする素振りを見せる。
 全身は酷い傷だらけで、背中には火が当てられたような火傷の痕、肩には何かが貫通したような傷、まだ新しいのはその魚の下半身だった──未だ傷から赤紫色の血液が漏れ出している。
 掲げたランタンの光が血液に反射する。オパールのような遊色を示すその血は、明らかにこの世の理を超えていた。

「こ、こんな……、こんなの……、」
「君、吐きそうなら外へ行けよ。現場を荒らされたらたまったものじゃない」
「すみません、……ッ! ホームズさん!」
 虚ろな、真っ赤な双眸がホームズと警官を見た。
 意識を取り戻したようにその生物は瞳を小さくし二人を睨み、次の瞬間ホームズめがけて飛び掛かった。
「────ぅ、ぅうヴァァアアア!!!!」
 吠える。それはホームズの頸動脈目掛けて飛び掛かり、到底手負いとは思えない強さで噛みつかんと口を大きく開けた──慌てて脱出を図る。
 エミューのような、怪鳥を思わせる顎ががぱりと開く。口腔内で渦を巻く鋭い歯が口腔から覗き、ホームズは恐怖を背筋に感じ取った。
「さっさと逃げろ。ここは僕だけでどうにかする」
「し……しかしこのままでは──」
 警官は食い下がったが、ホームズは彼を強く叱咤した。
「いいから行け」
「いやしかし、ッ、残ります! 頭を撃てば──」
「邪魔だと言っているんだ。僕は君と心中なんて御免だ、さあ早く」
 ホームズは床を蹴って一瞬手が離れた隙を狙い生物から距離を取った。それの傍で水球が次々に生まれ、鋭利な槍に形を変えていく。ホームズは必死で生物と対峙する。
 脳が理解を拒絶していた。だが目の前にあるものは、紛れもない真実を象る。

 神秘や魔術の類は、知っていた。
 信じてなどいなかった。だが──目に見えるこの生物も、何もない所から水の槍を生み出す技も、これを神秘と言わずに何と呼ぶ?
 赤紫色の血をわき腹や顔から流しながら生物は叫ぶ。その声が響くと同時に槍がホームズめがけて射出され、床や壁に機関銃で穿たれたような穴をあけていく。
 ホームズは身を翻して必死にそれを躱した。しかし顔にカッと熱いものが一瞬走り、濡れた水の感覚で顔を切ったことを──そして遅れてやって来た激しい息苦しさで、肺が片方やられたことに気づく。
「手負いの獣ほど厄介だな……、だが合点がいった」
 ホームズは手に持っていた斧を棄てる。
 生物は驚いたような表情と強烈な怒りが入り混じった表情を浮かべた。
 敵対の意志が無い、と判断したらしい。武器を捨てたのを見て生み出していた水球を霧散させた。
 ホームズはどっと息を吐き出し、壁へ背を預けてずるずると座り込んだ。
 生物は顔を背ける。意志を持ったように動いていた銀髪はふわりと重力に従って下へ落ち、やはり傷が痛むのか、床に倒れ伏して苦悶の表情を浮かべる。
……ゔ、ぅ、ゥぅあァ……、あ、あァ……
「喉を潰されているのか。少し待て。せめて、傷にあて布を……ッ」
 ホームズはそう言って数度咳をし血を吐いた。生物はその様子を見て再びホームズの方へ鼻先を伸ばす。
 ひやりと人間よりも遥かに低い体温のそれが頬へ触れ、一筋頬についていた切り傷を癒した。呼吸も、幾許か楽になる。無数の針を肺胞へ刺すような苦痛が徐々に消え、ホームズはぽかんとした表情で其を見下ろした。

…………

 其はすっと身体を引いて床に傷口を上に横たわる。
 今にも死にそうだ。其は先ほどよりも酷い顔色で、細く息を吐いては吸うを繰り返しながらホームズの瞳をじっと見つめていた。
「実に興味深い……なあ、自分自身にはできないのか? 君は今余りにも血を失い過ぎている。できるのなら傷を塞ぎ給え」
……?」
「名前は、……君の名は、何という? いつまでも『君』と呼ぶわけにもいかないだろう?」
……? ……
 生物はパクパクと唇と思しき部分を動かしその言葉を繰り返した。聞きなれない単語を反芻するように何度も名前という単語を口にしている。
「無いのか? ふむ……英国人にはありがちな姓だが、まあいいだろう」
 ホームズは不思議そうにこちらを見ている生物の顔をじっと眺め、呆れたように笑った。

「そうだ。うん……『ワトソン』……。ワトソンがいいだろう。どこにでもいそうな名だが、異端の君にはよく似合う」

 〈ワトソン〉は少し困ったように目を細め、そしてホームズの言葉に、ふっと自虐的に笑った。
 笑ったように見えた。

 かくして神秘は秘匿された。
 入念に痕跡は消され、被害者の記録も秘匿され、スコットランドヤード上層部は事件が起きた事実さえ知ることはない。
 事件そのものが泡のように消えたのである。

 だがこれこそが、世界最高の私立諮問探偵シャーロック・ホームズと、その助手ジョン・ワトソンの出会い。

 ——『緋色の研究』では決して語られなかった、真実である。

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