【創作|馬軸】春雷 褪色- 花散りて、なお  [了]

七話~最終話です。


キングジョージ 前日


正直なところ、やはり諦観していたつもりだった。
俺本来の実力はこの程度だったのだ、と__そう思っていた。ここから先は緩やかに落ちていくと、そう思っていた。だが違った。
俺の中にはまだ、一つだけ燻っているものがある。「今までの鬱憤を晴らしたい」というどうしようもない身勝手な思いだ。世間はロジェールマーニュと白綾后子の道行を気にし、そのロジェールマーニュに土を付けたフジサワコネクトの強さを忘れ去っている。
だからこそこの英国の地で、ロジェールマーニュと白綾后子が勝利を掴み切れなかったアスコット競馬場という舞台で、俺たちは勝利を手中に収める。
最早それすら建前だ。歓声も罵声もどうでもいい。俺は勝ちたい。勝利が欲しい。フジサワコネクトと共に勝ちたい。とにかくフジサワコネクトが浴びるはずだった歓声と、その栄光の全てが欲しい。だってそうだろう。まだ俺たちは誰にも認められていない。誰にも褒められていない。
望まれて騎手になった。そう__心の隅で思う。

「俺さ、ちょっと勘違いしてたかもだわ」

秀吉さんは事もなげにそう言った。アスコット競馬場近くにあるホテル。そのホテル内にあるカフェスペースで向かいに座る。俺はホットチョコレートを飲みながら「勘違い、ですか?」と問いかけた。

「逆なんだな。お前、后子ちゃんが羨ましくて仕方ないんだろ」
「急ですね。……仮にそうだとしても」
「仮にィ? ハァ。超えたい背中があるのはいい事だけどよ、度が過ぎると大変なことになんぞ。特にお前、自分の意志でこの世界に入ってきたわけじゃないからな」

秀吉さんはそんなことを言って、マグカップにお湯を注いで紅茶を飲み始めた。俺はぼんやりと彼の顔を見ながら残っていたマグカップの中身を胃へ流し込む。

「俺はさぁ、お前の親父さん……優作さんに憧れてこの世界に入った。でも俺が騎手としてデビューした年に、あの人は落馬事故で騎手辞めちまった。迅一、あの時いくつだっけ?」
「生まれていません。父が騎手だったことは記録でしか知らないので」

俺は受け応える。俺が知る父の姿は、車椅子に座り穏やかに笑っている姿だけだ。騎手だったことは殆ど知らない。母も騎手だった。同期で結婚したとだけ聞いている。

「うわ、年齢感じる……ってそんなことはどうでもいいんだよ。優作さんが、目指してきた背中がいきなり消えて__騎手として誰を指標にすりゃいいのか……あの時は本気で途方に暮れた」
「それは……
「まあ、億が一にも今のとこねえだろうがよ、后子ちゃんが騎手やめちまったら__お前その時どうすんだよ。如何に自分の意志で入った業界じゃないとはいえ、他の目標は持っとけ」

説教くさくて悪いなぁ、と秀吉さんは言った。俺はいえ、事実ですから、と答える。どうあっても白綾のように、一途に理想の姿へ突き進めるような性格ではないことは知っている。何もかも真逆なのに、同じになれるわけがない。他の目標を持つこと。それは確かに必要なことだった。

「何でもいいんだよ。迅一、お前は周囲の人たちにそうあれ、って望まれてここにいる。だからどんなにくだらない理由でもいい。何か一つでも、お前が譲れないものがあるなら」

そう言い残し秀吉さんは自室へ帰って行った。静まり返った空間に俺だけが残される。俺が吐き出すため息の音だけが響いた。
明日になれば、もう本番。ゲートが開いて走り始めれば、もうあとには引けない。勝つ__それ以外の選択肢が用意されていない戦場へ、俺とコネクトは足を踏み入れることになる。
秀吉さんが跨る馬も侮れない。前走のフランス二〇〇〇ギニーで快勝している牡馬だ。そんな有力馬たちの中でも一番警戒すべき相手は、欧州が誇る歴史的名牝スワンレイクリターンズ。彼女の強さは既にアスコットゴールドカップで証明されている。

(子供っぽい理由でも、いいんだろうか)

ぱっと思いつくのはそれだった。不世出の天才と呼ばれた瀬川優作の息子だからと期待され、その期待に応えることだけをしてきた。それを選択したのは自分自身だ。だがそれでも一言でいいから、たった一言かけて欲しい言葉のために、騎手を続ける。
そんな自分勝手で子供っぽい理由でも、いいんだろうか。そんなどうしようもない理由でも。

「海外GⅠ……勝ったら、さすがに……誰か…………

ぽつりと誰もいない空間に俺の日本語が解けていく。今頃白綾は何をしているだろうか。