【創作|馬軸】春雷 褪色- 花散りて、なお  [了]

七話~最終話です。


外厩__ ももやまステーブル


少し動かすたびにズキ、と右前脚に鈍い痛みが走る。以前から鈍い痛みは感じていたが、訴えるほどでもなかったので言わなかった。だがその痛みの原因こそが、訴えなかったその間に少しずつ僕の競争能力を奪っていたらしい。僕は温泉に浸かったまま大人しくじっと耐えた。
温められれば痛みは緩和し、俊敏に動けるようになる。だが今の僕は確実に競争能力をものすごい速度で失っていて、厩舎に戻ろうという頃にはきっと__もう、誰にも勝てないような状態になっている気さえした。
いや、駄目だ。弱気になってはいけない。耐え忍ばなければ。そう己に言い聞かせて鼻先をお湯につけてみた。ちょっとヒリヒリするので顔を上げる。厩務員が僕の手綱を引いて、水を飲まないように上を自分の方を向かせた。
しかし事実として、こうしているうちにも僕の競争能力は下降線をたどる。僚馬のスノーホワイト、弟のドライフラワー。彼らとちょっと競争しても勝てないぐらいには__。早く治して、あの場所へ帰りたい。后子の隣へ。僕がいるべきところへ。
そう思いながら自由に動く左前脚で水をジャバジャバと掻く。厩務員が僕の手綱を引き、温泉から引っ張って外へ連れ出す。僕はそれに逆らわず、スロープをゆっくり上って温泉から出た。体を撫でる冷たい風のせいで体から湯気が立ち上る。僕は濡れた鬣の水気を払おうと体を震わせた。

「温泉は嫌いなのかねえ。はい、おつかれさん」
(嫌いというわけじゃないけど……
「よしよし、タオルで拭くから大人しくしてくれよ~」

柔らかいタオルで拭かれる。僕は大人しく立ったまま終わるのを待った。顔には黒と青の国美厩舎メンコを被せられている。軽く頭を振ったら案外簡単にずれたので、僕は勢いをつけて顔を振りメンコを外した。厩務員が「あー!」という声を上げるが、知ったことではない。この後は与えられた馬房へ帰って、一度休憩してその後に何か__機械を当てられる。それも治療の一環らしい。ぼんやりと温かい何かを足にあてられて、それで終わりだ。
確か今日はレースの日だった。ふと思い起こす。スノーが走るはずだ。そうなれば背中には后子を乗せるだろう。后子を、乗せる。
……。后子を____背に、乗せて、一緒に走る。
…………

(なんだそれ……

なんだそれ。死ぬほど羨ましい。僕だって走りたい。自由に走りたい。風を切って駆け抜けたい。后子と一緒に先頭を駆け抜けて、あの青く凪いだ景色を目に焼き付けたい。それなのに。それなのに僕は屈腱炎の治療中だ。しかもここは福島だ。福島から京都へ走っていくことは残念ながら物理的に不可能。これはどうしようもできない。頭ではわかっている。
后子は騎手だ。騎手は馬に乗るのが仕事だ。だから僕だけを優先することはできない。わかっている。わかっているんだ。
頭ではわかっている__が。

(けど後からやって来たスノーがこれから后子の代表馬になるの本当に腹立つな……
「ん……? どうしたロジェールマーニュ。何か嫌なことあったか」
(嫌に決まってるだろ……
「凄い顔だな…………そんなに今日の温泉治療が嫌だったのか?」
(そっちじゃない。スノーが后子の代表馬って言われるのが死ぬほど気に入らないだけだ)