【創作|馬軸】春雷 褪色- 花散りて、なお  [了]

七話~最終話です。




デビュー当時からロジェの体重が五〇〇キロ以下になることはまずなかった。私は皐月賞からしかロジェの背中は知らんけど、それでも過去のデータを見る限りはそうやった。
放牧先から帰厩して体調自体は良さそうなのにも関わらず体重が減少している。国美さんは馬房でおがくずを浴びているロジェを心配そうに見つめていた。
輸送で体重が減るタイプではない。一様に皆首を傾げている。というのも、内臓疾患や外傷、飼い葉食いが悪いなど体重が減る原因が一切何もないのに体重が減っているからだ。
考えられるのは一つだけ。ロジェ自身が己の意志で肉体を極限まで絞っている、ということだろう。
極限まで無駄を削ぐ。それを人の手を介することなく、ロジェ自身が必要であると判断したからこその今回なのだろう。雌雄を決すにはそれぐらいしなければ、と知っているのかもしれない。

〝天皇賞・秋〟__。

キングジョージ六世でスワンレイクリターンズに圧勝し、ついに競争能力の本格化を迎えた世代の頂点。フジサワコネクトが待つそのレースに、私とロジェールマーニュは足を踏み入れる。
ロジェの帯同馬として英国遠征に同行してくれたナヴィアヴェラも一応このレースを次走に予定していたが、もう少し休ませたいとジャパンカップへの出走を決めたらしい。ただ、ジャパンカップにもフジサワコネクトの名は上がっている。有馬記念までGⅠを四連戦する、という話は栗東トレセン内でも随分広まっていた。

「四八九キロ……まぁ、体調はいいみたいだし飼い葉も良く食ってる。さっきもニンジン寄こせって言ってきたし。念入りに検査もしたが、特に異常はない。自分で極限まで絞ったんだな」
「国美さん、フジサワコネクト陣営は何か言うてました?」
「嫌になるぐらい自信満々。負ける気がしねえってよ」

私の言葉に苦々しい表情で国美さんは返した。ロジェの隣の馬房にいるスノーホワイトが俺の事忘れんなよ、とでも言うように突如嘶く。私はスノーをあやしながら秋天について考える。秋天から約四週後にスノーが出走予定のマイルチャンピオンシップがあるが、今はとにかく天皇賞・秋__。
フジサワコネクトのキングジョージ六世での圧勝劇は今でも脳裏に焼き付いている。『芦毛の怪物』と呼ぶにふさわしいその走りは、日本のみならず世界にも衝撃を与えた。世界中から瀬川のInstagramにお祝いの言葉が浴びせられ、誰もがフジサワコネクトと瀬川迅一を認めた。
「世界の」という冠が付く。追い詰めた功績より打ち破った功績の方が何倍もの価値を放つ。そんなことは当然だ。私はやはり未だ栄光の二文字を目でとらえているだけで、掴んで食いちぎるには至っていない。

「スノー、チャック嚙まんでや。あぁ~~」

突如スノーが私のジャージのチャックに噛みついて上に引っ張り下に降ろしと遊び始める。スノーはチャックがお気に入りだった。あとタオルも好きやな。

(ロジェばっか構うなよ~~なぁ~~な~~あ~~~~)
「ちょちょちょ、チャック取れてまうからほんま。あああジャージが伸びる」
(ま、ロジェがGⅠ制覇をプレゼントしたとしてもコンスタントに勝てるように導いたのは俺だし~姉御は俺ともひとつGⅠ制覇……ってうわ……ロジェ顔ヤバ……
(おい)
(はい……
(離れなよ。后子は僕に用事があってここに来てる)
(マジでお前情緒不安定だろ。大丈夫?)
(レースでずっとカメラ目線しながら最後逆噴射するやつに言われたくないかな)
(全然関係ない事持ち出してくるじゃん…………

何故か突如メンチを切りだすロジェとスノーは暫く睨み合っていたが、スノーが観念したのか私のジャージから口を離して馬房へ引っ込んだ。ロジェは鬣やら馬服やらにおがくずをくっつけている。さっき盛大にゴロゴロしよったもんなぁと思いながら、私は目についたおがくずを取ってやった。

「頑張ろうな、秋天。相手は強敵ぞろいやけどいつも通りに、な」
(うん)

ロジェは私の方に顔を摺り寄せた。柔らかい鼻先が数度頬に触れる。私はぼんやりとアスコットゴールドカップでの事を思い返す。ハナ差三センチの惜敗。仕掛けどころがもう少し前だったら勝っていたかもしれないレース。
そして、突如目の前に現れた母。私は母について殆ど何も知らない。欧州系の人、外国人、それぐらいなものだ。父も語りたがらない。だから聞く気はないし、知りたいとも思わなかった。幼いころに別れてそれっきりの相手に今更何を問おうというのだろうか。
そんな心中を察したのか、ロジェは私から離れようとしなかった。首をぐいと伸ばし、私を抱きしめるように体を動かす。動脈から伝わる拍動と体温が私の体に触れている。