【創作|馬軸】春雷 褪色- 花散りて、なお  [了]

七話~最終話です。




『大逃げするな』__というのは、国美の指示だった。后子はそれに従い、僕__ロジェールマーニュも反抗はしなかった。
反抗してハナを奪って逃げても勝てない。一年前とは違う。それはもう良くわかっている。僕自身が良く知っている。体重を軽くしたのはできるだけ脚へかかる負担を減らそうと試みたからだ。
自分で勝手に体をつくる馬なんですよね、と以前国美が誰かにそう言っていたが、そういうことのようだ。僕自身そこまでそれを意識したことはなかったけれど。
そうしても届かない。フジサワコネクトの強さを改めて目の当たりにした。悔しいが、届かなかったのが現実だ。これは受け入れるほかにない。
鞍上の后子は特に何も言わず、いつも通り来た道を通って帰るように指示する。僕はゆっくり歩きながら戻っていく馬の隊列に加わった。

……僕は、恐らくもう)
「ロジェ」

后子はいつも通り優しい声で僕に呼びかけた。首筋を撫で、鬣に触れ、何度もいつもと同じように撫でる。そう、いつも同じように。

「よぉ頑張ったなぁ。えらい。えらいなぁ。ほんまにいい子。凄いで。帰ったら梨むいてもらおうなぁ。……あ、せや。なんか渚ちゃんがな『ファンの方から厩舎あてにニンジンが届いたんです!』て喜んでたわ。ニンジンもあるかもよ」
(后子__でも僕は今日、勝てなかったんだ。フジサワコネクトの強さに膝を折ったんだよ)
……ああ。……悔しいんやね。次は勝とう、ロジェ。もっと長い距離なら負けへんやろ? ……私も、本音は悔しいさかい」

后子はほんの少しだけ言葉に悔しさを滲ませながらそう言った。僕は地下馬道に入って、『3』の番号があるところで待っている渚と国美を見つける。そこで止まり、后子は僕の背中から降りた。
いつも通りの彼女がいる。両手で僕の頬に触れ、よしよしと撫でてくれる。まるで勝った時のようによく頑張ったと皆が僕を褒める。国美も、渚も、后子も__知っているはずだ。彼らは僕より僕のことを知っている。

(知っているはずだ。僕がもうあの速度で、あの走法で駆け抜けることができないことを)

困惑しながら后子に顔を向け、助けを求めてみる。后子は僕の意図を理解したのか、一度微笑んで僕の首筋に手を置いた。

「無事是名馬、て言葉があんねん。元気でいてくれること。大事なことや。競争成績以上に、な」
…………でも……
「ええんよ、ロジェ。元気でいてくれたら。そんだけでええ。応援してくれてる人らは、確かに勝ってほしいと思てる。でもそれ以上に、ロジェが『元気に走ってくれること』を願ってるんやで」
(元気に、走ること……

走ることは好きだった。風より速く、音より軽く駆け抜ける。そうすれば景色と僕と、背中にいる后子だけだ。誰もいない、青く凪いだ景色が好きだった。最近はそれから遠ざかっているけれど、后子が傍にいてくれるのでそれが見えなくても別に良かった。
競走馬になるために生まれてきた。だが、期待はされていなかった。悔しかったからたくさん食べて成長し、ここまでやって来た。競争能力の本格化を迎えて、大きな舞台を駆け抜け、そして僕の競争能力は大輪の花を咲かせた。
花は枯れる。本格化すれば、そこから先は緩やかに下降していく。無論ピークは馬による。
僕は恐らく春にそのピークを__すべて使い切ってしまった。


(それでも僕は、君と一緒にもう一度__いや、何度でも。…………后子)

僕は后子と行きたい場所があるんだ。辿り着きたい場所があるんだ。
もう一度、あの青く凪いだ音のない誰もいない静かな場所へ。
他の誰でもない君と、僕は一緒にそこへ行きたい。君じゃなきゃ嫌なんだ。君と一緒がいいんだ。
唯一無二の相棒と駆け抜けたいという夢を叶えてくれた君。白綾后子。
僕は后子と、他でもない君と__。

一緒に、見たい夢がある。