【創作|馬軸】春雷 褪色- 花散りて、なお  [了]

七話~最終話です。




国美厩舎の看板馬、と言えば、以前はよくロジェールマーニュの名が挙がっていた。だが今は、スノーホワイトの名前が挙がる。というのも、年明けの京都記念で鬼強い牝馬を下して一着でゴールインしたからだ。
単に彼女に勝った、というだけではこの騒ぎにはならへん。問題は、短距離・マイルを主戦場とする馬が中距離レースの京都記念であっさり勝った、という部分。短距離・マイル・中距離の三階級制覇は、誰もが憧れて挑み、そして敗れている。未だ誰も成し遂げていないその偉業を気分屋な白馬が舌をべえと出しながら盗んでいった。

私__白綾后子はその一件で随分と盛大な扱いを受けた。せやかて実際頑張ったのはスノーやさかい、私はちょんと鞍の上でリュックサックをかましていただけやからなぁ。褒めるならスノーホワイトを褒めてください、という旨のコメントを勝利騎手インタビューでも言った記憶がある。馬場も味方してくれたと思うし、様々な因子がうまく嚙み合っての勝利やったと思う。

その勢い儘に、スノーはドバイターフへ出走した。私はドバイには行ってない。というのも丁度ドバイターフ一週前に阪神大賞典があって、私はロジェとそこに出た。んでもってその翌週__三歳限定戦の毎日杯にベテルギウスと出なあかんかったので、スノーは昨年イギリスで友達になったリンデンに託した。存外いい子にしていたスノーは、リンデンに導かれ舌をべろべろさせながら一着同着というドバイターフ史上初の偉業を成し遂げたのだった。

私がロジェの背中に跨れるのは残り僅かだ。六月の末__春のグランプリ、宝塚記念。
そこがロジェールマーニュのラストランとなる。ロジェはずっと思うように速度が出ない自分自身の体に憤りを感じていて、最近は随分苛立っていた。そのせいかここのところ成績が低迷しており、勝てるレースで勝利を取りこぼしている。阪神大賞典も__天皇賞・春も、勝てたレースだった。
確かにエリカミストレスもファロルヴェールも強敵だったが、私がもっとロジェに寄り添っていれば勝てたレースだった。その確信は後悔となって、錆のように私の身にへばりついている。

私が、もっと寄り添っていれば。もっとロジェの思いを汲み取れていたら。
私がもっと__巧い騎手であったら。

検疫から帰厩したスノーは、ずっと苛立っているロジェにちょっとビビっている。心配そうにじっと見つめていることもあるのでやはり思う部分もあるんやろけど。

私は国美厩舎に入って、馬装を済ませているロジェの顔を優しく撫でる。ロジェの横で手綱を握る渚ちゃんは相変わらず元気な声で私に声を掛けた。目を細めて喜ぶロジェは、猫のように大きな体を私に寄せて「もっと」となでなでを要求する。
撫でてやりながら、ふと頭に過るものがあった。ここのところ付きっきりで調教をつけているが、これでいいのかという不安。私のせいでロジェを栄光から遠ざけてしまったではないか__という、根拠のない不安。
今日は乗り運動だけのメニューが組まれている。私はロジェの背中へ体を乗せて、厩舎の前をぐるりと一周歩かせた。特におかしい所はない__軽症だったのがよかったか、脚の状態は良くも悪くも変化してはいなかった、と国美さんには聞いている。実際歩様はおかしくないし、普段通りにしっかりと地面を捉えて歩けている。


(私の仕事は、ロジェのラストランを無事に終わらせ、神代リゾートファームへ無事に戻すこと)


宝塚記念の勝ち負けにはこだわらない。それは以前から国美厩舎の中で話し合われ、神代さんとも共有されていることだった。
重要なのは、ロジェールマーニュという名馬の血を次代へつなぐこと。
無事に競走馬としての馬生を終わらせ、故郷へ帰すこと。
私は騎手だ。馬が誇れる騎手になりたい__そう思ってきたけれどそれだけでは駄目だった。
足りないものがある。志と、技術と、あとひとつ。

「私は……
……? 后子?)

不思議そうにロジェは私の方へ首をぐい、と回して気にする。なんでもあれへんよ、と首筋をぽんぽんと叩いてやり前を向かせた。だが片方の耳はずっとこちらを向いているので器用に私を気にしているらしい。

「私は…………
(后子)
「ロジェ?」

ロジェは地面を左前脚でざり、ざりと引っ掻く。地面に一筋の線がうっすらと描かれた。私はその様子をぼんやりと眺めながらロジェの首筋を撫でてやる。

(何を憂いているの)
「心配してくれてるんやね。…………ありがとう」
(僕がもう、あの頃のように走れないから気を揉ませているのはわかっている。僕は、もう)
「ごめん、ロジェ。私、もっとロジェの思いを汲み取れるように頑張るさかい、もうちょっとだけ付き合ってや。…………宝塚記念が最後やから。勝って終わりたいねん」

それは私の願いだった。あまりにも身勝手で、ロジェの心を置き去りにした私の夢だった。ロジェールマーニュは十分頑張ってくれた。もう頑張らなくてもいいぐらいに頑張って走ってくれた。私の激に応えて只管に走り、先頭を駆け抜けた。
相棒を名乗るなら「もう頑張らなくてもええんよ」ぐらい言えたらよかった。私はロジェの首筋を撫でながら思う。

それでも私はロジェールマーニュという馬に夢を見た。ロジェールマーニュは、シャルルが最初に見せてくれた夢の景色を見せてくれた。
だから何度でも夢を見てしまう。またあの速度で駆け抜けることを。

風よりも速く__音よりも軽く、そして全てを置き去りにしていく。

そういう圧倒的な速度を持った、正しく〝理想のサラブレッド〟だった。
逃げて良し、追い込んで良し。何でもできる。どんな馬場でも速度は落ちない。そして何より、どんな戦法をとっても最速の末脚を伸ばす。


『后子』
「へ?」
『勝つよ、后子』


私の耳を叩く、声がある。ついに幻聴が、とか考えたが、その声は間違いなく私の耳を叩いていた。鼓膜を揺らし、内耳へ音を伝達していた。


『勝つよ、后子。__君の夢だというのなら、僕がそれになってみせる』