はるの
2022-10-07 21:33:22
86681文字
Public X-MEN
 

ムーンレイカー

全年齢|cherik|2022.10.7|DP後、チャールズが人生に一区切りつける話。チャールズの過去をフリ~~~ダムに捏造しています。



 夢の中でのエリックの物言いからすると、彼は自分が寝ている間、テレパスの届く距離にいたはずである。
 けれどその後、彼からの音沙汰は一切なかった。チャールズはハンクにそれとなく尋ねてみたけれど、エリックの話題を出した途端、全力で嫌そうに会話を終了されてしまうので、かけらも情報を得ることはできなかった。ちょっとは和解したんじゃないのかこのふたり、と思いながら、かといってセレブロで自分から探しにいくのも癪で、なあなあとそのまま放置中だ。
 アポカリプス事件のあとは、ときどき会うこともあったけれど、チャールズがメディアに出て忙しくしはじめると、結局エリックとは会うことがなくなった。だいたいのところ、自分たちはそういう感じなので、まあ、今さらという気もする。
 チャールズは十分な時間をかけて、万全の健康を取り戻した。
 ハンクとの距離感は、相変わらずだ。気を許した関係ではあるけれど、やっぱり以前よりは少しだけ遠い。でも、お互いにきっちりと自立した、と言えるのかもしれなかった。ちょっと共依存の気もあったわけだし。また依存症! とハンクの裏返った声が聞こえるようだ。
 そんなふうにして、チャールズは身ひとつになった。
 そのきっかりばっちりのタイミングで現れたエリックには、正直盗聴とかされていたのではないかと思う。つけ狙い方がまさしくナチハンターのそれだった。旧友を仕留めようとするな。馬鹿じゃないのか。



 行き先にパリを選んだのは、パリ平和協定のあの日が、世界の大きな分岐点だったからだ。
 いろいろな『もしも』は夢で見たけれど、実際、自分の手で『未来そのもの』を選択したのは、あのときだけだった。
 ローガンが屋敷に訪れたとき、もし彼の提案を蹴っていたら、とチャールズは考える。そうしたら、少なくとも、ジーンがレイブンを手にかけてしまうようなことはなかっただろう。けれど、今の文明は滅亡する。どちらがよかっただろうか。
 どうせ、答えのない問いだった。浮かんできた自嘲とともに、チャールズはカップを手に取る。コーヒーのいい香りが、鼻をかすめて散っていった。
 というか、未来の自分は、よくこんな自分に世界の命運など託せたなと思う。自分だったら絶対に無理だ。どうせろくなことをしない。
 それとも、彼にはマグニートーがいたから、もう少しまともで、何もかもを託せるような自分に成長できたのだろうか。
 生涯を通じて、彼のイデオロギーと対立し、ミュータント主義を掲げる彼に、対話と調和を説き続けていたら。X-MENを人間の役に立つチームではなく、ブラザーフットへの抑止力として育てていたら。少しは自分に自信が持てる、何かを得られたのだろうか。
 目の前でチェス盤を挟みながら、熟考するエリックをじっと見つめる。
 自分の選択はこの世界から、早々に『マグニートー』を消し去ってしまった。果たしてそれは、よかったことなのだろうか。
 ふいにエリックは、すっと表情を落とした。何も映らない鏡のようなすまし顔で、ひょいとキングを中央に寄せる。それから何でもないふうに、じっとこちらを見つめてきた。明るく晴れた日の中で、何色にも見えて透ける彼の虹彩。チャールズは自身の目をきれいだとよく褒められるし、自分でもよく調律された遺伝子だなと思っているが、彼ほど感情深く、一度見たら忘れられないようなまなざしはないだろう。これは、遺伝子ではなくて、彼そのものが積み重ねてきたあらゆるすべてだ。
 チャールズは、鼻で笑った。エリックがこういうすました顔をするときは、いい手を思いついて内心ではにやにやしているときである。こんな無邪気なマグニートーでも、存在したほうがよかっただろうか?
 考えても、詮無いことだな。
 あっさりとそう切り捨てて、チャールズは持っていたカップを下ろした。盤面を見れば、そう変化のない簡単な局面である。けれど、彼は絶対、何かをうまいことやろうとして、手ぐすね引いているはずだった。つまり、よく考えなければならない局面だ。これをそこに置くとあれがこうなって、それからあっちがこうなって。白と黒を交換して、黒も白を交換するから。
 ――お前がしてくれたことと同じことを、俺もしたい。
 何も考えずに、チャールズは顔を上げた。
 じっと見返すと、エリックは少しだけ首を傾げる。よく見ると後ろ髪がぴょんと跳ねていて、ものすごく気が抜けていた。
 もしかしたら、こんなマグニートーでも、必要だったかもしれない。
 今だって、もしかしたら、必要としている人がいるかもしれない。
 でも。
 それでも――
「もしかしたら、『プロフェッサーX』を必要とする誰かが、まだいるのかもしれないが」
 エリックはふいに、そんなことを口にした。ときどき、彼もテレパスなのではないか、と疑いたくなることがある。
――もういいよな? 俺がもらっても」
 そう言って、チャールズの古い友人は、ごく単純な笑い方をした。
 小さな子供がでかいカブトムシを捕まえてきたときのような、ろくでもなくて、かわいらしい笑みだった。
 ――ああ、うん。そうだね。このすっとぼけた男は、もう髪の先まで僕がもらうね。
 だからチャールズは、素直にそう思った。なんだかもう、それ以外にない気がしたからだ。
「うぬぼれが強いやつめ」
 けれど、口上ではそう言った。しかめっ面を作ってやれば、エリックは気取ったように肩をすくめる。
「否定が出なかったな」
「あのねえ、NOと言われないことは、YESと言われたわけでもないんだよ」
「なら今すぐNOと言えばいい」
「そういう問題じゃなくて」
 ごちゃごちゃと言い合いながら、チャールズはとりあえず、安全を取ってルークを進める。するとすぐさま、エリックのナイトが飛んできて、これは完全に相手の手のひらで踊らされている、と唇を食んだ。むぐむぐしながらしばらく考えて、チャールズは不満いっぱいにエリックを見上げる。
「そもそも僕は、まだ君に謝ってもらってない」
「どの件だ?」
「サイテーだなその返し!」
 しばらく盤外でも頑張ってみたけれど、結局その一局は敗北を喫してしまった。確かに、しばらくチェスなんかしていなかったし、心のレイブンが言うとおり、さぼっていたらすぐに追いつけなくなるだろう。エリック・レーンシャーとはそういう男だ。
 手加減するって言っただろ、と駄々をこねると、そうできなくなると言ったのはお前だ、と返されて、チャールズはぎゃふんとなった。






 青い海、青い空、白い砂浜。
 そういうものが見たい、とチャールズが申し出たとき、エリックは心得顔をした。
 任せておけ、と言わんばかりに、彼は航空チケットを手配して、さっさとチャールズを連れ去っていく。まるで勝手知ったるありさまで、どこの港へ向かうとか、どんな魚がうまいとか、得意げに説明するエリックは、ほぼ完全に浮かれていた。さもなくば、陸での勤めを余儀なくされていたポセイドンが、やっとホームへ帰れるようになった、とかそういう感じのテンションだ。こいつはいったい、いつ磁界王から海神に転職したのだろう。そんなことを胡乱な表情で考えながらも、チャールズはタクシーの車窓を眺めていた。赤いハイビスカスが咲いていなかった場合、海沿いの雑貨店あたりで髪飾りを買って、エリックの頭に装着しなければならない。そんな浮かれた算段をしながら。
 海を臨む町は、穏やかな様相だった。地元の人が行き来していて、観光客も同じくらいだ。石畳を跳ねる自転車、カフェのテラスでビールを飲む人々、どこかの誰かが寄贈した躍動的な誰かのブロンズ像と、その頭に止まって羽を休めているカモメ。そんな、のんびりと流れる午後の向こうに、ヨットハーバーが見えてくる。
 深い青がきらめく海に、真っ白の船体が並ぶ光景は、ひどく目に鮮やかだった。タクシーを降りて、そんな景観に感心している間に、エリックは近くの売店に入っていってしまう。チャールズが追いかけようか迷っている間に、彼は食べ物だか何だかを一抱え買い込むと、今度はまっすぐ港の中を進んでいった。手押しつきの車椅子に乗り換えるべきだったなと思いながら、チャールズは活発な彼になんとかついていく。するとエリックは、ふいにぴょんと大きく跳んで、停泊していたセーリングヨットのひとつに飛び乗った。
……は?」
 いや君、さすがに浮かれすぎじゃないか、とドン引きしながら、チャールズは手を止める。
 ぴたりと止まった車椅子を、エリックは得意そうに振り仰いだ。それから右を見て、左を見て、そっとこちらに手を向ける。途端に車椅子はふわっと浮いて、チャールズまで不法侵入の片棒を担がされてしまった。
「ちょ、エリック!」
 さすがに焦って、近づいてきた男にしがみつく。お前何してくれてんだ、というつもりで胸倉を掴んだのだが、エリックは好都合とばかりにチャールズを抱えると、デッキのソファにやさしく下ろしてくれた。撥水加工はされているが、十分に柔らかいマットだ。いや、でも今必要なのは、間違いなくこの気遣いじゃない。
「いくつか浜を見せてやるから、どこがいいか選べ。砂遊びしたければ、あとで連れて行ってやる」
「いや、エリック。いや、ええ? ちょ、ほんと何してるの。我が物顔か?」
 言っている間に、エリックはブリッジへ上がって、てきぱきと何かのチェックをした。チャールズは必死に振り向いてソファの背を掴み、少し高い場所にいる彼を見上げる。もしかしてこのヨット、レンタルでもしたのだろうか。それにしたって、少なくとも、契約の取り交わしとか、運転手の手配なんかが必要だと思うのだが。
 こちらの焦った顔を楽しそうに見下ろして――本当に楽しそうだ、ちくしょう――、エリックは顎を持ち上げた。
「そりゃ、我が物だからな」
――は、はああ?!」
 同時に、エンジンが鳴いて、モーターの回る低い音が響き渡る。
 そうしてチャールズの旧友は、夢の中での前言どおり、健康で太陽の下にいるチャールズを、誰もいない場所まで攫っていってしまった。



「ねえ、こういう船って、航行に船舶免許がいるんじゃなかったっけ……
「そうだな。だがこの国じゃ買える」
「それ、嘘じゃないだろうね……?」
 ある程度沖まで出ると、エリックはエンジンを切って、ふわっと浮いてデッキまで降りてきた。視認できる範囲にほかのヨットはいるものの、注視して目を凝らさない限り、誰が何をしているかなんてまるで分からない距離だ。すでに港は遠く、広がるのは青さだけだった。
 気持ちのいい潮風。カモメののんきな鳴き声。潮騒とは言えないが、船体を叩く穏やかな波の音。
 あなたの大切な人が、あなたの名前をやさしく呼ぶ――
「チャールズ」
「うん、ちっともやさしくない……、含んだところしかない」
「まあそう言うな。ちゃんと合法だぞ」
「合法という言葉をこんなに薄っぺらく感じたことはないよ。このヨットだって、どうやって手に入れたんだか」
「そりゃ、俺はお前みたいに金持ちじゃないけどな。金を作ることと、伝手を作ることと、うまく商談をまとめることは、お前より得意だと思うぞ」
「島で軟禁されてたくせに?!」
「船に詳しい釣り人は、どこからでもやってくる。チャールズ、彼らはいい漁場があれば、そこがミュータントの巣窟だろうが、かけらだって物怖じしない。我々はいっそ、サピエンス、ミュータント、アングラー、で分類されるべきだと思う」
「何その釣り人への熱い偏見……、何があったんだジェノーシャで……
「それに、お前が必死に野菜だらけの飯を食っている間、いくらでも時間はあったんだ」
 すとん、と隣に座ったエリックの頭上で、ゆらりと勝手に帆が角度を変えた。船体は風を受けてゆっくりと旋回し、遠くの海岸線をなぞるような進路を取る。ひとりでに動いている舵は、まるで主に従順な様子だった。
「まあ、この船が普通の船と同じように動くかは、一切保証しかねるけどな」
 そう言って、エリックはソファにもたれかかる。きっとこの船は、この男の命令ひとつで、風がなくても進むのだろう。
 たとえエンジンが壊れたって、たとえマストが折れたって、すました顔で悠々と。
 隣で潮風に吹かれながら、心地よさそうに目を閉じている友人を見つめる。
「どうして?」
 チャールズは、自分の中の卑屈な部分がくしゃっとしたのを感じながら、そう問いかけた。
「君は何を得るために、こんな大掛かりなことを?」
 するとエリックは、片目だけ開けた横着な感じで、ちらっと視線を寄こしてくる。
 深々とソファに座ったまま、まるっきり何でもない表情だった。
「別に。ただ、お前は海を見たがるかなと思っただけ」
――エリック」
「なんだ。もしかして船酔いするたちか? 確か薬があったはず……
「いいから。座って。つまり君は、僕がなんとなく海を見たいだろうなと思って、じゃあいっそ海の上に連れ出すのが一番だなとか、あっホワイトハウスにバリケード作るならスタジアム使えばいいことない? みたいな1歩のでかいことをまた考えて、何千万する船をうまいこと手に入れたってこと? 免許の申し込み用紙にエリック・レーンシャーと書いて、真面目な顔して提出したわけ? エリックが?」
……反論したい箇所はいくつかあるが、お前、変なところに食いつくな……。そりゃ、チャールズ・エグゼビアと書いたらいろいろおかしいだろ」
「そういう、そういうことじゃなくて」
「何なんだ。どうした。トイレか?」
「違うよばか! なんとなく、僕が海を見たいだろうなあって、それだけで?」
「それ以外に理由がいるか?」
 かつて、その力で地球すら動かすと恐れられたミュータントの王は、今、キョット~ンとしたあほ面で、穏やかな潮風に撫でられていた。
 もういっそ唖然としたような気持ちで、チャールズはそんな旧友を真正面から見つめる。
 ゆるさ丸出しになっていたエリックは、ふいにもっとゆるゆるに口元をほころばせると、そっと腕を伸ばして、チャールズの頬を親指でこすった。
 ――何か明るくて楽しいことを思い浮かべてみなさいよ。たとえば、青い海。青い空。
 ――素敵なことを思い浮かべると、素敵な気持ちになるでしょう?
「こんなふうに過ごせたら、ちょっといいなと思っただけだ」
 チャールズは、詰め寄るように寄せていた体を戻して、座り直した。まっすぐに前を向いて、ぐっと口元に力を込める。
 エリックは、ちょっと大げさな態度でこちらを覗き込んでから、そのまま自分も座り直した。触れ合っている太腿から、体温を感じられればいいのに、とチャールズは思う。すぐさま、ソファの背もたれに沿うように、ぬくもりを感じる腕が肩に回されて、チャールズはもっと顔に力を込めた。今、相当な変顔をしている自信がある。
「それから、ジェノーシャを出たから、俺には政府の監視がついているんだが」
「は? 待ってくれ、初耳だ」
「初めて言ったからな。だから、品行方正でいなくちゃならない」
「それでこの態度か? まさか今も見られてるんじゃ――
 チャールズは思わず、自分のこめかみに指を当てた。岸までの距離程度であれば、こちらを注視する意識を拾うなどお手の物だ。そして、そのとおりにひとりの捜査官を見つけて、沈痛な面持ちでそっと指を下ろした。
 そのまま、両手で顔を覆う。
「君の監視役、『これから死ぬまでハネムーンか、いいご身分だな』って思ってる」
「読むのは構わんが報告するな、そういうことを」
「僕ひとりだけいたたまれなくなるのはずるいだろ?! 君も一緒にいたたまれなくなるんだよ! というかなんて言ってジェノーシャを出てきたんだ君は……!」
「普通に、友人に会うからと。あと、ともに住む場所を見つけてともに生きるつもりだと」
「それね、もう完全にプロポーズ、それだけ聞くとね、もうね、完全にだよ。僕らの間の文脈を知らない人全員に誤解されてるよ、それ」
 すっとぼけた声でとんだ答えを繰り出してきたエリックに、チャールズは切々と言い聞かせた。人のことをさんざん自由だのマイペースだのやりたい放題だのと言うくせに、自分がそうだという自覚はないらしい。
 頭を抱えながら懇切丁寧に説明してやったというのに、エリックはこちらの話を聞いているのかいないのか、ふいに悪いことを思いついたような顔をして、肩に回していた手を引き寄せてきた。
――それ、本当に誤解か?」
 からかうような軽い声が、物理的に耳元をくすぐる。
 チャールズはぱっと顔を引いて、鼻先でにやにやしている世界一好きな顔を、好きなだけめいっぱい睨んだ。それから両手でその顔を押さえると、相手が倒れるまで押しのけてやった。



 揺れすら主の一存で制御される従順なヨットは、実に穏やかに航行した。
 エリックは車椅子と一緒に放置されていた買い物袋に気づいて――忘れてたのか君――、まとめて船内へ持ち去ると、今度は氷つきの炭酸水を入れたグラスを持って現れる。デッキのテーブルにそれを並べながら、アイスクリームは蘇生できないかもしれない、と難しい顔で言い出すので、チャールズは思わず吹き出しそうになった。なんとか厳しい表情を作って、君がぼやぼやしているからだと指摘すると、エリックは訳知り顔で肩をすくめる。
 静かな海上で、ふたりは特に会話を交わすこともなく、満ち足りた沈黙を楽しんだ。手持ち無沙汰になればチェス盤を開いて、眠くなればソファの背を広げて平らにして、横になって昼寝する。しゅる、と穴金具のついた白いサンシェードが勝手に広がっていくのを、寝転がって見るのはなかなかに面白いものだった。そこそこで航行をやめていたヨットは、ただ近海にぷかぷかと浮かぶだけだ。人の営みから離れ、他者の感情を遠くに感じる安らかさも、なかなかに心地よいものだった。いや、正直に言うと、なかなか、なんて言葉じゃ足りないくらい。
 まあ、エリックは近くにいるのだが、もはやエリックなど自分の体の一部みたいなものだ。今さら気にする必要もない。
 サンセットは、ハワイで写真にされるようなものではなく、ただひっそりとしたものだった。昼寝から起きたふたりはそれを並んで眺めて、怠惰だなあ、なんて言い合う。お前、浜を見つけるんじゃなかったのか、と訊かれて、チャールズは白い砂浜のことをすっかり忘れていたことに気づいた。なんなら、ハイビスカスのこともだ。まあ、それはまた次の機会に。しれっとした顔を作ってそう答えれば、エリックは小さく顎を上げる。次ってことは、プロポーズ成功か? チャールズは、おなかにかけていたバスタオルを丸めると、素晴らしいスローイングで浮ついたことを言う顔に投げつけた。エリックは笑いながらそれを受け止めて、船内に引っ込んだかと思うと、そのうちいくつかの軽食を出してくる。まさかレンジつきのギャレーまであるのかこの船、とチャールズはちょっとだけ引いた。本当にいったい、どんな手を使って手に入れたんだか。
 ぽっと小さな明かりがついて、ずいぶんと暗くなっていることに気づいた。自動でついたわけではなく、きっとエリックの操作だろう。海に出てからというもの、エリックは能力を大盤振る舞いだった。実に生き生きとした様子である。
「逃避行ごっこが済んだら、どこかにアパートを借りようか」
 ぽつんと夜の中に浮かんだまま、きらきらとさざめく水面を眺めて、エリックはそう言った。
 チャールズは、彼が出してくれたぬるいビールをちびりと舐める。ただ楽しむだけの飲酒は、ものすごく久しぶりだった。おいしいものだなとしみじみ思いながら、倒したままのソファに座って、エリックの視線をついとたどる。
 まるで用意されていたかのように、今日はちょうど満月だった。いや、少し欠けているが、つまり、だいたいのところは。
「君、ジェノーシャは?」
 たぶん、彼はあの地の主であることからも引退してきたのだろう、という予感はあったけれど、聞かずにはいられなかった。この男は僕がもらう、と決意はしたものの、もし彼が予想に反して帰ると言い出したとき、そばにいてくれと乞える自信はあまりない。こんな恐ろしい願いを、あのキューバの浜で、エリックはよく口にできたなと思う。本当に、総じてやたらに心の強い男だ。
 エリックは、月の映った水面から目を離すと、こちらを向いてちょっと笑った。
「死ぬまでハネムーンするために船を用意するようなやつが、島に全責任負ったまま浮かれて飛び出すと思うか?」
……言い方ずるくない? そんなふうに言われたら、まあそうですねと言わざるをえない」
「一応、責任者としての責務は果たしてきたつもりだ」
「君、落ち着いたいい暮らしができてたのに……
「ああ、いい暮らしだった。みんないいやつだったし、居心地よかったよ。ただ、お前はいないからな」
 穏やかな微笑み方をして、エリックはぬるいビールのグラスに口をつける。
 そんな様子を横目に眺めて、チャールズは少しだけ考えた。言おうか言わまいか迷って、ぽろっとそのかけらがこぼれる。
……僕が」
「お前を連れていく気もない。お前、あいつらに、うわ死ぬまでハネムーンの人が来た、とか思われたいか?」
「だからさ、言い方」
「俺はごめんだ」
 エリックは軽く笑って、グラスを置いた。ちゃぷん、と海から水の跳ねる音がして、彼はそちらに目を向ける。
 たぶんエリックは、自分がもう、多くの誰かとかかわりたいとは思っていないことを、察しているのだろう。チャールズはそう考えて、少し多めにビールを口に含んだ。その苦さをぐっと飲み込んでから、ぱっと横を向く。
「分かったよ。じゃあ、アパートね。車椅子でも過ごせるタイプにしてくれよ。この船、何をするにも君だよりで、居心地が悪いったらない」
「俺はとても楽しい」
「悪趣味」
 こちらを向いてにやっと笑ったエリックに、チャールズはむくれ顔を返した。そんなやりとりにそっと笑って、エリックは後ろに両手をつく。今度は水面ではなく空の月を見ているようで、広げられたままのサンシェードが、半分倒れたエリックの体に光の直線を横たわらせた。
……小鳥でも飼おうか」
 ふいにそんなことを言われて、影の中にいるチャールズは瞠目する。
「やっぱり君、覚えてるの?」
 自分の声が、あまりに驚きと、ある種の怯えを含んでいたからだろう、エリックはちょっと驚いたような表情になった。
「日に日に忘れていくけどな。お前が大事にしていたことは、まだうっすら覚えている」
「ああ、そう……
「なんだ、覚えてられると困るのか?」
「僕の自意識の塊なわけだから、そりゃ恥ずかしいに決まってるだろ」
「お前でも人並みに恥ずかしいって思うんだな」
「君はどうあっても僕に喧嘩を売りたいようだね」
「冗談だ」
「分かってるよ。つまり僕は、そういう冗談を言わないと気が済まない君の底意地の悪さを指摘している」
「そりゃどうも」
……本当に、飼うつもり?」
「俺はどっちでもいい。お前さえいてくれれば」
 ぱしゃん、と再び水音が鳴る。魚がいるな、とエリックはつぶやいて、再び水面に視線を投げた。
 チャールズは、隣で楽に投げ出されている体を見下ろす。それから慎重に、猫が忍び歩きをするように、そっと傍らに手をついた。彼の胸をまたぐようにして、月明かりの中に身を乗り出す。見上げれば、サンシェードの向こうに白い月が浮かんでいて、本当によく晴れた夜だった。
 いつか小鳥と話した、ムーンレイカーの話を思い出す。馬鹿をやりながら、それでも最後には欲しい宝物を手に入れて、ほくそ笑む悪者の話だ。
 エリックの手が、やさしく背中に添えられた。本当はいつだって待ち望んでいた体温に、ぎゅっと目を閉じてから、水面に視線を転じる。
 いくら凪いでいるとはいえ海なので、映る月は波でちらちらとしていていた。けれどなんとか、丸く見えないこともない。だろうか。
「ほらエリック。あそこに丸いチーズが見える。どうにかしてすくえないかな?」
 ためしにそんなことを言って、チャールズは水面を指差してみた。起き上がったエリックは、馬鹿なことを言った悪者の体を抱き込みながら、差されたほうに顔を向ける。
 それから少し眉をひそめて、こちらの顔を覗き込んできた。
「腹が減ったのか? さっき食べたばかりだろう。丸くなるのはお前のほうだな」
 そんな暴言を聞いたチャールズは、もちろん、瞬時にジト目になったものである。
……エリックって、ほんと情緒が残念だよね」
「は?」
「誰のおなかが丸いって?!」
「うわっ」
 ドドドド失礼なことを言いやがった友人に、チャールズは掴みかかった。両足が使えないからって、何もできないと思ったら大間違いだ。ドン、と体重をかけて押し倒せば、エリックはぐえっと情けない声を上げた。ざまあみろ。
「腹も丸けりゃ頭も丸いか! そりゃ愉快だな!」
「そこまでは言ってないだろ!!」
 そんな、馬鹿丸出しのことを言い合いながら、どたんばたんと大はしゃぎする。
 ちなみに、このヨットは景観を重視しているようで、ソファのすぐ脇は海だった。なんなら、そのまま海水浴が楽しめるように、飛び込みやすくなっているまである。
 つまり、ふたりはそのうち転げ落ちて、派手に海に突っ込んだ。
 エリックがいる以上、『うっかり』でこんなことにはならないはずなので、これは話を強制終了させようとした、やつの策略に違いないのだ。チャールズは口惜しく思いながらも、水中で喋る特殊能力を持たないので、エリックの思惑どおりに押し黙った。
 真っ暗闇に、吐く息の丸さが、おぼろげに立ち上っていく。
 耳をふさぐ水圧と、口に入り込む塩辛さ。足が動かない本能的な恐怖に、両手は必死に目の前の体を掻き抱く。力強く抱き返してくれた両腕に安堵すると同時、ぐっと浮力がかかって、顔が海面を割った。
 止めていた息を盛大に吐き出すと、チャールズの首元に頬をくっつけているエリックも、同じくはあと息を吐き出す。それから続けて、はは、と笑い声を上げた。チャールズを抱えているはずなのに余裕で浮いているエリックは、楽しそうに笑ってから、顔を起こして目を見合わせる。船の明かりでかろうじて分かる、びしょ濡れの彼の表情は、こんなふうにして出会ったときとはまったく正反対の代物だった。
「ずいぶんなことをしてくれたな。サメでも来たらどうするんだ」
 チャールズはやっとの思いで、そんな憎まれ口を叩く。
「君と海に来ると、決まって最高な思い出と最低な思い出が抱き合わせなんだ、いっつもそう」
 海水が目に入って、両手で乱暴に顔をぬぐった。こんなふうにして出会ったときは、喋るのも精いっぱいで、あっぷあっぷしていたのに。
「最低な思い出?」
 やさしい声なんか出して、エリックはチャールズの腕を取る。彼は人体も浮かせることができる能力者なので、こんなところでふたりがおぼれる心配もないのだ。
「君に弾丸を撃ち込まれた!」
 顔を暴かれてしまったので、チャールズは遠慮なく噛みついた。わっと叫べば、彼はちょっと顔を引いて、でも態度は引かない様子で、やさしく笑う。
「なるほど。それはそうだな。じゃあ、最高の思い出は?」
 絶対に、分かって言ってる、この男。
 チャールズは、本当に口惜しかった。くやしくてくやしくて仕方なかった。
 どうして、君だったんだろう。どうして、君じゃなきゃだめだったんだろう。そんな自問を今までずっと、この男だってしてきたはずなのに。
 こんなにも迷いがないなんて。
「君に会えたことだよ!!!」
 結局、黙っていられなくて、チャールズはそう吠え立てた。
 エリックは、それはそれはうれしそうに笑うと、そんな旧友の頬をやさしくつねる。
「ああ、ずっと会いたかった」
 それからそんな馬鹿を言って、チャールズを腕の中にしまい込んだ。