河童の皿箱
2025-12-18 09:11:15
41671文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、楽人であった。

あるグループがグループになる前、昔のさらに昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 鉄工と商人が櫓を登れば、目を見開いた。なんと、あの子供がもういるのだ。普段であれば、もう少し遅い時間にどこかの道で鉄工と合流し、それからここへやってくるというのに。けれど楽人はニコニコと笑ったまま、やはり口を開く気配はなく。今日は冷えるから、詰所で本を読みなさいと、商人が提案すれば、楽人は何も言わずに頷いて、コトを背負い、ともに櫓を降りた。
 ふ、と。鼻先に冷たいものが当たる。なんだろうと目を凝らしてみれば、白いものが空から落ちてきて、わずかな間だけ地に残り、とけて消えていく。そうか、もうこんな時期かと、鉄工が目を細めれば、それじゃあ寒いわけだよなと、楽人に話を振ってみる。けれど楽人は何も言わず、にっこりと笑ったまま、真っ黒な空を眺めていた。鉄工は頭を掻いたが、商人はふっと微笑んだ。
 大人ふたりは子供を詰所の床の間に通してやって、火鉢に炭を入れ、火をつける。ついでに座卓の蝋燭にもつけてやる。燻る炎がパチリ弾ければ、手元がじんとあたたかくなってくる。商人が大きな鞄を楽人に開かせてやれば、今日もまた、楽人はその笑顔を崩して、じっと本を眺めていた。物を知るための辞書を取り出し、西洋発祥の音楽理論の本を取り出し、興味があるだろうかと詰めた近代音楽についての雑誌を、さらに取り出す。鉄工の見立て通り、楽人はやはり、音楽が好きなようであった。勉強をするようならとくれた使いかけの手帖と筆を詰所の棚から取り出せば、楽人は机に向かい、本を眺めながらおたまじゃくしの群れを追いかけた。
 楽人は、鉄工と商人から見ても、勉強熱心であった。かれこれ1週間、彼の様子を眺めてきたが、どの日もただぼうっと明け暮れているわけでもなく、どの本にも真剣に向き合っていた。その細い目が輝いているとは、目の細さと長い垂れ髪が邪魔をして、実際には横顔すらも見えないが、何かを知ろうとして、知るために筆を動かすその小さな、ともすれば女に見える様なか弱い背中は、たった1週間で本からふたりの大人にとって未知の世界を引き出して、その知らぬ先へと向かおうとしている。
 じゃあ、見回り行ってくるな。ぐるっと回ったら戻って来るわ。布団は好きに使え。あぁ、寝るなら火は消せよ、と。鉄工がそう告げて商人を連れて詰所を出れば、けれど鉄工は肩を落とした。

 あの子、さ。言葉の続きを口にすることはなく、けれど商人もまた、頷いた。妻から聞いた。俺は時折、伝統とは何なのだろうと、そう考えてしまうことがある。商人の呟きに、鉄工は首を傾げた。伝統は伝統だろ? この里全体で、皆が受け継いできたものだ。昔からあるものを、そのままの形で残すのが、俺たちの役目だって。それは、分かっている。分かっているが、そのために生まれた軋轢の最中に、あの子は居るんだろう、と。
 商人の言葉に、鉄工は黙り込んだ。それに何かを答えられもせず、土の道に雪が降る。灯に照らされて、けれど篝火のある詰所に振り向いた。
 そう言ったって。コトの楽人は。鉄工は眉間を押さえた。コトの楽人は、楽人を務める者たちの中で、最も高い格と、極めて重い責務を持つ。なぜならコトは、神々から直々に授かった楽器なのだから。コトの家系が代々その役目を受け継いで、今代に至った。だというのに、今代の楽人は幼き日よりめったに練習をしないのだと、風の噂で聞き及んでいた。その者の演奏では、御巫たちは御神楽を舞うことすら難しいと。だからふたりは初め、あの子供をそれかと思っていた。だが、違うようだった。家系の者では務めを果たせないから、代役としてあの名無し格無しの楽人がコトを弾いていたのだと。
 だが家系の者たちが不服を申し立て、あの子が楽人の任を解かれたというのも、偶然にして耳に入り、どうにも気になって妻らに尋ねれば、真実であると告げられた。だが、あの子は何ひとつ変わりないかのように振る舞った。彼は、随分早い時間から櫓に登っていた。ただ、にっこりと笑って。

 俺たちは、伝統を守る。でも、伝統だからと言って、その形式だけを守り続ける限り、あの子を守ることはできないんだ。あの子を庇えば、それは御珠のコトの家系に、そしてその家を頼り続けたご先祖に、泥を塗ることになる。だから、皆あの子を追い出す方を選んだんだ。
 じゃあ、どうしろっていうんだよ。ご先祖様に背を向けて、あの子の方が上手いから、あの子を正式なコトの楽人にしろっていうつもりかよ。仮にそんな申し出を口にしてみろ、御珠全体を貶めることになるんだぞ。そうなれば、里の一大事だ。俺は御剣で、お前は御鏡なんだから。
 どうしろ、というわけじゃない。俺だって。俺だって、どうにもできないことくらい、分かっているんだ。だから、本当に伝統のままでいいのかって、どこまでを伝統として敬うべきかと、考えてしまったんだ。
 あの子の親は、何をしているんだ。こんなに寒いってのに。こんな時間に子供が家に居ないんだ、俺だって……最悪なことを考えちまうよ。

 もうすぐ、年明けが来る。長の選別儀式が執り行われる。妻らは、その責を負えるだけの力がある。そして、彼女らの腹に宿った、小さな小さな命も。
 男たちはなおも、里を見て回る。キンと張り詰めた空気は、今にもふたりを凍てつかせるほど。ビュウと山から吹き下ろした風が、ついにその火を吹き消した。