河童の皿箱
2025-12-18 09:11:15
41671文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、楽人であった。

あるグループがグループになる前、昔のさらに昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 ふ、と目を覚ます。先まで包まっていた布団は何処。代わりに深い深い霧が自らを覆い、けれど自らは見覚えのない場所に立っていた。足元は大岩で固められ、ともすればひとつ踏み出すと足を引っかけて転んでしまいそうなほどであった。
 慎重に、慎重に。躓かぬように、少しずつ。ゴツゴツとした岩場をえっさほいさと乗り越えてゆけば、耳に届く水の音は大きく、またひとつ、大きくなっていった。

 いつしか、足元は水に浸かっていて。目の前には、大きな大きな湖。水が、寄せて、返して、また寄せて。そのたびに、ざざん、ざざん、と。

 少年は岩場に座り込んだ。目を閉じ、耳を澄ませれば。



 ふ、と目を覚ます。パキリと弾ける火鉢の火。ふかふかあったかお布団と、見慣れた見慣れぬ天井と、がやがや賑やか襖の向こう。どうやらすっかり寝入っていたよう。そのおかげか、ずっしり重たかった頭痛もだいぶ、和らいでいた。とはいえ、何か自分から魂が抜けかけているかのような浮遊感は、続いていた。
 年明けも目前のようで、老人たちは酒やれつまみやれを取り出しては、今年1年の振り返りだの、来年の抱負だのを語り合っていた。その賑わいが増すにつれ、気づけば笛やら琵琶やら太鼓やら。なんやかんやと神楽の音が鳴る。
 あぁ、そうか。少年はその旋律に、頷いた。ここに集まる老人たちは、御隠居様たちだ。そしてこの合奏には、3つの流派が混在している。笛のその音は御剣の、琵琶のその音は御鏡の、太鼓のその音は御珠のと。稽古場では、そして御神楽においては全く在り得てはならぬと排斥されていたその旋律。少年はつい、耳を奪われた。
 静かに、静かに。ただじっと、耳を澄ませていれば、ひときわ大きな鐘の音が、ごぉんと鳴り響いた。さすれば御隠居様たちもわぁと大きく歓声を上げ、新たな年の到来を祝っては、また荘厳に、けれど陽気に、気楽に、演奏を続けた。
 少年はついに居ても経っても居られなくなって、布団から這い出した。けれどふとハッとして、部屋をぐるりと見渡せば、そこにはコトと、そして3つの鞄が置かれていた。少年は胸を撫で下ろし、自らの半身をそうっと撫でた。途端にまた、目からほろりと涙がこぼれた。全てを投げ捨てるつもりだった己と、それでも捨てられなかった我が半身と。あの泉に置いてけぼりにしてしまったかと一瞬でも思い至ればひどく肝が冷え、そしてここにあるとわかればほっとする。そしてなにより、自らはやはり、音が好きなのだと思い至れば、さらにほろほろ、零すわけにもいかず、袖でぐしぐし拭う。
 涙が止まったころ、今度は鞄に目をやれば、書置きがしてあった。これはすべて君のものだ、と。けれどこんなに立派な鞄なんて、一度も持ったことなんてない。少年は首をかしげたが、けれど不思議なことに、どれも見覚えのある鞄であった。記憶に真新しい鞄をひとつ、開けてみる。そこには、ぎっしり詰められた大量の本があった。この里の外から仕入れたという、それ。ひとつ手に取れば、あぁ、そうだ。時間が無くて読めていなかった、読みたかったこの雑誌。穏やかな背中がひとつ、思い浮かんだ。
 次に、記憶の中で埃をかぶって曖昧な鞄を開けてみる。そこには、御神楽の指南書がいくつか入っていた。少年がひとつ手に取って、そして開いてみれば、そうだ、思い出した。この鞄は、御師匠が稽古の時に使っていた鞄だ、と。鬼のような怒り顔がひとつ、思い浮かんだ。が、どうして? 御師匠には叱責のみを口にし、褒められたことなど一度もない。自らはへたくそな筈で、あの人には嫌われていたはずなのに。少年はなお訝しんだが、けれどまだ教わっていない御神楽も、たくさん載っていた。コト以外の旋律も、真新しい筆跡で。
 最後に、本当に見覚えのない鞄が残った。布で出来た他の鞄と違う真っ黒な木製の箱は、鉄の金具で繋ぎ止められ、美しい帯で着飾られていた。金具を外して開いてみると、中にはさらに小さな箱がひとつ、入っていた。首をかしげてそれを開けると、いやはや空っぽ。中にあるのは、仕切りばかりで。これはいったい何なのだろうと目を凝らす。もしや、この箱、この大きさ。コトを入れるのに、とてもちょうどの良い箱なのではないか? そんな仮説を立てるも、いやまさか。こんなに繊細な鉄細工、どんな職人がと思えば、火を灯す背がひとつ、思い浮かんだ。

 なんだ。自分は案外、誰かに思われていたのだと、そう知った。また知らぬうちに涙があふれて、拭う。あぁ、そうだ。自らはまだ、生きねばならぬ。襖の向こうに踏み出せないが、けれどけれどとたまらなくなり、弦を弾いた。
 笛やら琵琶やら太鼓やら。それにコトやら歌声や。夢中になって演奏を続ければ、襖はひとりでに開いた。

 おぉ坊主、熱は下がったかのう? 元気になったか? ほら、そんなとこでひとりでいないで、こっちにおいで。いや、こっちに来い! ほら、もっとコトを聞かせとくれ。儂らと一緒に奏でようじゃあないか。

 強引に引っ張られれば、御隠居達の中心に、少年がぽつり。息を深く、深く吸い込み、コトに伏せれば、感嘆の声が上がった。