河童の皿箱
2025-12-18 09:11:15
41671文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、楽人であった。

あるグループがグループになる前、昔のさらに昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 何とか辿り着いた借家には、引っ越し業者がすでに運び込み作業を終えていた。端末をかざして認証を済ませば、見慣れぬ部屋に広がる見慣れたものたちに、ふうと、息をつく。
 この街に来てから、いろんなことがあり過ぎた。押入れに楽器をひとつひとつ、丁寧にしまい込んで、コンロがひとつしかついていないキッチンにも、いくつか調理用具と皿を置いていく。収納類はまあ、また今度調達すればいいだろう。そんな荷解きの最中でも、胸の内にあったのはそう、救世主たる能楽師のことだった。

 能楽、と呼ばれていた芸術のことは、ひとまず知ってはいる。詳しくはないが、まさに都で生み出された歌と舞の芸能だと。そしてそれは雅楽と同じく、断絶され、失伝し、詳しい資料もないままに今に至るとも。
 男は胸が躍った。雅楽とは、そして御神楽とは、どのような違いがあるのだろうか。当然、どこにもないのだから、見たことなどない。端末で検索をかけてみても、なくなったことしかわからない。男は今すぐにでも、能楽師の能を見てみたかったのだ。
 勢いのまま、雅楽師は能楽師の番号にメッセージを送った。今日の感謝を改めて。そして是非とも能楽を鑑賞させてほしい、どこに行ったらみられるのか、と。荷ほどきを続けていると、ほどなくして端末は返事を知らせた。こっちも帰宅した。とにかく無事でよかった。助けたのが、まさか雅楽師とは思わなかったけどな。それに続けて。能は、劇場で公演をしてる。鑑賞にはチケットが要るから、悪いが買ってくれ。それからしばらく、相手方が文字の入力をしていると通知があったが、ほどなくして消えた。
 わかった。わしも劇場に行けば、雅楽を披露できるんだな。そう聞けば、随分長い文字入力の時間を置いて、返事が来た。まあ、と。また長く時間を置いて、けれどやはり、なにも来ず。
 雅楽師はゆっくりゆっくり文字を入力し、再三の感謝を伝えた。絶対、見に行くからな、と。それからまた、長い長い時間をかけて、ひとこと。待ってる、と。引っ越し作業を済ませた雅楽師は、能楽師が送ってよこした劇場のページを見た。どうやらここからチケットが帰るのだと。しかしそこには分からぬ誰かの分からぬ何かが大量に並び、まずどれが能楽師の能なのか、雅楽師は一切わからなかった。ページの上を右往左往、ちょっと選んでみてみても、チケットをお金を出して買いたいだけなのに、やれ何かを作れだの、やれ別のサイトに飛ばされるだの雅楽師はなんとか何とか奮闘したが、ダメであった。
 雅楽師は再度、メッセージアプリを立ち上げ、雅楽師は一文字一文字、丹精を込めて入力した。すまん、チケットの買い方がわからん。どこか、店では売ってないか? すると、能楽師もまた、長い入力時間の末に返事をよこした。分かった、俺が見る。飯奢るって言ってただろ。どこ行くか決めてくれ。そん時に、合って教える。雅楽師は感銘を受けた。なんと親切な人なのだろう、と。



 そうして行ったファミリーレストラン。互いに注文を済ませて待つばかり。目の前に座る能楽師は相も変わらず疲労の濃い顔をしていた。いやぁ、本当にすまんのう機械はどうにも苦手でな。雅楽師が能楽師に端末を渡そうとしたが、能楽師は馬鹿野郎と言って、それを退けた。ソレ、簡単に人に渡すなよ。雅楽師が首をかしげたのを見て、能楽師は溜息をついた。個人情報の塊なんだから、人に渡すようなもんじゃあねぇんだよ。おのぼりさんたぁ思ってたが、まさかここまで。雅楽師はけれど、なははと笑った。笑い事じゃねぇよ、自分を大事にしやがれと、互いに茶とジュースを一口。口を潤せば、能楽師もまた、自分の端末を取り出した。
 それから、能楽師は自分の端末から劇場のページを飛び、手順をひとつひとつ、雅楽師に示して見せた。オンライン口座のアカウント作成、実際の口座との連携設定、チケット販売サイトのアカウント作成、チケットサイトのアカウントを用いての劇場ページとの連携設定、劇場ページから指定した日時のチケットを選んで、チケットサイトでオンライン決済、銀行からの認証届いたハンバーグとライス、そしてスープがすっかり冷めきる頃。雅楽師のもとようやく、チケットとなる番号がメールに届き、互いに精魂がすっかり尽き果てていた。
 ……都で暮らすって、大変なんじゃな……。雅楽師がこぼした言葉に、能楽師はぷっと噴出した。お前、ほんとにこういうのダメなんだな。雅楽師は頷いた。だぁって今まで暮らしとった街じゃあほとんどこんなことせんでも良かったからのう。ってかお前、どうやって働いてたんだよ。日雇いの仕事をしとった。んで、口座とかわからんかったから、現金で受け取れる仕事だけやっとった。店も現金じゃな。
 ナイフとフォークを取り出した能楽師が雅楽師にそれら差し出してやれば、今までよくそれでやっていけたな、と。オンの口座なかったら、まともな仕事できねぇだろうに。雅楽師は思い返した。いや、仕事はあったぞ。まあ、もともとわしは雅楽以外に生き甲斐もないような男でな。どのみち難しそうな仕事はできんかったでのう。冷めきったスープを一口すすり、能楽師はポツリ零した。お前、マジで俺と会えてよかったな。ここらの決済は全部キャッシュレスだ。今やった設定してなかったら、万引犯になってたぞ、と。
 雅楽師は目を見開いては、大きくため息をついた。なんでじゃあわしはふつーに生きてたいだけなのにどぉしてそんなことするんじゃぁと。けれど切り分けたデミグラスハンバーグを口にしてみれば、あぁ、何てこと。どうしてか、これ以上なく美味しく感じた。