河童の皿箱
2025-12-18 09:11:15
41671文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、楽人であった。

あるグループがグループになる前、昔のさらに昔の話。
※捏造の濃度が高い。

 カランと響いたコトの音ひとつ。楽人の群れ、コトのもとには若い男が。さらにカランと鳴らしては、合奏に溢れる静寂に耳を傾けた。
 男はただ、沈黙する。御神楽を舞う乙女らと、それを彩るひとつとなりて。神のため。家のため。それこそが、自らの生まれてきた理由なのだと。男はそう自らに言い聞かせ、正しき音に目を閉じた。


 その男は、楽人であった。



 その日の稽古が一礼によって締めくくられる。御神楽舞の見習いたちが、各々羽を伸ばしてきゃいきゃいと稽古場を後にするその最中、齢十やそこらの若い男の衆は後片付けに入っていた。木桶に水を張り、古布を浸して絞り、それで隅から隅まで掃除をする。男衆こと楽人たちが掃除をするのは、神の御前に舞を捧げる御巫たちに穢れひとつつけてはならぬ、古くからの慣習であった。
 コトを担当する若い男は、人一倍熱心に、この掃除に取り組んだ。やりたくないと愚痴をこぼす同僚の分にも笑って手を貸し、隅から隅までじっくりと。他の者たちはその男に仕事をともかくと押し付けたが、男は嫌な顔ひとつせず、ニコニコと笑っては掃除を続けた。
 皆々がすっかり稽古場をあとにした頃、その男はようやく後片付けを終えた。木桶と雑巾を裏方に干せば、息をふうと吐き出した。手には水の冷たさが残り、しんと静まる稽古場にひとりきり。そろそろ帰る支度をと、男はコトを細長い袋に丁寧に入れ、背負い、明かりを吹き消せば、もはや何ひとつも見えなくなった。

 男といえど、未だ元服を迎えていない少年とも言える者が、ぽつんと帰路に立つ。日はすっかり落ち、山々の木々は妖しくゆらめく。石灯籠の火はまだついているが、じきに消えるだろう。稲刈りの終わった田畑には、ゲロゲロ鳴いてる蛙たち。けれども男は一度も足を止めることなく、歩き続けた。
 そのうちに、ある店に通りかかる。提灯を下げた、蕎麦屋であった。男はそこにふらりと立ち寄り、かけそばを1杯。さっと出されたそれを掻き込むように平らげ、誰と話すでもなく、金を置いては立ち去った。

 ただいま帰りました。男が家の戸を開けてそう伝えようと、返ってくる言葉もなし。靴を脱いで自らの部屋に滑り込んでは、燭台に火をつける。せいぜいひとりが眠るぐらいの、物置のような小部屋では、蝋燭ひとつでも十分な明かりであった。そこにあるのは、多少の収納と布団ぐらいなものであり、要は寝て起きるだけの部屋。男は荷物を解いてしまい、体を拭いて、着替える。脱いだ服を入れようと、目を向けた衣服用の籠には、今月の生活費。贅沢などできるわけもない僅かなそれを懐にしまい込み、代わりに服を放り投げた。
 そうこうしていると、沈黙を破るかのように、微かな母の声が漏れて聞こえてきた。苦しそうな喘ぎ声であった。続けて耳に届くのは、肉と肉とが打ち合う音。母の甲高い声、父の獣のような声。それが何を示すのか、それがなぜ行われるのかを知らぬほど、男は幼くもなければ、愚鈍でもなかった。
 ……明日も早いのだが。それに微睡みを覚えられるほど、男は図太くもなかった。男は腰を上げ、またコトを背負う。浴衣のままに草履を履いて、音が出ぬようにと慎重に戸を閉じ、家を出た。