河童の皿箱
2025-12-18 09:11:15
41671文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、楽人であった。

あるグループがグループになる前、昔のさらに昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 都に向かう電車は、男を乗せて走った。車と違って揺れひとつもせぬその箱は、しかし歩く人や走る車、あらゆるものを追い抜いて行った。ふと暗闇に入って、すぐに抜けて。そのたびに、寂れた里山や、栄えた街や、或いは森に、そして果て無く巨大な水溜まりを、通り過ぎていった。
 人々が海と呼ぶのは、あの水溜まりのようだった。岸辺を走る時間は長く、水平線の上から注ぐ陽を満遍なく受けては、キラキラ輝いていて。電車に乗る誰もが手元の端末に夢中であったが、男はその景色がどうにも美しく、壮大で、じいっと眺めてしまうのであった。

 何遍の暗闇を超えて、ついに辿り着いた終点。その頃には箱の中もぎゅうぎゅう詰めで、男の席の前には人が団子になっていた。扉が開けば人々はさっと飛び出していき、乗り込む人の波を超えて、男もまた、その駅の地を踏んだ。
 そのあまりの人の往来の多さ、押し合いへし合い出口を急ぐ人々に、男は呆気にとられる暇すらもなかった。後ろから押され、前から押され、なんとか何とか荷物を守り、階段を下りて、下りて、押されて倒れぬよう従って。けれどいつの間にか改札で、端末をかざして出る。人並み途切れる隙間を縫って流れの外に出れば、あぁ、一息。何たることか。これが、都なのかと。
 男は端末を確認した。何せ借家は郊外だ。ここからもっと歩く必要がある。地図のアプリケーションから、お気に入り登録したそのルート案内を開始すれば、男は無機質な声に従って歩き始めた。右と言われれば右へ、左と言われれば左へ。しかし、歩けど歩けど景色が変わることはなかった。どこまで行っても、店の群れ。どこまで行っても、駅なのだ。
 男は首を傾げた。このドレスはさっきも見たなと。確かにこの世にはチェーン店というものがあり、同じものを見ることは珍しくはない。しかし、店頭を飾るそれすら全く同じということはそうそうなく。男はもう一度、案内に従って歩き始めた。右は右。左は左。……おかしい、また同じドレスの前だ。
 男は、今度は端末の画面を見ながら歩くことにした。人にぶつからぬよう、ゆっくり、ゆっくり。だがどうだ、歩いてみても自分の位置は変わっていない。ほんの時折、長い距離を一気に飛んで、右だ左だと。そんな、瞬間移動をしているわけでもあるまいし。どうしたものかと困った男は、このままでは埒が明かぬと、近場の階段を登ってみることにした。
 すると、端末が見せる自分の位置は、常に動くようになった。今まで表示されていた道案内が変わり、今度こそこっちへ向かえと。男はそれに従って歩く。人の、車の往来を超え、電車の線路をくぐって、少しずつ、少しずつ、人のいない場所へと。



 本当にこっちだろうか。男は再び疑問を抱いた。目の前には、明かりもない狭い路地。人がふたりすれ違うのがやっとなその道の壁を見れば、何かのらくがきがあった。夕刻とはいえ陽の届かぬそこを往けと、端末は言う。とはいえ、男にとってここは知らぬ街。従う他に、新たな住まいへたどり着く道はなかった。
 男は裏路地へ足を踏み入れる。夜を歩きなれた男とは言え、あまり良い気はしなかった。そう、ふと思い浮かんでしまった懸念が、形を持って目の前に現われ出でたのだ。
 素行の悪い男の群れ。ライブハウスに集まっていたような、手錠をかけられていたような、不良の集団。焦点の合わぬ目で騒ぎ、金をよこせと繰り返し叫んで、荷物を置けと、刃物を向けられた。男は後ずさりをした。けれどすぐ背には壁があって。けれど、男もさらさら、黙って奪われるつもりはなかった。この背にあるのは

 おい。

 路地に響いた知らぬ声。不良共は振りかえった。男もまた、目を配ると、そこには知らぬ男が立っていた。

 ケンカか? カツアゲか? まあ、どっちもか。おら、来いよ。俺が相手してやる。

 真っ赤なような、真っ青なような顔をしたその知らぬ男は、足取りも不確かなまま、戦闘態勢を取った。その挑発に、不良共もまた乗っては、ひとり先駆けていった。
 不良の振りかぶった拳を間一髪で避けて、知らぬ男はきつい一撃を胴に入れた。近場のひとりがさらに殴り掛かれば、知らぬ男は殴りつけたそれを盾にして、そのまま投げた。床で伸びるそれを見て、ナイフがとうとう振りかざされた。けれど大ぶりな腕を的確に止めて奪い取り、代わりに突き付けた。そうともなれば悲鳴が上がり、散り散りに逃げる者もあり。
 終わりか? 知らぬ男が不良に尋ねれば、そこに残る者は誰一人として居なかった。そう、絡まれていた大荷物の男以外は。はぁと、長いため息を吐いたその男は、けれどその場で蹲って嘔吐した。
 お、おい、お前さんその。ビチャビチャに広がる大量の液体がナイフを侵食し、けれどその背を撫でてやれば、ぜえはあと息をして、ぶつぶつと何かを呟いた。けれどその男は、寄った男を突き放した。

 もう、こんなとこ通るなよ。懐の手拭いで口元を拭き、向き直れば、ひどい顔をしていた。隈は濃く、目は濁り、なにより、明らかに具合が悪そうで。その男は踵でナイフを折って捨て、立ち去ろうとした。だが、その手を引き留めた。
 ま、待っとくれ。た、た、助かったんじゃ。本当にありがとう、ございます。深々と頭を下げると、曖昧に口が動いて、そして男は激しくふらついた。あぁ、そうか。これは見たことがある。酒に酔っているのだと。とうとう立つこともままならなくなって呻く男を支えて、今来た道を急いで戻ることにした。ともかく駅だ。駅なら、交番があるはずだと。
 その間も、意識が半分飛んでいる男は半ば抱えられ、ぶつぶつと何かを呟き続けた。なあ、なあ、本当に助かったんじゃ。あんたはわしの、大切なものを守ってくれた。頼む、頼むからしっかりしとくれ。お礼のひとつもできないなんて、いやなんじゃ。男は男の呟きに対抗するように、そして自らの足を叱咤させ、なんとか、なんとか、人混みのすぐ近くまで戻って来た。

 なぜか、なぜだろうか。この縁を手放すまいと、そう体中が叫んでいた。

 駅前、階段のすぐ近く。人の往来が多いような、少ないような物陰におろして、ぜえはあと深く息を繰り返す男はやはり具合が悪そうで、けれどしばらくすれば落ち着いてきて。疲労にまみれた虚ろな目を、目の前の男に向けた。……アンタ、俺をここまで連れてきてどうしようっていうんだ、と。その言葉に、男は悩んだ。どうしようと思ってきたわけではなく。なあ、病院救急車は。訊ねれば、かぶりを振った。いい。いつものことだ。だがそれからも、助けを拒む男に男は食らいつき、じゃあ、せめて飯をおごらせてくれ。わしに今できるのはそれだけじゃから。
 しつこくしつこく礼をしたがる男に、男はとうとう根負けした。分かった、番号教えろ。互いに端末を取り出して、番号を交換して。アンタ、物好きが過ぎるだろ。酔っ払い相手に、ここまで構って。そんな嫌味に、けれど男は笑った。命の恩人になんもせんやつは居らんじゃろうて。この荷物が奪われれば、わしは死んだも同然じゃ、と。
 すると、座り込んだ男は尋ねた。アンタ、何運んでたんだ? まさかろくでもねぇもんじゃねぇよな、と。その問いかけに、まさかと笑った。これは楽器じゃ。男は荷物の中から、笛をひとつ取り出した。

 ひゅるり、ひゅうるり。遥か昔から受け継がれてきた、人の声。試しに吹いて聞かせてみれば、今までの具合の悪さはどこへやら。座り込む男の目を、男は覗き込んだ。ざあ、ざあと、水が波立つ音が聞こえて。
 は、と気づけば、そこは当然駅前であった。けれど、笛から口を離せば、その男はわなわなと震える唇で言葉を紡いだ。

 アンタ、何者だ?

 何者かと尋ねられて、けれど男は笑った。博物館で知った、己がこの世界では何者なのか。口に出来るともあれば、喜びが勝った。

 わしは、雅楽師じゃ。

 胸の内が、自然とそう言った。じっと。男は黙り込んだ。雑踏とアナウンスばかりが支配するそこに放り込まれた言葉に、男は目を丸くした。

 俺は、能楽師だ。