河童の皿箱
2025-12-18 09:11:15
41671文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、楽人であった。

あるグループがグループになる前、昔のさらに昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 真昼の路上、男は困り果てていた。懐がすっかり素寒貧になってしまったのだ。
 御者の助言に従って、役所で端末と身分証を得たまではよかったのだが、冬場をしのぐ服は高く、最も金を持っていかれたのは宿だ。ふたつならんだふかふかの寝床に、豊穣祭の宴会に勝るとも劣らぬ豪勢な食事、外の暮らしとはこうも贅沢なものなのかとそれらを楽しんだが、けれど会計で目が飛び出そうになった。まさか一夜を超すのにここまで金が要るとは思っていなかった。
 故に、男は働かねばならぬと考えた。だがどうだ、石塔連なるこの街の行く人々の足取りは速く、男にはどうにも気が立っているように見えて、声をかけることもできなかった。しかし、新たな発見もあった。
 この街はまだ都ではなかったが、都に行く道自体はよくわかった。車よりもさらに速く行き来する鉄の箱、電車。路線上を行き来するそれに乗れば、都までひとっとび。とはいえやはり、先立つものが無ければどうにもならぬ。男は駅近くの適当な公園に入り、端末を取り出した。

 男にとっての難題は続く。この端末の、電源の入れ方、基本的な使い方、おおよそ何ができるかは役所で教わることができた。しかし男はあの里の生まれ。機械と呼ばれるものには生涯触れたこともなく、調べものひとつするにあたっても大変な時間を要してしまうのであった。ああでもないこうでもないと液晶に向かって四苦八苦すること1時間、何とか求人情報まで辿り着き、ここらですぐにできそうな仕事を探すことにした。

 男はまず、倉庫整理の仕事についた。老人たちと暮らしていた頃は俵をよく担いだものだから、力仕事は得意であった。早速職場に向かうと、背の大荷物にひどく落胆されたが、なんとか置き場所をもらい、制服に腕を通した。日雇いの労働者であるからか、職場の者は至極淡々としていた。指示を受け、男はひたすら荷物を運んだ。時折、離れたところから怒号が聞こえた。悲鳴のような謝罪もまた、聞こえた。男は聞かぬふりをして仕事を終え、今日の稼ぎをもらい、後にした。
 その日は悩んだが、結局郊外の公園で野宿をした。とても宿泊ができる懐ではなかったからだ。あれだけの金を請求されても今は支払えない。けれど、男は計画を立てた。粗末でもいいから住める場所を借り、都に出るための資金を作ろうと。

 翌日も、その翌々日も男は働き、野宿をした。ある程度懐が潤ってきたところで、駅から離れた場所の安宿に住むことにした。朝起きて、飯を食い、仕事をして、夜に帰る。とても楽器に触る時間など作れなかったが、それでも男は夢の中で奏で続けた。
 夢はいつでも変わらぬ。深い深い霧と、大きな大きな水溜まり。出向いた職場で酷い叱責を浴びせかけられる日もあったが、この夢はいつでも静かに、男を癒した。
 何が起きようがどのみち1日限りの縁。それは、余りにも気が楽なものであった。適当に笑って流して、その職場にはいかぬようにした。代わりに、良くしてくれた職場には、何度も何度も日雇いで入った。男が特に気に入ったのが、ライブハウスのスタッフの仕事であった。幼き日より本で見た世界が、薄暗く、汚らしく、激しく煩く、そして刺激に溢れたその音が、確かに世界にはあったのだ。
 唸るギター、ブチかますドラム。不安定でぐらつくベースに、吠えるキーボード。その音は想像よりもずっと騒がしいものであったが、想像よりもずっと、胸を打つ音であった。曲に見合う気性の荒い演者たちに振り回される仕事であったが、男の仕事ぶりは、支配人から感謝を述べられるぐらいだった。
 そして男は本で読んだことにはよく用心した。ライブハウスの隅では、何かを売買する人物も時折見た。そういう人物にはかかわってはならないと、本は再三語った。人を人でなくすものを売り買いしているのだと。そしてそれは、秩序に反する重大な罪であり、小さく残る音楽文化の始祖であるとも。そんな連中が暴れたり、用心せぬほかの客が声をかけられたりで、警察を呼ぶこともあった。手錠をかけられる人を、何人も見た。何人も、恨めしそうな目をしていた。なにかを一歩間違えれば、ああいうふうになるのだろうと、男は気を引き締めた。

 同時に、男はいくつかの本を自分で買うようになった。自分が持つ知識の、世界とのすり合わせを図ったのだ。こちら側では、御神楽を含んだ古来よりの伝統舞踊と演奏を、雅楽というらしい。さらに調べていけば、海の向こうの文化を取り入れ成立した雅楽は、国に厳重に守られていたが、ある時を境に手放され、今どこにあるのか、どのような形態に、名称になっているのかもわかっていないのだと。
 幸い、拠点とした街の周辺に、いくつかの小さな博物館が、雅楽の遺物を残していた。男は働く傍ら、それらを見て回った。自らがコトと呼んでいたものは、ここでは和琴というのだと知った。そして自らが背負ったものを一度でも手放せば、もう手に入らぬと知った。館内のテレビジョンが映す過去の光景は、里のそれに似ているような、そうでもないような。
 男は奇妙な心持であった。あれだけ幼いころから叩き込まれてきたそれが、ひとたび離れればこうもなるのかと。けれど、けれどと、男は考えた。老人たちは言っていた。あの里の御神楽も、もとの形からすっかり変わっているのだと。失われたものが数多くあるのだと。雅楽の栄えた都であれば、きっとどこかに楽人が居るはずだ。男はなお、よく働くようになった。

 そうしているうちにも、日々が過ぎ、年月が立ち、ようやく男も身の回りの作り方というものを覚えた。端末も、まだ苦手ではあったが、ひとまず検索やれ、決済やれ、身分証としての提出やれ、問題なくできるようになった。外の世界でも成人の年になった頃。男は今度こそ、都へと向かい始めた。

 もちろん、そこで住む場所も決めた。中心部には手が出ないから、郊外の狭い狭い部屋を借りることにし、契約も済ませている。きっと、都なら。
 いくつかの生活用品は、引っ越し業者に託した。そして、男はまた、楽器を背負って、この小さな街をあとにした。