河童の皿箱
2025-12-18 09:11:15
41671文字
Public 遊戯王:長め
 

その男は、楽人であった。

あるグループがグループになる前、昔のさらに昔の話。
※捏造の濃度が高い。



 がらんがらんの観客席と、壇上組まれた能舞台。その上ひとりで舞う男を、男はじっと、見つめていた。その所作ひとつ、足取りひとつ。己のそれよりひそやかに、じっとこらえて、けれども激情忍ばせて。
 男は感嘆の息を吐いた。舞台のギラギラとした逆光に照らされた友の一挙手一投足で、衣が翻る。ふいに俯かせては、表情一つ変えずに睨みつけ、そして詠う。それの、なんと美しいことかと。
 舞台上の世界に魅了されていた男であったが、けれどカタン、と。何か物音がした。気になって視線をそちらに向けると、誰かが席を立って出ていった。何て奴だ。これほど素晴らしいものを失われたはずの芸能を、お目にかかれるというのに。けれど男はまた舞台に向き直れば、口から紡がれる怨嗟と悟りに、また身を委ねた。

 公演が終わって、その後。劇場から出てきた能楽師と合流して向かったのは、近場の酒場であった。時は夕刻。個室を取ってふたりきり。ともかく酒だと注文すれば、能楽師は雅楽師と話しながらも、酒を飲んだ。飲んで、飲んで、飲み続けた。ひとつ呷れば空にして、また頼んでは空にして。あっという間に泥酔しきった友は、口も開けないほど。
 そうか、なるほど。雅楽師は合点がいった。あの日も、こうして飲んでいたのだろう。まるで生き急いでいるかのようなそれは、宴に喜びに箍の外れた里の者たちのそれとはまったく違った。食卓の上にぐったり倒れこんで、半分意識のない友に、雅楽師はなお、自らも料理に手を付けながら寄り添い続けた。話しかけても生返事だけ。さらに飲もうとするのを、飲み過ぎじゃと諫め、止める。特段反抗することもなく、うー、うー、と。時折、ぶつくさ何かを言ったが、雅楽師にはそれを聞き取ることができなかった。

 それからまた、時が過ぎ。雅楽師も、能楽師と同じ道に立つことにした。劇場の面接を経て採用され、ひとまず公演の準備は整った。ひとりきりだが、やれるだけやるしかない。この都なら、きっと誰か他にも雅楽師がいるはずだ。そう、能楽師たる友のように。
 けれど、あくる日あくる日繰り返し、舞台に立って奏でても、客はほとんど入らなかった。チケットの宣伝もして、劇場の前で売り歩くなんてこともしたけれど、碌すっぽ客足が入ることはなかった。時折人が入ってもかあかあ眠るばかり。古より伝えられし音色を確と聞いてくれる人なんて、それこそ友たる能楽師だけだった。
 とても、これでは生活が立ちいかない。雅楽師は雅楽を公演する傍ら、日雇いの仕事も続けることにした。けれど当然、ほとんどの時間は自由ではなくなった。疲労も、どんどんと蓄積した。山での生活で体力に自信はあったが、違う。体の疲れではなく、心の疲れだ。どうにも世間には、自らを認めてもらえない。道行く人々は誰一人として、己たちに視線を配りやしない。まるで、幼き頃に戻ったみたいだ。居ても居なくても同じこと。でも、雅楽師はこうも思った。案外、誰も同じなのかもしれないと。それにここには、少しばかり酒が好きすぎる友が居る。彼は我が芸能を喜び、讃えてくれる。それを心の支えに、雅楽師は腐らずに来る日明くる日、勤勉に働き、そして奏で続けた。

 次第に、雅楽師と能楽師は公演が終われば共に酒場に入り浸り、飲むのが日課になっていった。話題は当然、愚痴であった。今日の客の入りはどうかとか、そんなことばかり。愚痴って、愚痴って。そんな日々の繰り返しの中、ふたりは時折、時間と金を捻出して、一緒に遊びに出るようにもなった。
 行き場所はもっぱら、都から少し離れた場所にある美術館や博物館、金がない時は図書館だ。能楽師はどうやら絵に大きな関心があるようで、それも写実的な絵を好んだ。お互い、古いものを受け継いできたからか、古いものに興味があるというのは、雅楽師としても気が楽であった。

 毎日。毎日。かれこれ、数か月。未だ生活に必死で、どれだけ楽器をとっかえひっかえ演奏してみても、相も変わらず客足はほとんどなかった。
 ある日。戯れにコトを、和琴を弾いていた時のことだった。バツン、と。嫌な音がした。手を打つ痛みにため息をつけば、あぁ。弦が切れてしまった。ずっしりと、心に重くのしかかる暗闇。果たして、こうしていていいのだろうか、と。
 里から持ち出した荷物を開く。他の弦の替えはまだ少し蓄えがあるが、和琴の弦だけは、どれだけひっくり返しても替えがもうなかった。そも、持ち出せた量が最も少なかったから、仕方がない。しかし、では戻るのかというと。男は逡巡したが、首を振った。戻ったとて、分けてなど貰えぬだろう。この楽器は特別なもので、あの一族は自ら以外を認めない。だが、男が戻らないと判断を下したのは、決して過去の恨みだけではなかった。

 老人たちと暮らしていた時のことだ。里の力は、日に日に衰えているのだと。楽器職人は徐々に病に倒れ、技術の継承どころか家の存続すら危うく、木も綿も良い物が採れなくなり一方で楽人一家が質の悪いものは認めぬと燃やし、職人らを叱責し、歌舞が消えてしまった頃から、著しい衰退の一途をたどっている。
 けれど老人たちは言った。これは、この里の問題だ。なんとかするのはお前じゃあない。里長らなんじゃ。それでも、儂らは心配じゃった。だからほら、前を向け。今お前ができるのは、この音を忘れないことじゃ。

 とどのつまり、里は楽器を作る力があるかも怪しい。残された道は、この街のどこかで調達するか、もしくは、作るか。男はこれまでにないほど、頭を回した。蘇るは、博物館に閉じ込められた楽器たちと、それを取り巻く芸術品の取引価格どれも、現実的だとは思えなかった。

 でも、動かねば、途絶えてしまう。それだけはなんとかしなくてはならぬと、男も良く分かっていた。