【創作|馬軸】春雷 伸長- 日盛りと鶏鳴

※支部からの転載版です。内容は変わりません。四話~六話収録。




スワンレイクリターンズに軍杯が上がった。ハナ差三センチでこっちが後ろにおったらしい。私は馬装やらを全部外して国美さんに預け、検量室でパトロールビデオを繰り返し見ていた。私は少し寒さを感じて着ていたジャージのファスナーを一番上まで上げた。
スワンレイクリターンズという六戦六勝の欧州が誇る歴史的名牝。しかもエリザベス女王陛下所有の馬で、そんな名牝と互角に叩き合った。その事実は変わらない。スワンレイクリターンズを追い詰めたのは間違いなくロジェールマーニュなんやから。

「ミス白綾」
「マーティンさん」

話しかけたのは私同様金髪碧眼のマーティン騎手だった。彼はスワンレイクリターンズの主戦騎手で、新馬戦からずっと手綱を取っている。昨年もこのゴールドカップを制し、スワンレイクリターンズはこれで二連覇となった。
私は好き放題に乱れた髪の毛をさっと綺麗にしてから彼に向き直る。にこやかに握手を求められたので握り返せば、「ありがとう」とだけ言われた。

「英語は話せますか?」
「少しだけなら」
「そうですか。……貴女と、ロジェールマーニュと戦えて良かった。私はあなた方のような素晴らしい人馬がいた事を忘れません」
「こちらこそ、歴史的名牝とこんな風に戦えて光栄です。ありがとう」
「いやバリバリ喋れてるじゃありませんか」

あはは、と笑って私は視線をパトロールビデオへ戻す。とんでもない戦いだったと思う。日本馬の過去最高着順を更新し、無敗の名牝に土をつける後一歩手前まで追い詰めた。
だがあと僅かに勝利へは届かなかった。レース運びは驚くほど完璧に進んだはず。スワンレイクリターンズとマーティンの意地__それが僅かに私たちを超えていたという事だろう。

「またイギリスへ来てください。その時はもう少し余裕を持って」
「はぁ……でも、私がまたアスコットに来るかは馬主さんが決めはりますから」
「はは、確かにそうだ。それじゃあ私は表彰に行ってきます」

マーティンはそう言ってどこか残念そうに去っていった。私は妙な引っ掛かりを覚えながら検量室を後にする。外では国美さんと神代さんが待っていたので私は慌てて駆け寄った。

「やあ后子ちゃん。いいもの見せて貰ったよ」
「神代さん、国美さん……こんな凄い馬に乗せ続けてくださってありがとうございます。私……

二人を前に頭を下げ、思う。勝てる要素は転がっていた。だが競り負けた。何度目だろうか。一度抜き去ったはずの馬に差されるという展開は嫌というほど経験している筈だったのに。置き去りにしてきた悔しさがこみあげてくる。私は唇を噛んで泥で少し汚れたズボンを握りしめた。

「顔を上げてくれ。……僕はね、君はロジェールマーニュと出逢うべくして出逢い、そしてその背中に跨っていると思っているんだ。だからそんな顔しないでくれ。日本馬が欧州で勝つなんて、シャルルマーニュでもできなかったことだ。上々さ」
……次が、あるなら。次があるなら、私は」

最早懇願だった。負けたくない意地もあったが、ロジェールマーニュの背中を誰にも譲りたくないというどうしようもない私の独占欲だった。だが神代さんはそれに微笑み一言だけ零す。

「ああ、無論だよ。来年も来よう。こんだけ走れるなら、海外GⅠを勝てる日はそう遠くない。そうだろう、国美くん」
「そうですね。フジサワコネクトも遠征するそうですし……秋に向けてしっかり休んで、また力をつけてもらいましょう」

国美さんはそう言って、戻ってきた勝馬のスワンレイクリターンズを見遣る。彼女はどうよ、やってやったわよ、と言うような誇らしげな表情を浮かべていた。流石に女王の馬だからか、その表情もすぐにやめて柔らかく品のある顔つきに戻っていた。
鹿毛の美しい馬体をバランスよく揺らして歩くスワンレイクリターンズ。周囲には多くの人たちが彼女を囲んでいる。その中には無論__馬主である女王の姿もあるのだろうが、かなりガタイのいいSPのような黒服たちがいるのでそれを伺い知ることはできない。

ぼんやりスワンレイクリターンズを眺めながら、私は脳裏に今までの敗戦を思い出す。フジサワコネクトに追いつけなかった日本ダービー。ラヴウィズミーにあっさり逃げ切られた有馬記念。そしてそれ以前、酷い有様だった何百連敗の冬の日。
スワンレイクリターンズは欧州が誇る歴史的名牝だ。連綿と受け継がれた血脈の先にいる彼女は、私の視線に気づいたのかぴたりと脚を止めてこちらをじっと見た。それに気づいたのか、一人の子供を連れた女性が私の方へ向かって歩いてくる。金髪碧眼だった。美しいストレートロングを流し、小さな子供を抱きかかえている。子供は男の子だった。スワンレイクリターンズを模したぬいぐるみを大事そうに抱えている。

「白綾后子騎手ね」
「あ……初めまして。ええと、申し訳ありません、無作法で」
「いいえ。気にしないでください。スワンレイクリターンズは貴女を気にしているようだわ。良ければ撫でてあげて。……耳の間を撫でられるのが好きなの」

彼女はそう言って私をスワンレイクリターンズの前に連れて来た。初めて見る私にきょとんとしている彼女は、耳を立てて私の方へ鼻を寄せた。匂いを嗅いで私のことを窺い知ろうとしているのだろう。
少し顔を下げたのを見計らって、私は言われた通り耳と耳の間を撫でてやった。気持ちよさそうに鼻を伸ばして、数度瞬きをする。私は「またね」と声を掛けて離れた。


「貴女に逢えてよかった。そしてごめんなさい。……またイギリスへいらしてね」

「え」

彼女は子供を抱えて離れていった。私はそこで思い返す。
もしそうならば私は__


「待って」

その声は掠れていた。彼女は気づかず足を止めることは無い。スワンレイクリターンズと一緒に遠ざかっていく。


「待って、お母さん」