【創作|馬軸】春雷 伸長- 日盛りと鶏鳴

※支部からの転載版です。内容は変わりません。四話~六話収録。




天皇賞・春__二日前、夕方。

……発達した積乱雲が近畿地方に向かっており、週末は大荒れの天気が予想されます。ベランダに出しているものは家の中に収納するなど、風・雨対策をお願い致します。
こちらは京都市の現在の様子です。かなり……風が強いようで、ああカメラが揺れていますね……横殴りの雨がアスファルトに叩きつけられています』

スマートフォンのワンセグ機能で流れるテレビのニュースがそんな風に言う。僕は馬房から顔を出して国美の方を見た。死んだ魚のような目でスマホを見ている国美は、僕の視線に気づいたのかスマホの電源を落としてズボンのポケットに収納した。優しく僕の顔を撫でてくる。別に撫でてほしいわけじゃない。
当日天気が悪いとなれば皐月賞の時のように不良か重、回復しても稍重の馬場となるだろう。僕は撫でられるがまま、特に抵抗せずに考えた。
三二〇〇メートルという未知の距離を駆け抜けるレース、天皇賞・春。僕の兄であるラヴウィズミーは昨年と一昨年の勝馬となり今年は三連覇がかかる大一番。僕は去年の有馬記念で二着になった。兄に競り負けた。二度同じ負けを喫することは無い。

(ただ前へ。前へ行く。僕にとって、意識するのはそれだけで十分……いや。クラシックの時のようにはいかない。古馬の戦場はレベルが違う。いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた優駿たちの戦場。勝つには、〝ただ心地よい速度に身を委ねる〟だけでは駄目だ。きっと后子ならそう考えているはず____)

「有馬記念負けて悔しかったか、ロジェ」

そんな風な事を問う国美は、どこか安堵した様な表情のまま僕を撫でていた。と言っても僕が国美に対して思うことは当然すぎる質問するなこいつ、というただ一点である。どうにも国美は后子を当てにしすぎている気がしてならない。理由はよくわからないが、「ヤナ」というヒトが関係しているのだろうな、というぼんやりした察しはついた。

「なんでそんな目で俺を見んだよ……。まぁ、勝てるさ。お前不良馬場得意だもんな……俺が心配なのは当日の雷よ……雷雨予報出てんだもんこえぇよ……
(雷が怖いの? 四十代も後半に差し掛かろうというのに?)
「お前今俺のこと若干馬鹿にしたろ。こえぇのは雷雨で天皇賞が中止になることだっつの」

僕の呆れる様な視線に国美はそう言った。確かに雷雨で天皇賞中止なんて最悪のシナリオだ。しかし皐月賞の時も当日は土砂降りの大雨で、発走時刻直前に雨があがった。国美はそれを期待していればいい。僕は馬場が悪かろうが良かろうが正直関係ないし、后子の導く道筋はいつだって勝利に最も近い距離なのだから。僕は導かれた様に、最速でその道を突っ走る。

后子と言えば、彼女は僕とクラシック二冠を達成して以降調子が良い。乗る馬ほぼ全てが掲示板圏内と、以前とは真逆の成績を叩き出して破竹の勢いで快進撃を続けている。これは渚情報だ。
先日行われた新馬戦では左隣の馬房に住む僕の弟__ドライフラワーとコンビを組んで快勝。
現在ドライフラワーはオープンクラスに昇格したらしい。次走は夏__北海道開催のレースが待っている。新馬戦よりも強い馬がいる舞台で勝利を収められれば、GⅠへの道が少しずつではあるが開けるだろう。と言ってもダートなので、基本的に同じ舞台で走ることはないのだが。僕よりもかなり小さい弟は、その小さい体ながら驚くほど軽やかに__俊敏に駆け抜ける。

担当の厩務員に洗われて戻ってきたドライフラワーと目が合う。僕はじっと見つめ返してそっと鼻先を小さな弟に寄せた。

(お兄ちゃん、春天がんばってね! いっぱい応援する!)
(うん。……頑張るね)

僕と同じ青毛の弟はそう言って楽しそうに馬房へ戻って行った。
率直に言って、僕は今まで「レース頑張るぞ」と気負った事がないので頑張って、と言われてもあまりピンと来なかった。好きに走ってるし。心地良いスピードに身を委ねているだけで、勝つ事を意識するのはあくまでレース直前だけだったから。

だが今は違う。
ドライフラワーの言う通り、僕は頑張らなくてはいけない。
兄に、ラヴウィズミーに負けたくない。もう僕の鞍上にいる后子に敗北の泥を被せたくない。


(そうだ。僕はもう……負けない)


僕は〝無敵の紳士〟ロジェールマーニュ。

ならばその名に相応しい、優雅かつ剛健な__圧倒的な走りで応えなければならない。皐月賞と菊花賞を奪取した世代の頂点として。
そして何よりも僕の手綱を握る后子のために。必ず完璧な勝利を手中に収め、僕が最強の馬だと証明してみせる。

__もう、負ける事は無い。己に克ち、天皇賞を制そう。
心の炎はいい感じに灯ったままらしかった。