【創作|馬軸】春雷 伸長- 日盛りと鶏鳴

※支部からの転載版です。内容は変わりません。四話~六話収録。




柳沢俊一は私が憧れを抱いたシャルルの鞍上だった。
私が騎手を目指すきっかけを作った人で、私が最初目指していた背中だった。

借りている厩舎に戻り、ロジェの背から降りる。余裕そうな表情を浮かべているロジェは口をもぐもぐと動かして銜の位置を自分で弄っていた。渚ちゃんが手綱を付けて引き馬装を外して楽にさせる。私はその様子を見ながら正体の分からない漠然とした不安を感じていた。

まず英語喋れへんし。海外なんか一遍も行ったことあれへんし。しかも勝負しに行くんやで? そんでもってエリザベス女王陛下の御前やで? そしてロジェは欧州の芝なんか踏んだことあれへんし、向こうでの調整期間があるとはいえ私の手綱さばきが勝負に直結するのは明白や。動画で見るだけじゃわからん。実際に行って__走ってみなければ、何もわからんままや。

柳沢さんはシャルルと一緒に凱旋門賞へ行けなかった。シャルルもまた、柳沢さんと一緒じゃないと嫌だとでも言うように__同じタイミングで怪我をして療養に入った。不思議な人馬やったと思う。
言葉がなくとも通じ合っている。人馬一体という単語がこんなにも似合う馬と騎手がいるのだと、何度当時のレース映像を見返しても感心する。
私はそんな風になれているだろうか。単にこの、とんでもない素質馬に__ロジェールマーニュという競走馬の鞍上だったから、今の成績を叩き出しているだけなのではないか。

(あかん、急に不安なってきた……

ヘルメットを外して一度髪を解き結び直す。これからナヴィアヴェラの調教がある。こんな心中では馬に察せられて妙に気を遣わせてしまうかもしれない。というか、既にロジェに気ぃ遣われてるような感じはすんねんけど。
ロジェに思いっきり走らせて勝てる戦場ではない。日本は高速馬場とはよく言ったものだ。過去欧州の壁に挑んだ馬たちは深い芝に苦しめられ、父馬シャルルマーニュは栄光に最も近づいたが掴むことは叶わなかった。無論勝つ馬はいる。英国GⅠナッソーステークスを勝った名牝がそれを証明している。勝機は転がっている。それを掴めるかどうかという事が重要だ。

馬に寄り添い、心を通わせ、そして私は__。
〝馬が誇れる騎手になる〟とは言ってもそんなもん私のエゴでしかないんかもしれん、と思わないわけじゃない。揺らぐものがある。薄氷を踏むような危うい感覚を足の裏や背筋に感じながら、私はナヴィアヴェラに跨った。

私の願った道を作った馬たち。
誰もこの馬の前を走ることなど罷りならんと奥歯を噛み締めたこと。


「后子さん?」
「渚ちゃん、あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてたわ」
「大丈夫ですよ。だって私たちはいつだって信じて託してきたじゃないですか」
「渚ちゃん……

渚ちゃんには今までの初々しさはなかった。強く凛とした雰囲気を纏って、鞍上の私に声を掛ける。


「夢とか、願いとか、いろいろ託して背負わせて走ってもらっている。無論后子さんも馬と一緒にそれを背負ってくれてます。そりゃ勝ってほしい気持ちはありますけど……。でも私はとにかくイギリスっていう舞台で、ロジェールマーニュと一緒に走る白綾后子が見たい」

だって私は白綾后子のファン第一号ですから、と付け加えて渚ちゃんは晴れやかに笑う。向日葵が咲くような笑顔を私に向けて、ナヴィアヴェラの手綱を外した。