【創作|馬軸】春雷 伸長- 日盛りと鶏鳴

※支部からの転載版です。内容は変わりません。四話~六話収録。




ぽつ、と水滴が芝を濡らし、それを合図に静かな雨が降る。京都競馬場が居を構える淀の空はどんよりした雲に覆われていた。
五月初頭、初夏の気配が近づく中で行われる最長距離GⅠ__天皇賞・春。皐月賞の時ほどの大荒れではないにせよ空から音なく滑り落ちる水滴が芝と土を湿らせ、馬場をぬかるませて走りにくくしていく。良馬場得意な馬たちは苦戦を強いられるだろうが、不良馬場が得意な馬たち……ロジェールマーニュやフジサワコネクト、ラヴウィズミーなどの馬は更なる能力を発揮するだろう。
午前中は晴れていたのに、という声もちらほら聞かれたが、まず私が雨雲連れて来たみたいな感じやしなぁと思いながら私は髪を結びなおした。

地下馬道の道中、ロジェの鞍上でふと思い出す。先月阪神で行われた桜花賞に別の厩舎から騎乗依頼があったので出ていたのだが、この時は今日の比ではない大雨で馬場がもう最悪、しかも私が騎乗した馬は不良馬場が苦手ときて大敗を喫した。本当に申し訳ございませんという気持ちでいっぱいやで。
なぁ晴れ人間連れてきてや。雨雲とマブダチな私を超える太陽のジョッキーを。あとはほら天気よくなりそうな名前の馬とか。

屈強な古馬の戦場に足を踏み入れて思ったが、やはり馬の纏う雰囲気が違う。三歳馬の戦場といえば同世代の競争、という感じでフレッシュさもあった。だがこの古馬の戦場ではやはり、ラヴウィズミーの存在感は想像以上に大きい。
パドックの周回映像を見ても思った__ロジェよりも一回り大きいのでは、と錯覚するほどに仕上がった体に気負いを一切感じさせない足取り。何よりも落ち着き払っていて、〝気合いが乗っている〟とか最早そういう次元じゃない。やはり血筋か、泰然自若としていて何も気に掛けていない。ラヴウィズミーの真後ろを歩いている鹿毛の馬の存在感が薄く感じられてしまう。

私は有馬記念の時、追いかけるラヴウィズミーの背から菊花賞の時のフジサワコネクトと似た雰囲気を感じ取った。あの時は背骨に噛みつくような、喉元に刃物を突き付けられているかのような気配。絶対零度の勝利への執着を纏って、芝の上で圧倒的な存在感で他の馬たちを威圧して見せた彼女に似ているものがある。
だがラヴウィズミーの「存在感」というのは、フジサワコネクトの発した勝利への執着心とは程遠く〝ただそこにいるだけ〟なのに否応なく意識させられる__目を向けずにはいられない、そんなカリスマ性から来るもののように思った。


鮮烈な逃げ足で新馬戦勝利を飾り、そこから札幌記念と菊花賞を勝ちステイヤーの名を確固たるものにしてみせたラヴウィズミーの強さは折り紙付きだ。私とロジェはその強さを昨年の有馬記念で体感し、私は私自身の至らなさを痛烈に感じた。

あの時私は己に負けた。
これは勝てん、追いつけん、差せんとどこかでブレーキを己に掛けて、さらに私たちを突き放し駆けるラヴウィズミーの背をただ呆然に眺めていた。

私の中で常に足りないのは克己心。見切りをつけるのも早すぎる。
そして嘗て負け続けた事を敗戦の免罪符にできるほど、今の私はもう弱くはない。
己に勝ち、対自分との戦いにもっていくことこそ私の在り方。ずっと知っていたはずなのに__私はあの時、手綱を握る手を緩めた。
本当に騎手として恥だ。それでよくもまぁ、ロジェールマーニュという馬の騎手を名乗っていると思う。だが、だからこそ確固たる決意がある。

ロジェールマーニュという馬の前を誰にも走らせない事。
ロジェールマーニュという馬に敗北の泥を被せない事。
そして何よりも私が私自身に勝ち続ける事。長丁場となるレースで周辺を全く意識の外へ置くというのは無理な話だが、己との戦いに持ち込めればそれでいい。


……私はもう____私にだけは負けん)


胸の奥でドクン、と心臓が大きく脈打つ。
抱いた誓いはいつしか私だけのものでは無くなった。
国美さんが、渚ちゃんが、そしてこの舞台を見ているすべての人が、ロジェと私に期待をかける。逃げ切って欲しい、と。兄・ラヴウィズミーに勝って無敵の紳士此処にありと示して欲しいと思っている。


「いよいよ……だな。ロジェ。后子さん」

右側で手綱を引く国美さんは私を見上げながらそう言った。クラシックの時とは異なり落ち着いた表情を浮かべている。黒いスーツジャケットのポケットから白い御守りの紐が出ていた。左側にいる渚ちゃんも落ち着いて手綱を握っている。すこし緊張はしているようだが、送り出す準備は万端と笑顔で私を見遣った。

「もうめっッッッちゃ応援します! ロジェ、后子さん、気負わず楽しんできてくださいね」
「控で見ててや。……勝利の女神が微笑むかは、まだわからへんけどね」

私だって示したい。叩きつけてやりたい。日本国内に死角無し、最強の馬はロジェールマーニュだとこの舞台で示したい。
でもそれだけではなくて。これは私が私に勝つための戦い。もう己に負け続けた事を顧みない為に、もう二度と己に負けない為に。

『誰も我が前を走る事罷りならん』
____その誓いを抱いて私とロジェは芝へ躍り出た。




『__黒曜石の煌めきがターフを彩る、無敵の紳士。一枠一番、ロジェールマーニュ』

スタンドから流れる実況がそんな風にロジェを紹介した。私は手綱を握って鞍からゆっくり腰を浮かせ、速足で芝へロジェを誘導する。
ふと視線を遠くへ遣れば、どんよりと空を覆っていた雲の隙間から太陽が差し込んでいた。徐々に雲を割って光が広がっていく。そして京都競馬場の上に薄らと架かる虹が神々しさを引き立てた。

「狐の嫁入りやねえ」

私は返し馬をしながらそう呟く。日が照っているのに雨が降っている、天気雨。栗東ではそうなかった。珍しい事だと思うが、ここは京都。狐の嫁入りと考えれば自然に納得がいってしまった。

ロジェが軽く蹴飛ばすまだ露に濡れる芝は少し泥濘んで、柔らかく脚が沈む馬場は重の発表である。これは良馬場得意な子は苦戦すんで、と思いつつ、足元の芝にふと目をやった。太陽の光に晒されるたび芝の露が反射して煌めき、差し込む光より驚くほどに競馬場全体が明るく見える。

返し馬の途中で減速し立ち止まったロジェは競馬場に架かっているように見える虹を、耳をぴんと立てて見ていた。栗東でも放牧先でもそうそうお目にかかることのない虹に、暫くロジェは驚いたようにじっとしている。
幸いまだ時間はあったので気が済むまでゆっくりでええか、と思いながら私は一度鞍上に腰を降ろした。


「ロジェ虹見るの初めてやろ。人間でも二十六年生きてそうそうこないなのはお目にかからんで」
(綺麗。……レース終わる時まであったらいいな)
「しかし薄らやなぁ……この天気雨が続けば架かったまんまかもしれへんね。……よっしゃ、行こか」

私の合図に反応してロジェは走り始め待避所へ向かった。十八頭の歴戦の馬たちがゆっくりと歩いている。周回する隊列の最後尾に加われば、前を歩く馬がすっとスピードを落として横につけ、鞍上の武内さんが私の方に話しかけた。

「なぁ、俺が買ってきたご飯のさ……迅一の分にワサビめっちゃ盛ったろ」
「いつの話してます? っていうか武内さん買ってきすぎなんですよ」
「どれだっけ。あ、ホープフル終わった後ぐらい」
「ああ、年末ですか?」
「后子ちゃんてやたら迅一に当たり強くない? 何でよ? 後輩には優しいし好かれてんのに」
「めっちゃ雑に話変えたな……まぁ、だってなんかどつき回したくなるというか……腹立つというか……
「理由雑……。だってよ! 迅一!」
「秀吉さんって緊張感っていう言葉を家に置いてきたんですか?」

律儀にフジサワコネクトに乗った瀬川がこちらに近づき会話に参戦する。横には昨年の春に騎手となった後輩の市村がいた。私は軽く手を振って挨拶する。ペコリと頭を下げた市村はわかりやすく緊張していた。そんな新人・市村が乗る馬は八歳と結構な歳の馬だが、まだまだ走れると元気いっぱいである。今も気合十分と鼻を鳴らしてはいるが、市村に大人しく乗られていた。

「だって~。市村が超緊張してて真っ青なんだもん。和んでいこうぜ」
「限度があります。だもんじゃないんですよ……ああもう。っていうか白綾から『なんやこいつ、いてこますぞ』って思われてる事ぐらい十年前から知ってます」
「やだ、同期マウントなんて酷い! アタシの同期なんてみんな美浦にいるのに! 大丈夫かロジェールマーニュ、お前の騎手モテモテだぞ。ってめっちゃ耳絞ってる~~!! ごめんごめん嘘って!!」
「あの私もう枠入り行っていいすか」
(早く行こう后子、ここにいてはいけない気がする……

何だったんだろう。まあ……ええか、と思い私は武内さんから離れ、地面を引っ掻いていたロジェを導き枠へ向かう。ごめん、うるさかったね。
そういえば市村は同じ一枠で隣やん、と私は隣を気にしつつ見た。先程よりかはリラックスした表情で馬の鬣を撫でて落ち着いている。
私は切り替えようと前を見据えた。大外にいるラヴウィズミーとフジサワコネクト。無論他の馬たちも虎視眈々と前を狙う。加えて長距離ならば先に大きなリードを取るよりもスタミナを温存し粘り強く前を目指すのが定石となる。

と言っても菊花賞でロジェは逃げ切って勝った。定石の枠にロジェは収まらない。スタミナ・パワー・スピードは十分だが、今後勝っていく為には更に武器を磨く必要がある。
これは国美厩舎のスタンスだが、勝負するのに奇計や切り札は要らない。馬の能力とそれに合った走法でただ駆ける。それでいい、と国美さんは言う。
だがこの場で人気を一身に受けるラヴウィズミーは、計算し尽くされた逃げで勝ってきた。作戦勝ち、というやつである。真逆の理論で馬を育てる調教師同士の戦いでもあるのだ。

ふと私は諸葛孔明と司馬懿が犬猿の仲だった、という話をぼんやり思い出した。かたや他の人が思い付かないような作戦で勝利を収め、かたやただひたすらに整えて当然に勝つ。


(同じ土俵に上がる必要は無い。ただ、ただ前へ行く事だけを考える。誰もいないその先へ駆けていけばいい。そうやってロジェを導いて行くのが私の仕事や)


全ての馬が枠へ収まった。ピンとロジェの耳が立っている。私はそっと馬体を撫でてゲートが開くのを待つ。

数秒____
前を塞ぐゲートが開き、一斉に十八頭の馬がまだ露の残る芝へ躍り出た。