ちこと
2024-10-29 20:36:55
56961文字
Public poke小説・SS
 

【2012年発行個人誌】drip,drop,daydream

2012年に発行した個人誌の再掲です。サトシとラティアスで人魚姫パロのようなお話。
完成版のデータが見当たらなかったのですが、ほぼ同じ内容のはずです。
もう何年も前の作品で、つたないところも多くはずかしいのですが、せっかくなので……。




  プロローグ

 朝起きたときにはあんなに真っ青だった空が、気づけば、いまにも落ちてきそうなほどに重苦しい色に染まっている。
 サトシが空の異変に気づいたころには、手遅れと言っても相違はなかった。
 サトシとピカチュウだけを乗せた小型のボートは、つい五分ほど前までは、青く輝く海の上で、おだやかに、波に揺られていたはずだった。
 それが、いまはどうだろう。あおあおと美しかった海は黒く染まり、不穏な風が肌をなぜていく。
「やば……!」
 灰色どころではない空を見渡して、サトシは無意識に呟いた。海の好きなところはたくさんあるが、その恐ろしさだって、身にしみてわかっているつもりだ。サトシの野生の勘が告げている。この状況は「やばい」。
 サトシの肩の上で、ピカチュウも顔をしかめている。人間よりも自然の動きに敏感であるはずのその自慢の耳も、異変を察知するのにはすこしばかり遅かった。剣呑に細めた目で、厚い雲を見やる。
 ふたりの前に立ちふさがるのが人間やポケモンなら、自慢の電撃でいくらでも蹴散らしてみせる。だけどこれは、形なきものだ。一匹のポケモンになんとかできる許容量を大幅に超えた、おそるべき自然の驚異だ。
 だぷん、だぷん。波の動きが大きく、不穏なものになっていく。広大な海のど真ん中で、こんなちいさなボートなど、あっという間にひっくり返されてしまうかもしれない。サトシはごくりと喉をならして、ピカチュウをその腕に抱き込んだ。ボートが揺れたら、海に投げ出されてしまうかもしれない。腕にぎゅっと力を込めて、ピカチュウと目を合わせた。
 ピカチュウのつぶらな瞳が不安げに揺れる。だいじょうぶだ、絶対に守ってやるからな。言葉にせずとも、視線だけで想いを渡す。
 いよいよもって、雲行きがあやしくなる。大きな雨粒が、ボートのデッキを、サトシのほそい肩を叩きはじめる。ピカチュウを抱き込む腕が、ぐっとこわばる。
 降りしきる雨の中、どんなに目をこらしても、四方八方、どこにも陸地は見えない。
 おかしい。サトシの心に違和感が生まれた。いくらなんでも、こんなに遠ざかっているわけがないのに。

 サトシとピカチュウが、ふたりだけでボートを借りて海に出たのは、ほんの十五分ほど前のことだった。


 さかのぼること数時間前。イッシュ地方を旅するサトシ、デント、アイリスは、海に面した小さな村にたどり着いていた。
 ポケモンセンターのほかには目立つような建物もなし。ポケモンと人とが穏やかに暮らす、のどかな村だ。当然ながら、サトシが勇んで駆け込むジムもない。
 着いた時間はお昼すぎ。次の街を目指し出発するには、いささか遅い時間だ。きょうはここのポケモンセンターに泊まって、明日の朝発つことにしよう。デントから出された提案に異を唱える者もなく、このままここに滞在しようということで話がついた。
 すこし遅めのランチを終えて、さて、夜までどう過ごそうか。バトルクラブもないこの村では、ポケモンセンターにすらバトルフィールドが設置されていない。いつもバトルだ特訓だと一日を過ごすサトシには退屈そのものだ。
 ランチの片づけを兼ねて、三人でどうしようかと相談する。その結果、デントとアイリスは、午後は村をまわって買い出しをしてくることになった。
 サトシもはじめは同行を申し出たのだが、まわるといってもちいさな村だし、買うものもそれほど多くはない。3人で行くほどのものでもないよ、とデントに言われたので、じゃあおれはどうしようかと腕を組む。サトシの中に、部屋で半日もじっとして過ごすという選択肢があるわけがない。そこに、通りがかったジョーイさんから提案があった。

「近くの小屋でボートを貸し出してるの。それで海に遊びに行ったらどうかしら?」

 イッシュ歴も長くなってきたとはいえ、まだまだ触れあったことのないポケモンはたくさんいる。海に出れば、きっとみずポケモンたちと遊ぶことだってできるだろう。サトシはその案に飛びついて、かくして、三人それぞれの行動は決まった。
 センター前でデントとアイリスと別れて、サトシとピカチュウはくだんの小屋へと向かう。ほかのポケモンたちは、この際だからとジョーイさんに預けていた。時間もあることだし、なにかよくない病気でも抱えていないかということで、ちょっとした検査も兼ねてもらうことにしたのだ。本当はピカチュウも、とサトシは思ったのだが、本人はいたって元気であり、なおかつ、サトシをひとりで海へ行かせることに、いささかの不安も感じたのだろう。我先にとサトシの肩に乗り、それを見たサトシも「いっしょに行くか!」と笑顔になった。
 小屋の主である老人は、こころよくボートを貸してくれた。夕方までに返すように、とだけ念押しされれば、もう怖いものなどなにもない。
 ちいさなボートを波間に浮かべて、サトシとピカチュウは喜び勇んで船出した。


 ……それが、ほんの十五分ほど前のできごとだ。いくらなんでも、村から遠ざかるには早すぎる。その気になれば引き返すこともできるくらいの距離であるはずなのに、なぜだか、村の砂浜はどこにも見えない。
「うわっ!」
 真っ黒な波が、ひときわ大きくボートを揺らす。バランスを崩したサトシは、前のめりになりながらも、ボートのへりに手をかけて、すんでのところで留まった。
 自然と目線は海へと向く。ついさっきまで、暖かな日の光をまぶしいくらいに反射させ、きらめいていた。それがいまとなっては、真っ黒な手がはい出てきて、サトシたちをボートごとさらってしまってもおかしくない。そんな海面に、ふと、ちいさな「なにか」が見えた。
「あれはっ……
「ぴか!」
 サトシの腕でピカチュウも気づく。波にもまれ、いまにも沈んでしまいそうなそれは、ちいさなちいさなポケモン。
「マメパトだ!」
 サトシのケンホロウも、かつてはちいさなマメパトだった。こばとポケモン、その体躯は、サトシの両手のひらで受け止められるほどちいさなもの。かわいそうにその翼は海水に濡れ、すぐにでも波にさらわれたっておかしくはない。この雨で、海に叩きつけられたのだろうか。
 なんにせよ迷っている暇はない。サトシはピカチュウをデッキにおろすと、帽子のつばをきゅっと後ろに回した。
「ぴ、ぴかぴっ!」
「ピカチュウ、おまえはここで待っててくれ!」
 ピカチュウが声をあげるより先に、へりを蹴ってそのまま飛び込む。海面に顔を出して、マメパトめがけて必死に水をかく。口の中に何度もしょっぱい水が入るけれど、そんなことを気にしてはいられなかった。
どかんという音をたてて、再びかみなりが落ちる。さらに荒れていく海の中で、サトシはひときわ大きく手を伸ばした。
……っ!」
 マメパトのからだに、サトシの手が届く。そのときだった。
「う……わ!」
「ぴかぴぃっ!!」
 ピカチュウの悲鳴すら遠くなるほどの、大きな大きな黒い波が、サトシたちを押し上げた。
 震えるマメパトをその腕に抱きしめたまま、サトシのからだは宙を舞う。さあっと、サトシの背筋を悪寒が走った。このまま海に叩きつけられたら、マメパトは――
 サトシは次にやることを決めた。
「ピカチュウ、頼む!」
 渾身のちからを振り絞って、マメパトを大きく放り投げる。
「ぴ、ぴかぁ!?」
 叫び声に驚きを含みながらも、ピカチュウは飛んできたマメパトをしっかりとキャッチした。受け止めたはずみでひっくりかえってしまったけれど、あわてて体を起こして、急いで海に目を戻す。サトシ、サトシはどうなったの。
 マメパトが無事ボートまで届いたことを見届けると、サトシはほっと息をついた。自分のからだが雨の中を舞っていることは、ほんの一瞬ではあるが忘れていた。
 ざぶん。
 大きな大きな音を立てて、サトシのからだは海に叩きつけられた。


 ぐるぐると荒れ狂う海の中で、サトシの意識は朦朧としていく。
 なんとか海面を目指そうと思っても、水の勢いがそれをさせてくれない。手を伸ばそうと思っても、からだに力が入らなかった。
……っ)
 ごぽり、と、肺の中の空気が泡となって出ていく。ひきかえに、たくさんの水を飲み込んだ。からだが震える。
 ぐらぐらと揺れる視界がぼやけていく。沈めば沈むほど黒に染まっていく海の中、サトシはふと、きらりと光るものを目にかすめた気がした。
 だけどその光は一瞬にして消えてしまい、ひときわ大きな渦がサトシを襲う。
 そうして、サトシの目の前はまっくらになった。


「ぴ、ぴかぴぃぃっ!!」
 ピカチュウの悲鳴は、嵐の中で掻き消えていく。
 サトシは、海に沈んだまま浮かんでこない。どんなに呼んでも、戻ってこない。それがなにを意味するのかなんて絶対に考えたくなくて、ピカチュウは何度も何度もサトシを呼んだ。
 できることなら、いますぐ海に飛び込んで助けに行きたい。だけど、サトシはピカチュウに「頼む」と言った。いまピカチュウがやるべきことは、このマメパトを守ることなのだ。ぜったいに、守らなくてはいけないのだ。
 ちいさな手、震える手で、賢明にマメパトを支えながら、ピカチュウはサトシの名前を呼び続ける。ああ、ぼくのからだがもっと大きかったら。サトシもマメパトも助けられるのに!
 悔しさに震えるピカチュウの目が潤む。その目線の先に、白い「なにか」が現れた。
「ぴ……!?」
 驚いて目をこらす。叩きつけるような雨はいっそうひどくなり、現れた影が何者であるのかもよく見えない。その影は、降りしきる雨をものともせず、海の上で旋回する。
(ポケモン……?)
 確証はなかった。しかし、ピカチュウは心の中でどこか確信していた。
 踊るようにくるくると旋回していた白い影は、やがて海の中へと飛び込んだ。
「ぴか!?」
 仮にポケモンだとしても、みずタイプのようには見えなかった。こんなにも荒れ狂う中に飛び込んで、だいじょうぶなのだろうか。こんな……サトシが沈んでいった、海の中に。
そこでふと、ピカチュウの中に考えがよぎる。あの影が何のために飛び込んだのか。あの影は、あのポケモンは、もしかして――……
「ぴ……!?」
 ふわり。やわらかな風がピカチュウのほほを撫でた。
 ピカチュウは驚いて振り返る。ほんの一瞬前まで、穏やかにはほど遠い雨風が降り注いでいたはずだ。
 それなのに、あれほど重苦しかった色の空に、いま、光がひとすじ差し始めていた。光はみるみるうちに広がって、空にもとの明るさをもたらしていく。
 それに呼応するかのようにして、さあっと、荒れ狂う波がひいていく音がした。いまにもボートをひっくりかえさんと暴れていた海は、あっというまに静かになる。ちゃぷん、ちゃぷん、とかわいらしい音を立てて、ゆっくりと、ボートをいずこかに運びはじめた。
 ピカチュウが突然の変化に目を白黒させているあいだに、ボートは砂浜へとたどりつく。穏やかになった波がピカチュウたちをつれてきたのは、緑ゆたかな小さな島だった。
 はっと、ピカチュウはその砂浜に目を向ける。
 浜に膝をついた女の子が、倒れたサトシにそっと寄り添っていた。

     ♪

……っ、ん……?」
 ゆるゆると瞼を開けると、木の天井が見えた。「ぴ」という声がして、視界に黄色い相棒が映る。
「ぴかぴ!」
「ピカチュウ」
 サトシは顔をほころばせた。よかった、無事だったんだな。すりすりと頬を寄せてくるピカチュウを、やさしく撫でる。
「ここは……?」
 からだを起こして周囲を見回す。サトシはベッドに寝かされていた。どうやら、ちいさな小屋の中のようだ。
 はてと、サトシは首をかしげる。ふかふかの枕に、やわらかい掛け布団。こんな風に介抱されて、誰かが助けてくれたことは明らかだ。
しかし、誰が?
 いくら頼りになる相棒でも、自分をかついでここまで運ぶことは不可能だろう。ということは、誰か、ほかの存在が助けてくれたことになる。
「そうだ、マメパトは!?」
 ピカチュウがキャッチしてくれたところまでしか見ていない。あの子はだいじょうぶだっただろうか。
「ぴか、ぴかちゅう!」
 ピカチュウはにこっと、サトシを安心させるかのように笑った。どうやら無事らしい。自然に戻るのを見届けてくれたのだろうか。
「そっか……、よかった」
 ほっと頬を緩めたところで、きい、と小屋の扉が開く音がした。
「!」
 そこに現れたのは、ひとりの女の子だった。
 黄緑のシャツに、白いスカート。赤茶色の髪は、両耳の上のところがすこしとんがっている。サトシを栗色の瞳に映すと、ふわりと笑顔をひろげた。
「きみは……?」
 女の子はにこりと笑って、手に持っていたものをテーブルの上に置いた。この小屋に元からあったらしい、ちいさな木のテーブルだ。その上に、赤い木の実がいくつか転がる。どうやら、サトシたちのためにと持ってきてくれたらしかった。
 サトシの隣で、ピカチュウは安心したように微笑んでいる。彼女を見るのは初めてではないらしい。ということは、もしかして。
「きみが助けてくれたのか?」
 気を失ったサトシを、ここまで運んでくれたのだろうか。
 しかし、女の子はなにも言わなかった。サトシと目が合うと、すこし笑って、そのまま踵を返してしまう。
「あ、待っ……
 小屋から出て行こうとする彼女を追って、ベッドから身を乗り出す。そのとき、
「いっ……!!」
 サトシの右脚に激痛が走った。
「!」
「ぴかぴっ!!」
 どさりと床に落ちてしまったサトシに、女の子は慌てて駆け寄った。ピカチュウも、不安げに瞳を揺らしながら、サトシのそばへと寄り添う。
 サトシは顔をしかめた。右脚が、びりびりと痛い。溺れたときにどこかにぶつけたのか、骨が折れてしまったらしかった。思うように起き上がれず、肩で息をする。
 額に脂汗をにじませるサトシを見て、女の子は眉をきゅっと引き締めた。そのまますっくと立ち上がり、ドアを開けて外へと走っていく。
……?」
 ややあって、女の子は戻ってきた。その両手には大量の、薬草のようなものを抱えている。そのままサトシのそばに座りこむと、患部と思しき箇所を覆うズボンをそっとめくりあげた。
「つっ……!」
 サトシの肩がびくんと跳ねる。女の子は表情を曇らせるも、きびきびと処置を進めていった。サトシの脚に薬草をやさしくあてがい、添え木で固定する。サトシは、脚の痛みが僅かながらもやわらいでいくのを感じていた。
 処置を終えた女の子は、サトシと目を合わせると、まゆじりを下げて首をかしげた。だいじょうぶか。ということだろうか。
「ありがとう。おかげで楽になったよ」
 息を整えながらもサトシが笑って言うと、女の子も安堵したように笑顔になった。しかし、やはりなにも喋ってはくれない。
「おれ、サトシ。こっちは、相棒のピカチュウ」
「ぴっか」
「きみの名前は?」
 女の子は、すこし困ったように肩をすくめる。そうして、起き上がろうとしていたサトシにすっと手を差し伸べた。その手を借りて、サトシはなんとかベッドに戻る。
「いっつ……、あ、ありがとう」
ベッドにからだを沈めて、ふうと息をつく。この脚では、しばらく動けそうにない。
「ぴかぴ……?」
 ベッドに飛び乗ったピカチュウが、瞳を陰らせながらそっと鳴いた。きょうは心配をかけてばっかりだ。
「だいじょうぶだよ、ピカチュウ」
 そう笑って頭を撫でるが、ピカチュウの表情は戻らない。
サトシだってわかっている。女の子のおかげで痛みは和らいだものの、歩けるようになったわけではない。この脚が良くならない限り、この島を出るのはむずかしい。
しかし、それにはどのくらいの日数がかかるのだろうか。アイリスやデント、それにセンターに預けたままのポケモンたちにも、きっとひどく心配をかけてしまう。……そもそも、
「おれ、どのくらい眠ってたんだ?」
……ぴーか」
 ピカチュウはすこし首をかしげたあと、ちいさな指を一本、ぴこっと立てた。まる一日、ということらしい。小屋の窓から溢れる外の光は明るかった。アイリスたちと別れてから、すでに一昼夜が経ってしまっている。
「まいったなあ……
 ぼさぼさの頭をがしがしと掻くと、サトシは女の子の方を仰いだ。
「ねえ君、ここにはポケモンセンターって――……
 振り向いたそこには、さっきの木の実と、それから水差しの乗ったテーブルだけが残されていた。



     ♪



「ぴかぴっ」
「ありがとな、ピカチュウ」
「ぴっか!」
 お安いご用だ、とばかりに笑って、ピカチュウはサトシにコップを手渡す。水差しから水を注ぐことなど、なにかと器用なピカチュウにはお手の物だ。
サトシが水を一気に飲み干すのを確認すると、今度はテーブルに飛び乗る。はずみでころころと転がった木の実をいくつかつかみ、ふたたびベッドの上に戻る。さあどうぞ、と言わんばかりに、木の実を乗せたちいさな両手を、サトシの前に差し出した。
「いただきます」
 サトシは笑ってそれに手を伸ばす。きょうの木の実は紫らしい。ここ数日、毎日違う色の木の実を食べているが、きょうのそれもやっぱりおいしかった。
「ごちそうさま」
 何度かベッドとテーブルを行き来したあと、サトシがそう手を合わせるのを確認すると、ピカチュウは余った木の実にぱくりとかぶりついた。
 二人で食べる木の実の量は日ごとに増えている。サトシがかなりの食いしんぼうであることを、用意している人物はなんとなく察したようだった。
 ピカチュウが木の実を全てたいらげるころに、コンコン、とドアが鳴った。続けて、きい、と音を立てて、扉がゆっくりと開く。
「あ、おはよう!」
「ぴっかちゅう!」
 ふたり分の挨拶に迎えられて、赤茶色の髪の女の子はふわりと笑った。


 サトシの脚の包帯を替え終えると、女の子はそっと立ち上がった。ふとテーブルの上に目をやり、空になった水差しに気づく。前夜に置いておいた木の実はもう影もかたちもない。
 女の子は水差しを手に取ると、「もう食べたの?」と言わんばかりに目を丸くした。昼食分も兼ねたつもりだったのだろう、そのすこし呆れた表情に、サトシとピカチュウはてへへ……と笑う。生憎どちらも育ち盛りだ。
 水差しを傾けるジェスチャーをサトシに見せて、女の子は出て行こうとする。また水を入れてきてくれるのだろう。「いつもありがとな」というサトシの言葉に、女の子はちらっと振り向いて、目を細めはにかんだ。ぱたん、と扉のしまる音がする。
……食べすぎちゃったかな?」
……ぴーか、ぴかっちゅう」
 悪いことをしたかもしれないなあと、ふたりは顔を見合わせた。いつも木の実を持ってきてくれるのは彼女だというのに。


 サトシがこの島で目を覚ましてから、六日が経とうとしていた。
 最初は、ここがどこなのかもわからず混乱していたが、ピカチュウのジェスチャーにより、どうやら小さな島であるということだけはわかった。ポケモンセンターも見当たらないらしく、ほかに人が住んでいるかもわからない。というのも、ここに来てサトシとピカチュウが出会った人間は、あの女の子だけなのだ。
 女の子は、サトシとピカチュウにとてもよくしてくれた。初めて会ったあの日も、赤い木の実と、後から持って来たらしい水差しを置いて行ってくれた。それで喉を潤しおなかも満たし、サトシとピカチュウがひと眠りすると、翌朝には別の色の木の実と、新鮮な水がたっぷりと入った水差しがあった。
 いつのまに来てくれたんだろう、とふたりが首をかしげていると、女の子はふたたび姿を表した。その手にはたっぷりの薬草があり、そのままサトシの包帯を清潔なものに替えてくれた。包帯は、どうやらサトシのリュックから拝借したようだ。
 そんな風にして、女の子がサトシとピカチュウの面倒を見てくれる生活が続いていた。といっても、つねにそばにいるわけではない。一日に二回ほど木の実と水を持ってきてくれるのと、サトシの包帯を替える時だけ、彼女はこの小屋に姿を表す。ほかの時間にどこでなにをしているのかは、サトシたちにはわからない。一度、木の実を集めるのを手伝おうと、ピカチュウが同行を申し出たが、女の子にやんわりと断られた。ついてきてほしくないのか、それとも「サトシのそばにいてあげて」ということなのか。とにかく、ピカチュウが自分といっしょに外に出ることを、女の子はあまり良しとはしなかった。だからピカチュウも、むりについていくことはせず、つねにサトシのそばにいることにしていた。
 毎日毎日大変だろうに、女の子はすこしも苦に見えない。それどころか、サトシのもとに現れるとき、女の子は、いつもなぜだかご機嫌だった。
 そんな女の子の名前を、サトシとピカチュウはいまだに知らなかった。というのも、女の子はなにもしゃべらないのだ。
 サトシの言うことは理解しているようだから、言葉がわからないわけではないのだろう。あえてしゃべらないようにしているのか、それとも声を発することができないのか、サトシたちにはわからない。だから、ここがどんな島なのか、ほかに誰かいるのかなども、女の子から教えてもらうことはできなかった。
 そのかわり、というか、女の子はいつも楽しげに笑ってくれる。その豊かな表情のおかげで、サトシたちと女の子は円滑にコミュニケーションをとることができていた。とりあえずのところはそれでいいが、このままずっとそうしているわけにもいかない。
……みんな、心配してるだろうなぁ」
「ぴいか」
 サトシがここで目を覚ましてから、もう六日になるのだから。
「でも、ここには電話もなさそうだしなあ~……
「ぴぃか~……
 むむむ、と頭をひねさせるひとりと一匹は、はたからみればそっくりで、とても微笑ましいものだっただろうが、本人たちには知る由もない。困ったなあと言わんばかりにふと窓の方を向くと、サトシの目に真っ青な空が飛び込んできた。
「いい天気だなあ」
 どこまでも高くひろがる青。文句なしの快晴だ。その真ん中で、太陽が元気よく輝いている。
 サトシのからだがうずうずしはじめた。
「ぴかぴ?」
 この六日間、ずっとベッドの上だった。脚を骨折しているのだから仕方のないことなのだけど、こんなにも長い間じっとしていることなど、いつものサトシにはありえない。
「あーっ、もうがまんできない!」
 がばっと描け布団を跳ねのける。元気な左足を床におろす。悩んでいたことはいったんどこかへ飛んで行った。
「ぴ、ぴかぴぃ?」
「ピカチュウも行こうぜ!」
「ぴぃかちゅ……
 片足で器用にけんけんを始めたサトシを見て、ピカチュウはあきれたようにため息をつく。だけどほんとうは、ピカチュウだって動きまわりたくてうずうずしていたのだ。ちょっとくらいならいいかな、とぱっと笑って、サトシを追って駆け出す。
「すげえ!」
 ドアを開けて、サトシは感嘆の声を漏らした。目の前には白く輝く砂浜と、青い青い海がひろがる。ずっとこもりきりだったので気づかなかったが、小屋は海に面していたのだ。
 しゃりしゃりと細かな砂浜に足を下ろしたくて、サトシは手ごろな棒きれがないかと辺りを見回した。即席の松葉杖でもないと、さすがに転んでしまいそうだ。
だがめぼしいものはなかなか見つからない。サトシは残念そうに空を仰いで、――その中に、ふしぎな影を見つけた。
「なんだ、あれ……
「ぴ?」
 ピカチュウもつられて上を向き、目を見開いた。
 真っ青な中を飛び回る、白い影――……サトシには心当たりはないだろうが、ピカチュウには覚えがある。あの日、嵐の中で見た影とそっくりだ。
 そのことをサトシに伝えようと、彼の方を向いたときには、当人はすでに片足けんけんで駆け出したあとだった。
「あれ、ポケモンかな!?」
 さすがというべきか、自他ともに認めるポケモンバカは、見た瞬間に影をポケモンとして認識したようだった。海の向こうへ飛んで行こうとするのを必死に追いすがるが、片足で追いつけるわけもない。
「うわっ!」
「ぴかぴっ」
 左足にも限界が来たのだろう、サトシは滑って転んでしまった。慌ててピカチュウが駆け寄るが、サトシは上空から目をそらさない。自分が転んだときに、白い影がふいに、こちらを見たのだ。
「待ってくれ!」
 サトシの声に、影は止まったように見えた。しかしそれも一瞬のことで、すぐにきびすを返そうとする。
 サトシは影をなんとかひきとめたかった。どうしてかはわからない。なんとなく、ただなんとなく。あの影をこのまま行かせたくなかった。白と、それから赤が混じる影。どうしてだろう、心がはやる。このまま、放っておきたくない。行かないでほしい。待って、待ってくれ。
 するとそのとき、サトシの傍らで電子音が鳴った。
「ポケモン図鑑が……
 転んだときに、ズボンのポケットから落ちたのだろうか。はずみかなにかで起動したポケモン図鑑は、サトシに覚えのないポケモンの姿を画面に映した。
『ラティアス。むげんポケモン。光を屈折させる羽毛で全身を包み込み、姿を見えなくする能力を持つ』
「ラティアス……
 ぱっと空の彼方を見る。白と赤の体躯。ふたつに突き出た羽。まちがいない。
 サトシは、腹の底から、ちからいっぱい叫んだ。
「待ってくれ、ラティアス!!」
 影は、今度こそぴたりと止まった。