鳴上
2024-01-22 17:38:37
73645文字
Public ナツシン
 

ナツシンまとめ2022〜23



初恋泥棒の君へ


「なあ、セバ〜聞いてる?」
……聞いてない」
「聞いてんじゃん!聞こえてるならいいだろ〜やろうぜ!」
 まさか笑顔で迫ってくるこいつの「やろうぜ」がセックスをしようという誘いであると思う奴はいないだろう。そう、俺はこのくそエスパーこと朝倉シンに、関係を迫られている。

 きっかけはいつだったか、よく覚えてはいない。トイレで思わぬ再開を果たした時だろうか、それともラボでバイトしていた時には既にそうだったのだろうか。ただその頃夏生はなんとなくそいつのことが気になっていて、でもそれを認めたくなくて必死に否定していた。自分もそいつも男で、再会して共闘したとはいえ殺し合った仲で。そういう対象として見ているわけない。そんな複雑な夏生の思考を読み取っていたのか、研究室でふたりきりになったある日、ポツリとシンが言った。
俺、セバのこと好きなんだけどさ。お前も、俺の事好きだって思っていいの?」
 耳まで真っ赤に染めて、ジャケットの裾を控えめに掴んだシンに、夏生の心は沸きに沸いた。いやこれ両想いじゃん。認める認めないとかじゃなくて、もう心通じ合ってんじゃん。頑なに拒否していたこの感情をあっさりと受け入れた夏生は、返事をしようと口を開いた。しかしそれはこのくそエスパーに遮られることになる。
「だからさセバ!ヤろうぜ、セックス!」
 ダカラサ、セバ、ヤロウゼ、セックス……?全て聞いたことのある言葉のはずなのに意味を一つも理解できない。今、こいつはなんて言ったんだ?ポカンと口を開いたまま呆然としている夏生に、追い打ちをかけるようにシンが言葉を紡ぐ。
「だってさ、俺ら両想いなんだろ?じゃあセックスしようぜ!」
 眩しいばかりの笑顔で、嬉しそうにそう告げてくるこいつの考えが分からない。さっきまでふわふわと夢心地だった気分が急降下していく。なんで両想いなら即セックスなんだ?普通、付き合ってデートして、手を繋いでキスをして、そのあと満を持してセックスだろ。もっと言えば、ちょっといいレストランでディナーして、夜景の見えるホテルでするのが理想ってやつじゃねーのかよ。
「な、セバいいだろ?なんでダメなんだ?」
「順序が違うだろ、順序が」
「なんで?両想いならいいじゃん」
「いろいろすっ飛ばしすぎなんだよ!」
 クソエスパーは先ほどと変わらず、まるで淫らなことは何も考えていませんみたいな顔をして笑っている。その距離はさっきよりも確実に短くなっていて、いつもだったらその近さに心臓が高鳴るのに、今はそれどころではない。むしろ冷や汗さえ出ている気がする。懇切丁寧にそういうのは関係を深めてからだと伝えているのに、シンは理解していないのかなんなのか、ただひたすらヤろうぜしか繰り返さない。倫理観どうなってんだほんとに。ぐるぐると言いたいことが頭を巡る。そして悔しいような悲しいような、なんとも言えない気持ちになった夏生は、思わず叫んだ。
「〜〜っヤるわけねーだろ!バカエスパー!」

 それからというものの、会うたびにまるでちょっとコンビニ行こうぜ!くらいの気軽なノリで誘われている。セックスってそんなノリでするものだったのか?なにせ経験がないから答えが分からない。分からないが、朝倉シンが狂っているということは分かる。

 次の日は、変わらず軽いノリで。
「セバ〜!オレとイイコトしない?」
「しません」

 その次の日は、頬を染めた扇状的な表情で。
「な、身体火照ってきちゃたんだけどたすけてくれる?」
「クーラーでもつけて寝てろ」

 そのまた次の日は、ドヤ顔で。
「セバって経験あんの?オレけっこう上手いと思うから天国見させてやれると思うけど」
「どっからその自信でてくんだよ」

 またまた次の日は、分かりきった茶番で。
「ああ〜!こんなところにコンドームが使って欲しそうに落ちてる!」
「無機物に感情があるわけないだろ」

 そして昨日は、なぜか現物を用意して。
「なあなあ、メイド服とナース服どっちが好みなんだ?オレ的おすすめはメイド服猫耳カチューシャ付きなんだけど」
「唐突に性癖ぶっ込んでくんな」
「おっけー猫耳メイド服網タイツな」
「なんで増えた?」

 この六日間、毎日毎日繰り返されるソレに苛立ちながらも、軽くあしらうようになってきた夏生はガラクタをまとめて箱に入れ、自分の工房へと向かっていた。流石に作りすぎた武器が研究室を圧迫していたので、先輩達からどやされたのだ。いくらブキ科のエースとは言え、先輩のいうことを聞かなさすぎるのも問題だろう。ガチャガチャと音が鳴る箱を抱えながら歩いていると、ちょうど目の前の教室からクソエスパーが出てきたのが見えた。後を続けて暗殺科の教師の姿も見えて、珍しいその光景に首を傾げた。教師は二言ほどシンに声をかけて、反対側へと歩いていく。シンはそのまま振り返り、そして夏生の姿を見つけるとパッと顔を輝かせた。ポケットに手を突っ込みながらこちらへ来て隣を当然のように歩くので、何も言わずに歩みを進める。
「セバ!ちょうどよかった、今から向かおうとしてたんだ」
……
「そういえばそろそろどう?ヤる気になった?」
……
「なあ、セバ〜聞いてる?」
……聞いてない」
「聞いてんじゃん!聞こえてるならいいだろ〜ヤろうぜ!」
「何度も言わせんな、やらねえよ」
「そっか〜、残念。そういえば、さっきの授業でさ〜」
 セックスの誘いとは思えないほどの軽薄さだ。いつも通り軽く流すと、こいつは何事もなかったかのように、その日のことを話し始めた。教師と体術で戦った時のことを楽しそうに語っており、いい経験が積めたのだろうと察せられる。
 一日一度誘いがあり、それを断ったら倫理観ガバガバエスパー野郎はただのエスパー野郎に戻る。そうなったら元の関係と変わらない、遠慮のない距離感に戻るので、やはりこいつの考えていることはよく分からない。それでも、噛み応えのないこのやりとりに、少しずつ心臓の下の辺りが重たくなっているのは確かだ。
 ただのエスパー野郎は、工房へと向かう夏生のうしろをひょこひょこと着いてくる。工房にはもう何度も一緒に訪れているし、他の奴には内緒にしている場所も、こいつは知っている。その事実をしっかりと考えてほしいのだが、アホな金髪は何も考えてない顔で歩いている。ふたりで適当なことを話しながら、いくつか角を曲がり、木をくぐり、草をかき分けて到着した工房の扉をゆっくりと開けた。少しだけ埃っぽい匂いが鼻に触れる。ここに訪れる頻度はそこまで多くないので、やはり定期的に空気の入れ替えが必要だな、と思いながら持っていた段ボールを床に下ろした。なにを言うでもなく隣に腰を下ろしたエスパー野郎は、箱の中身を眺めているようだ。こういう時間を過ごす時、邪魔をしないのならばと、基本的に好きなようにさせている。ラボにいたからか、研究室や工房のような場所が案外好きなようだった。普段の喧しさからは想像できないほど、澄んだ空気を滲ませているこいつに、慣れることはまだできていない。
「なあセバ。どうしても嫌か?」
……またその話かよ、散々言ってんだろ」
 珍しく今日は2回戦があるらしい。こちらを見ずに話し出すシンを少し面倒に思いながら、工房の整理を続けるために立ち上がろうとした瞬間、腕を強く引かれた。バランスを崩してしまい、大きな音を立ててシンの方へと倒れる。下敷きにしそうだったので、腕をついてなんとかそれを防いだ。するりと頬を撫でられて目を開けると、息がふれるほど近くに想い人の顔があった。さすがに動揺して顔を逸らそうとするが、なにを考えているのかシンは両手を使って自分の方へと向けた。ゴクリ。どちらのものか分からない唾を飲み込む音が聞こえる。多分おそらく、認めたくないけれどこれは夏生が出した音だ。
 すると、つつ、と喉を上から下へ指でなぞられ、そのままその指は俺のズボンへと伸びた。スウェットのゴムとパンツの間に指を入れられて、思わず身体に力が入る。心臓は爆発しそうなほど動きを速めていて、背中は汗ばんでいる。いつもは言葉だけで、こんな直接的なことをされたことがなかった。身体も心も叫び出したいほど熱い。だけど。
「お前とヤれたら、それでいいんだよ、オレ」
 その言葉を聞いて、沸騰していた体温が一気に下がったのが分かった。
 そうじゃないんだよ。好きな人と両想いで、ましてやその好きな人から関係を持とうと誘われている。シチュエーションだけ見れば、羨ましいのかもしれないし、据え膳なのかもしれない。でも、そうじゃないんだよ。俺は、好きな人とは付き合いたいし、デートもしたい。ソウイウコトももちろんしたいけど、それよりも関係性を深めて、お互いのことをたくさん知って、喧嘩して仲直りして。始めたいのはそこからなんだよ。なのになんで、分かってくれないんだ?
 一方的に押し付けて満足するなら、最初から言わないでほしかった。
「お前さあそんな俺のこと揶揄って楽しい?」
え?」
 思っていたよりも冷たい声が、広い工房に響いた。見下ろしていたシンの表情が曇る。それを見ながら体を起こして胡座を掻いて溜息を吐いた。シンの指は、もう離れている。起き上がったシンは顔をこわばらせてこちらを窺っている。
「この間からのソレ、マジでなんなの?俺のこと馬鹿にして遊んでるようにしか思えないんだけど」
「え、いや、そんなつもりじゃ」
「じゃあなんなわけ?俺の気持ちに気づいて、揶揄って愉しんでるだけじゃん。俺のこと何も考えてない」
 今までの苛つきや、自分の中に燻っていた言葉がどんどんと出てきて、その語尾が強まってしまう。なあ、なんでこんなにも上手くいかないんだ?
「そもそもお前心読めるんだろ?俺が何考えてるか分かってるくせに、そんな態度なの気持ち悪いんだよ!」
 思わず出てしまった言葉に、はっとして口をつぐむ。違う、気持ち悪いなんて思ったことない。すぐにそう否定できればよかった。だけど、泣きそうに顔を歪めたこいつに、言葉が詰まる。ふたりの間に静寂が落ちた。
「オレさ、お前の思考読んでないよ」
 しばらくして、ポツリと溢れたシンの声は、今まで聞いたことのないくらい静かなものだった。
「もちろんふとした瞬間に読んじゃうことはあるけど、お前に気持ち伝えてからは極力読まないようにしてた。お前経験あんまなさそうだし、流されてくれたらいいなーとは思ってたけど。分かっててわざと軽い態度とってた」
 弄ばれて傷ついているのは夏生のはずなのに、どうしてお前がそんな辛そうな顔して笑うのか、分からなかった。
「だって悲しいだろ?もし笑ってるのに、心の中で拒絶されてたら」
 シンが立ち上がり、ゆっくりと扉へと歩みを進める。それを止められるだけの気力は、湧いてこなかった。
「オレがセバのこと好きなの本当だよ。ただ、そこからどうすればいいか分からなかったんだ。もう会えないなら、付き合うとかよりも思い出がほしかった」
 シンが工房の扉を開き、こちらを振り向いた。そんなに距離はないはずなのに、扉の隙間から夕陽が入りこみ、シンの顔は陰になっていて窺えない。
「なあセバ。オレ、明日ここを出るよ」
 そう言ったくそエスパーの表情を、夏生はきっと一生知ることはできない。シンが背を向ける。鈍い音を立てて扉が閉まった。つい先ほどまで眩しかった視界は、薄暗く陰鬱としたものに変わっていた。ふと、自分がとんでもない間違いを侵してしまった気がした。もしかしたらあいつとの不思議な縁も、このまま途切れてしまうのかもしれない。そう考えて、それは嫌だなと素直に思った。もっと早くあいつの話を聞いていれば、もっと自分に正直になっていれば、こんな結末にならなかったのだろうか。
 なんて考えるには早すぎるのではないか?だって、拗れてしまっているけど、自分たちは両想いのはずだ。武器を作る時も間違えては違う方法を試し、失敗してはそれを糧により良いものに作り変えていく。人間関係がそれと全く同じとは言わないけど、繋がっているものもある。結局は行動しなければなにも変えられやしないのだ。そして夏生は、もう会う可能性のないエスパー対策のフードを作ってしまうくらいには、諦めが悪い。俺はこれからの動きの算段を頭で考えながら、立ち上がった。

 次の日。まだ日が昇る前の、薄暗く肌寒い朝に身を震わせながら、夏生は学外に出る奴が使うヘリポートの扉の近くで、目の前から消えようとしているアホを待っていた。フードを深く被り、壁に背をつけて空を見上げる。ヘリコプターが動くのは日が昇ってからだから、ここで張ってれば必ず会える。
 ここを発つ時間は聞いていないが、いくらでも待ってやると思っていると、壊れそうな音を立てて扉が開かれた。そして思った通りに姿を現したくそエスパーは、眠たそうに欠伸をしながら歩いてきていて、夏生に気づいた素振りはない。暢気に歩くその腕を強く引っ張ると、驚きに目を見開く。薄い唇が小さくなんで、と動いた。やっぱり脳波遮断フードを作っておいて正解だった。あの時の俺の判断は全く間違っていなかったのだ、なんて思いながら、自分よりも小さいその身体を壁へと押し付けた。シンの瞳が、真っ直ぐに夏生を見て、それからすぐに逸らされた。気まずそうな表情を浮かべているのに苛つくが、それより早くシンが口を開いた。
いると思わなかった。なにも聞こえなかったし」
「昨日言えなかった文句言いにきたんだよ。聞く?」
 そう言うと、伏せられたシンのまつ毛がふるりと震えた。ギュッと拳を握り、シンが顔を上げる。
うん、聞く」
 もう最後だから。そう言わんばかりの顔で見上げられ、思わずふ、と笑ってしまった。こわばっていたシンの顔が崩れるのを目に入れながら、被っていたフードをとった。この瞬間からこいつは俺の心を読み放題だ。でも、今こいつはその力を使わない。夏生に拒否されるのが怖いと思っている臆病者は、夏生が発する芯の言葉だけを聴くのだ。両手を壁に軽く置き、このくそエスパーが逃げられないように囲う。
「ふざけんなよ。勝手に言いたいことだけ言って、いなくなろうとすんじゃねーよ」
うん」
「正直勘弁してくれって思ってた。俺で遊んでんじゃねーって」
……うん」
「あんな軽い感じで言われて、本気だと思えるワケねーじゃん。俺心読めないし。俺がこんなに我慢してんのに、無邪気に笑ってんのが苛ついてた。なんでお前そんなエロいの?」
……ん?」
 ジリジリとシンとの間にある距離を詰めていく。バカなこいつでも、さすがに違和感を覚えたらしい。
「つーかその服とかさ〜首元ガバガバすぎじゃね?その隙間に手突っ込みたいって何度も思ってたし、腹チラだって多すぎだろ。警戒しろよ男は皆オオカミなんだぜ」
「突っ込?!い、いや。ちょっと待ってセバ」
 動揺しているのか、手を前に出して距離を取ろうとするシンの腕を掴む。
「今だって簡単に俺の腕の中にいるくせに、ガチで襲われてもしらね〜よ俺。お前チョロいし、お菓子あげるからおいで〜なんて言われたらすぐ着いて行っちゃうんじゃねーの?」
「いや、行かねーよ!オレのこと何歳だと思ってんだよ!?」
 明確にバカにされていることが理解できたのか、シンの顔に、いつも見ている怒りの表情が浮かぶ。ああ、やっぱりこいつはこうでないと。何度も見ているはずなのに、久しぶりのように感じる顔を見ることができて、口許が緩みそうになる。それをなんとか押し込めて、言葉を続けた。
「俺はお前みたいに思い出だけもらってさよならするつもりはないけど」
 目を逸らしたら、そこで終わりだと思った。その予感は正しくて、そして間違っているのだろう。シンの瞳が大きくなり、頬がじわじわと赤く染まっていく。
「覚悟が足りないなら、無理やりにでも決めさせてやってもいーぜ。あと、気持ち悪いって言ってごめん。ほんとはそんなこと思ってないから。だからッ」
 勝手に消えるのだけはやめてくれ。その言葉が夏生の口から出ることはなかった。こいつがいなくなるのはもう決まった未来で、止める術はきっとない。夏生が醜く泣き喚いたとしても、JCCを去ることを決めているこいつが意思を変えることはない。でも、勝手にいなくなるのはやめて欲しかった。自分との未来を、勝手に諦めないで欲しかった。言葉に詰まってしまい、つい下を向いたが、すぐに上から笑い声が降って来た。
「はは、お前そんな顔できるんだな。俺、何見てたんだろ」
 目を上げると、頬を染めたシンが観念したように笑っていた。そこで夏生は初めて自分の身体が緊張で固まっていたことを知った。力が抜けて、指先に血が回ってくる感覚がする。
「そんな顔で必死に追いかけて来てくれるくらい俺のこと想ってくれてるって、初めから信じればよかった。思い出にする覚悟じゃなくて、これからを過ごす覚悟を決めるべきだった。ごめんな、セバ。振り回して」
「ほんとにな、お前もうちょっと周り見ろよばーか何のためのエスパーだよ」
「うん」
「俺はお前に読まれて不都合なこととかたくさん考えてるけど、読まれるの嫌なわけじゃないし、拒否とかぜってーしねえから」
不都合なことって、例えば?」
「いや、それは
「えっちなこととか?」
「分かってんなら聞くんじゃねえよばーか!」
「当たってんのかよ!つーかおい、さっきから聞いてりゃ、バカバカ言いすぎだろお前」
「うるせ〜お前なんてバカエスパーで充分なんだよ」
「はあ〜?語彙力ないのかよブキ科のエースくんはよ〜」
 売り言葉に買い言葉。だけどそれが自分たちらしいとも思う。先ほどのしんみりした空気がどこかへ行ってしまいいつもの、遠慮のない、それでいて息のしやすい距離感へと戻った。それがなぜだか面白く感じて、夏生とシンは同時に笑ってしまった。ヘリコプターの運転手は、時間通りに出発できなかったことに苛ついているのだろう。不機嫌な顔を隠さずにすぐそこで待っている。
 ふと見ると、金色の髪が朝陽に照らされチカチカと輝いていた。風が出て来たのか、揺れた髪の毛が顔にかかりシンの顔が隠れたので、夏生はそっと右手を伸ばしそれを耳にかけてやった。シンの瞳がゆっくりとこちらを見上げる。あ、いけるかも。そう思った夏生はそっと、シンに顔を近づけた。ふたつの影がひとつになる瞬間。重ねようとした唇が、直前で少しカサついた手で遮られた。ムッとした俺の顔を見て、シンは海の向こう側から出てきたばかりの太陽のように笑う。
「違うだろ?ちゃんと付き合って、手を繋いでそれからキスしてセックス、だろ?」
「おっまえ、ちゃんと読んでるんじゃね〜か!」
「いってて、ちょ、引っ張んなよ!」
 言葉にされるとなんとも恥ずかしく、思わず頬を添えていた手で髪の間から顔をだしている小さな耳を引っ張った。シンはその指をやんわりと外し、そのまま手に何かを握り込ませた。それにもちろん気付いたけれど、それよりも今この羞恥心をどうにかしたい。もう片方の耳も引っ張ろうと手を伸ばしたが、ひらりと躱したシンは身体をかがめて、腕の囲いから簡単に出て行ってしまった。
「じゃ〜な、セバ!ちゃんと会いに来いよ!」
 笑いながらヒラヒラと手を振って、それから振り向きもせず、シンはヘリコプターに乗り込んだ。窓からは薄らと金の束が見えているが、それがこちらを見る気配はない。そうしてそのまま、ヘリコプターは大きな音を立てて飛び立つ。ゆっくりと上昇していったそれは、高度を落とさず真っ直ぐ、本土の方へと進んでいく。もう、ヘリコプターの中は見えない。だけど、今きっと、シンはこちらを見ている。そんな気がした。
 強い風が吹き、思い通りにならない天パの先が揺れる。かき乱すだけかき乱して、あっさりと手を離していったくそエスパーにしてやられたような、それでいて満更でもない気持ちになる。初めて会った時も、今も。シンはそうやって夏生の心に大きなものを残していく。それを心地よいと思ってしまっている時点で、きっと俺の負けだ。
 ヘリコプターが見えなくなってからそっと手を開く。強引に渡されたのは、ノートの切れ端をだったようだ。折り畳まれたそれを開くと、そこにはあいつが働く小さな商店の住所が書いてあった。
「いやふつ〜は連絡先書くだろ
 夏生は脱力して、その場に座り込んだ。少しだけひんやりとした屋上の床では、夏生の浮ついた心を冷ますことはきっとできない。
 さて、続きはどこから始めようか。もうすでに理想とはかけ離れたところにいるのだ。とりあえず次の休みに外出届を提出して、アイツに会いにいってやろう。来るの早すぎと笑われるだろうか、それとも嬉しいと喜んでくれるだろうか。一緒に飯食って映画でも観て買い物もして。その流れで手を繋いで帰り際にキスをして。寂しそうな顔をするであろうアイツにまだ帰りたくない、なんて言って、家に上がり込んでやる。俺の初恋を奪った挙句弄んだ責任、きっちりとってもらうからな。


2023/2/1