鳴上
2024-01-22 17:38:37
73645文字
Public ナツシン
 

ナツシンまとめ2022〜23



リピート


 朝は憂鬱だ。カーテンの隙間から漏れ出る光も、薄い壁の向こうから聞こえる子供達の元気な声さえも鬱陶しく感じてしまう。それは仕事に行きたくないからに他ならない。だけども現実は無情で、働かなければ生きていけない。今日も俺は身体を無理やり叩き起こして、なんとかスーツを着て出勤する。今の職場に勤め始めて早十数年。三十代も半ばのいいおじさんになってしまった。結婚もしていないし彼女もいない独身貴族だ。
 ガチャリ、古びたドアを開けて外へと出る。太陽が爽やかな朝を演出しているが、嫌なものは嫌だ。はあ、とため息を吐きながらドアを閉めた。築うん十年のボロアパートは、壁が薄いし冬は寒くて夏は暑いし、いつもどこかが壊れそうな音を立てる。だけど住めば都という言葉があるように、慣れてしまえばなんてことない。男の一人暮らしには充分だった。
 さあ、今日もなんとか一日を乗り切るか、と思っていたら丁度お隣の部屋のドアが勢いよく開いた。ばちり、目が合って目の前がチカチカと点滅する。
「おはよーございます!今から出勤すか?」
「ああ、うん。おはようアサクラくん」
 挨拶を返すと、金髪で愛想のいい青年が今朝の太陽のように笑った。
「俺も!今日寝坊しちまってさ〜朝ごはん食べれてないんだよな〜」
「朝はしっかり食べないと」
「だよな〜、てヤバ時間!じゃあ俺行くんて!」
 髪を靡かせて軽やかに走るその後ろ姿を、俺はじっと見つめた。
 朝は憂鬱だ。でも最近、そうではなかったりする。それは隣人──アサクラくんと仲良くなったからに他ならない。俺はこのボロアパートもう何年も住んでいるけど、アサクラくんは少し前に引っ越してきたばっかりだ。隣に誰かが引っ越してきたことは知っていたが、特に挨拶もなかったためその時は気に留めていなかった。アサクラくんの存在を知ったのは、彼が引っ越しできて数ヶ月経ったある日のことだ。その日も俺は残業で、日付を超える少し前にやっと自分の家に着いて、これからお風呂に入ったりと頭の中で色々と考えていたところだった。
 いつもなら明かりの消えている隣の部屋に珍しく電気が灯っていて、誰かがベランダの手すりにもたれかかっているのが見えて、俺は足を止めた。お隣さんは朝早く出勤しているようで、朝方によく物音がする。そして俺が家に帰る頃にはもう寝静まっているようで、物音なんてほぼしないのだ。
 だからなんとなく、本当になんとなく足を止めて、そのまま視線を上げた。そして俺は本当に固まって動けなくなってしまった。規則正しい生活をしているお隣さんは金髪で、顔にかかる髪の毛でできた陰に何故かどきりとしてしまう。誰かと連絡をとっているのか、待っているのか、携帯を見つめているようだ。伏せた目は何を考えているのか分からないが、手に持つタバコから出た煙が彼を何処かへ連れて行きそうな気がした。極め付けは服装だった。部屋の明かりで影になりわかりにくいが、白いタンクトップにジャージという、変哲もない服装。だけど健康的な肩が両方露出し、鎖骨の形まで分かるほどに無防備なその格好に、俺は思わず生唾を飲み込んだ。
 そしてハッとする。いやいや、何考えてんだ。年端もいかない青年に、こんな。止めていた足を進めて、その勢いのまま自分の部屋へと向かう。
 ……そうだ、今日の晩ご飯は餃子を焼こう。たっぷりのニンニクが入った餃子は冷凍のものだがとても美味いのだ。それとビールで優勝だ。ガチャリ。バタン。自分の思考が信じられなくて、頭の中を今日の晩ご飯のことで無理やりいっぱいにして、部屋の中に入った。
 その日からしばらく、家に帰る時俺はドキドキと心臓の音を鳴らしながらアパートへと歩くのだが、その日以降彼の姿を見ることはなかった。ホッとするような、残念なような。この歳になるまでロクに彼女もいなかった。だからと言って、男の子に興味があるわけでもなかった。だから、こんな。次の日の朝目覚めて、不快感のある下半身を悟った俺は大きくため息をついた。
「はあ、嘘だろ……

 いらっしゃいませー、と店員のやる気のない声が店内に響く。今日も仕事の終わりは遅くて、家で何かを作る気にはなれなかったので、帰宅途中にあるコンビニに寄った。適当に弁当か何かを買おう。そう思って店内を彷徨いていると、うしろから聞き覚えのない声が聞こえた。
「お、お隣のおにーさん」
「えっ、?」
 振り返るとそこにいたのは、あの日ベランダで見かけた彼で、俺は大きく狼狽えてしまった。なんで俺を知っているんだ?
「え、え、なんで……
「あ、すんません。俺隣に住んでるアサクラです!この間の朝、隣の部屋から出てくるところちょうど見てさ〜。勝手に知り合いの気持ちになってた」
「え、や、うん。全然、こちらこそ……
 相変わらず無防備な格好で、ニコリと笑う顔は爽やかな朝みたいだった。
 何買うんすか〜、なんで気軽に話しかけてくる青年に、俺は舞い上がってしまって、うまく答えることが出来なかった。だって、俺を知ってくれている……!一方的だと思っていたのに、まさかそうではなかったとは。そんな嬉しいこと、あるか。
 前に見た時よりもはるか近くにいる彼に、俺はどうにかなってしまいそうだった。ああ、肌は健康的で艶やかだし、心なしか良い匂いもする。ジャージを羽織っているのに出ている肩は、太すぎず細すぎず大変好みだった。
「じゃ、じゃあ俺、レジ行くから」
「はーい」
 そんなことを考えながら適当に弁当を選びレジへと持っていく。彼──アサクラくんは、すでに会計を済ませているようで、ビニール袋を片手にかけてコンビニを出て行った。
 震える手で携帯を開いて電子マネーの画面を出す。プルプルとしているそれにやる気のない店員は不思議そうにしていたが、俺はそれどころではなかった。まさかのご対面に、動揺を隠し切ることが出来なかった。
 レジを終えて店を出る。そして驚嘆する。
「おー、きたきた。んじゃ帰りましょ〜」
 車止めに腰掛けて携帯を見ていたアサクラが、こちらを見てそう言ったから。なんで。声にならない言葉が口の中で響く。先に帰ったと思っていたのに、まさか、待っていてくれてたのか。今初めて話した、ただのアパートの隣人を。
 ああ、もう抗いようがない。俺は彼のことを。
 そこからのことはあまりよく覚えていない。ただ暗い夜の中一緒に帰った彼はピカピカと輝いていて、ただそれだけが頭の中に残っていた。
 それからというものの、アサクラくんとたまに会えば挨拶をしてくれたり、話しかけてくれたりと良いご近所付き合いをするようになった。今日の晩ご飯の話から、仕事の話。会うたびに色々な話をした。一度だけ、
「あ〜、色々大変だと思うけどさ、あんま溜めない方がいーと思うぜ」
と言われたが、その意味を理解することはできていない。だけどいいのだ。アサクラくんと仲良くなれて、俺は苦手な朝が憂鬱ではなくなった。だってタイミングよければ朝出勤する彼と、それか夜帰る時に会って話すことができるから。
 アサクラくんに恋人が居るようには見えない。一人暮らしだし、彼を訪ねる人も見たことがない。だから俺は胸を弾ませる。高確率で会うことも、俺を見つけると笑顔になるのも、もしかしたら。もしかしたら、俺と同じなのではないか、と。

▽△▽△▼▲▽△

 ガゴン、と到底エアコンからしたとは思えない音が鳴って、俺は思わずため息をついた。電源を切って、つけて、もう一度切って、つけて。だけどうんともすんとも言わないエアコンは、とうとう壊れてしまったようだ。少し前から調子が悪いな、とは思っていた。夏も終わりかけで、今からエアコンを新調するのはな……と尻込みしていたら、このザマだ。まだまだ暑いのにこれからどうしようか。せっかくの休みの日なのに、ツイていない。
 ベランダに置いてある室外機を蹴ったらどうにかならないかなと思って実行してみるも、やはり何にもならないようだ。
「あ〜〜最悪だ……
「どーしたの?」
「!アサクラくん」
 ベランダで項垂れていると、隣から声をかけられる。ひょっこりと顔を出したアサクラくんは火をつけたばかりのタバコを咥えていて、ちょうどベランダにに出てきたみたいだ。
「いや〜、エアコン壊れちゃったみたいで。どうしようかなと思ってたところなんだ」
「今壊れるのはきびしー……。あ、そーだ!」
 閃いた!と言わんばかりの笑顔を向けてくるので、ドキドキと心臓は止まることを知らない。
「今から俺の部屋に遊びに来る奴、機械に詳しいからもしかしたらエアコン直せるかも!」
「え、本当かい?」
「お〜いっつも色々作ってるし、学校でも専門的にやってるから多分いける!言ってみるな」
 そう言いながらスイスイと携帯をイジるシンくんに、俺は何度でも見惚れてしまう。ああ、いい子だなあこの子は。
「あと三十分くらいで着くらしいから、来たらまた部屋行く!」
「う、うん。ありがとうアサクラくん」
 それからそれぞれの部屋へと戻る。暑いので窓を開けたまま、俺はヘナヘナと床に座り込んだ。まさかのアサクラくんが俺の部屋に来るイベントが発生してしまった。どうしよう、こんな汚い部屋に彼を入れたら彼が穢れてしまうかもしれない。とりあえずゴミをまとめて、コロコロをしよう。そう思って、それからふとその動きを止めた。
 アサクラくんの部屋を訪ねてくる奴、とは一体誰だろうか。アサクラくんはよく携帯を気にしていたけれど、もしかしてその奴と連絡を取り合っていたのだろうか。友人なのか、それとも。でも奴と言っていたしきっと男の子だ。それならいいんだけど。嫌な予感が、する。誰かがアサクラくんの部屋に遊びにきたような形跡は今までなかった。そんな中で来る奴と、アサクラくんとの関係は、一体。
 考え始めたら止まらなくて、ゴミをまとめようと出した袋を放り投げて、玄関へと走る。どんな奴が来るか、見極めよう。アサクラくんに相応しい友人なのだろうか、俺が確認しなければ。なぜかそんな使命感に駆られて、外の音に耳を傾ける。
 そうしてきっかり三十分後。カンカンと階段を歩く足音が聞こえて、隣の部屋のピンポンが押された。……来た!もう心臓はバクバクと鳴っていて、はち切れてしまいそうだ。音が鳴らないように気をつけながらそっとドアを開けて、アサクラくんの部屋の前に立つ男を見る。
 そこにいたのは背の高い、陰気そうな黒髪の男だった。作業着のようなものを着ていて、なるほど確かに機械弄りが得意そうな風貌だ。ガチャリ、アサクラくんがドアを開けてその黒髪の男を出迎える。
「よ〜セバ!久しぶりだな」
「そーだな」
「元気してた?」
「まあそれなりに。お前は?」
「俺もそれなり!つかさ、さっき連絡したと思うんだけど、んむっ」
 普通の会話だった。久しぶりに会った友人同士のなんの変哲もない会話のはずだった。それを遮ったのは黒髪の男で、アサクラくんの顔に自分の顔を近づけたと思ったら、薄ピンク色の唇をそのまま奪った。その瞬間頭が沸騰してしまったように熱くなって、目の前が真っ赤になる。なんてことをするんだ、俺のアサクラくんに!だけどそう思ったのは一瞬で、すぐに俺は後悔することになる。
 目に入ってくる情報を信じたくなかった。アサクラくんは黒髪の男の行動を咎めるでもなく、腕を首に回して受け入れているではないか。なんで、どうして。そんな疑問が頭の中をぐるぐると巡る。止めようとした手は伸ばされたまま、行き場を失ってしまっている。
 その間にも黒髪の男はアサクラくんの頭を撫でて、そのまま腰に手を回してさらに密着する。アサクラくんは頭を撫でられたことに嬉しそうに笑って、再びふたりは口を合わせる。
「ん……セバ、ダメだって。ここ外」
「なら中だったらいーの?」
「あっ、ちょ、セバ……ん、ぁ」
 セバと呼ばれた黒髪の男がアサクラくんを部屋の中に押し込んでいき、姿が見えなくなる。バタン。ドアが閉まる。
 だけどアサクラくんの声が鮮明に聞こえてしまって、頭を抱えてしまいそうだった。最後に見えた、アサクラくんの赤く染まった舌の色が、目に焼きついて離れない。
 ああ、なんだ今のは。認めたくない。だけど、目の前の現実は無情で。浮かれていたここ数ヶ月の自分を殴り付けたかった。なんで、どうして。あんまりだよ、アサクラくん。
 ぼうっとする頭でなんとか部屋に入って、リビングへと向かう。クーラーの切れた部屋は蒸し暑くて、こめかみから汗が流れ落ちた。
 全部勘違いだったんだ。何も分からない中で理解できたのはそれだけで、だけどどうしても熱を持ってしまった下半身に、深く絶望する。
 アサクラくんの甘やかな声が頭の中をリピートする。ああ、こんな時にも俺は。
 静かに涙を流しながら、ベッドの上へと蹲る。俺のことなんて忘れて、隣で行われているだろうコトに思いを馳せながら。


2023/8/29