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pinopipi
2026-05-18 23:07:05
99483文字
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交錯する恋花にレクイエムを②
ヌヴィフリ花吐き病の話②/長編/捏造しかない/何でも許せる人向け/メタ発言注意/ほぼ地獄のターン/一部キャラ崩壊注意
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深夜、パレ・メルモニア。
ヌヴィレットは上層階の自室で窓越しに雨音を聞きながら、今もなお山積みの書類と向き合っていた。
日中の勤務時間内で既に本日分のノルマはこなしていたものの、身体の自由が効くうちにーーーとなれば1日でも早く全てを終わらせ、最高審判官としての責務を最後まで果たさなければならない。
それと、夜は断続的に発作が起こりどうせ眠れないから
…
というのもその理由のひとつであった。
だが、ヌヴィレットはまたしてもあまり集中できていなかった。ひとりきりになると、どうしても彼女ーーーフリーナのことばかり頭に浮かび、気付けば過去の回想や、現在
…
そして未来の彼女について考え耽ってしまうのだ。
彼女と過ごした日々はどれも鮮明に思い出せる。いつも、彼女の一挙一動に目が逸らせなかった。人は声から忘れていくものだというが、ヌヴィレットはあの様々な感情を乗せて己の名を呼ぶ声も、透き通るような美しい歌声も、生涯決して忘れることはないだろう。今ではヌヴィレットだけが大切に抱え続けているそれらの記憶は、ヌヴィレットにとってかけがえのない宝物であり、同時に心身を蝕む毒でもあった。
恋とは実に厄介なものだと、ヌヴィレットは思う。公私混同など絶対にしない主義であるのに、拗らせ過ぎたこの想いはついに"公"の部分にまで影響を及ぼすようになってしまった。
「ゲホッ
…
っぐ
……
、ゲホ、げほっ
…
」
はらはらと淡いブルーの花が木製のデスクへと転がり、白い床へと落ちていく。
フリーナの記憶を奪った後にようやく知った、この花の名前。
…
実に皮肉なものだ。
ーーーーミオソティス・ミオマルク。花言葉は【真実の愛】、そして
………
「
………
【私を忘れないで】、か
……
。」
初めて花を吐いた時、この花がフリーナに似ていると直感的に思った。実際その感覚は正しく、この花の名は、今ある彼女の異名のひとつにも含まれている。もし花に詳しい者
…
或いは彼女のファンがこれを見れば、ヌヴィレットの想い人はフリーナであると容易に察することができるだろう。それほどまでにあからさまな好意をこの花が示している。よく最後まで本人に気付かれなかったものだと、ヌヴィレットは思った。
フリーナと会わなくなった日からーーー否、記憶を奪ってから病状が悪化しているのはおそらく、ヌヴィレットの深層心理がこの花言葉通り【私を忘れないで】とひたすらに訴えているからだろう。もう今更どうにもならないというのに、なんと諦めが悪いのだろうか。ヌヴィレット自身ですら、龍の執着深い性質への理解が甘かった。
…
そもそも、恋をするのは初めてだったのだから仕方がない。たったひとりをこれほどまでに深く愛したことなど、今まで一度もなかったのだから。
いくら理性を納得させても結局は全て無駄なのだと
…
そう理解をしてしまえば、その後ヌヴィレットが選び取るべき選択肢は1つだけだった。
「
………
やはり、時間がない。」
予言解決後、直ちに諭示裁定カーディナルに替わる装置の開発計画を進めておいて良かったと
…
、ヌヴィレットは改めて思う。今目の前にある引き継ぎ業務さえ終われば、少なからず責務を果たしたことになる。フォンテーヌはもう、ヌヴィレットがいなくても大方支障はない。幸い、今まで公務でヌヴィレットを支えてきた人々は、各々の分野において極めて優秀な者ばかりだ。フォンテーヌ政府はヌヴィレット1人の存在が消えた程度で途端に回らなくなるような、そんな脆弱なものではない。かつてフリーナが500年を掛けて緻密に築き上げた基盤を、丸ごと引き継いだヌヴィレットがこの3年でより強固なものにした。ーーーだから大丈夫だと、ヌヴィレットはそう自らに言い聞かせた。
小さく息をつき、静かに目を閉じる。
瞼の裏に映し出されたのは、最愛ーーーフリーナの笑顔。
それに釣られるようにヌヴィレットも柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくりと目を開いた。
気を取り直して書類仕事を再開しようと、デスクの上へと視線を戻す。
すると、突然現れた一羽の小鳥が何かを咥えてヌヴィレットをじっと見つめていた。羽根だけが綺麗な若草色の、白い小鳥。フォンテーヌでは見たことのない小さなツルの葉と、星型の小さな青い花を一輪首に巻いている。窓は完全に閉め切っている筈であるのに、一体何処から入って来たのだろうか。野生にしては随分と人馴れしているように感じるが、飼い主と逸れたのだろうか。もしくは
…
異国から何らかの理由で迷い込んできたのかもしれない。しかし、小鳥が雨に濡れている様子もなく疑問に思っていると、小鳥は咥えていたものをデスクの上に落とし、すぐに窓の方へと飛び去ってーーーー閉め切られたカーテンに衝突するよりも前に光の粒子となって消えていった。
ヌヴィレットは再びデスクへと視線を戻す。小鳥が置いて行ったのは、見覚えのある若草色の封筒。パティサラの香りを纏うそれは、スメールの草神、ナヒーダからの手紙であると確信する。ヌヴィレットはすぐに手紙を開封した。
神聖な草元素の光が放たれる。そして、眼前に若草色の文字が浮かび上がり、ナヒーダの声が響き渡った。
『ーーーーこんばんは、ヌヴィレット。
お返事が遅くなってしまってごめんなさい。
過去の症例に関するデータと貴重なサンプルをどうもありがとう。それから、支援金についてもとても感謝しているわ。おかげで学者達は今まで以上に研究に意欲的よ。
それで
…
そちらの状況はどうかしら?少しでも穏やかであることを祈っているわ。
ーーーさて、早速だけれど、研究の進捗状況について報告させてちょうだい。
あなたが送ってくれたサンプルの遺伝子を解析した結果、新たな事実が判明したの。
一般的に花の種子の発芽と開花に必要なものは、光、水、空気、温度、そして養分。だから通常、ヒトの体内では育たない。
…
でも花吐き病罹患者が吐く花の性質は、一般的な花とは全く性質の異なるものだった。
まず、花吐き病発症の機序から説明するわね。感染源となる花ーーー花吐き病罹患者が吐いた花に他者の皮膚が触れることにより、病の原因となる毒素が経皮的に体内へ吸収される。その毒素は毛細血管内へ浸潤し、血流に乗ってやがて脳へと至る。そして嘔吐中枢の機能を支配し、体内に花の種子を生成させるための物質を分泌する。こうして出来た種子は患者の胃内に潜伏し、不安や悲しみ、絶望にも似た強い感情ーーーつまり"拗らせた恋心"を養分にして発芽する。開花までの時間はおそらく短くて数十秒、長くても数分程度よ。こうして胃内で次々と開花して、その花弁が胃壁に触れることにより毒素が嘔吐中枢を刺激し、花を吐く。そしてまた脳が種子生成の物質を分泌して胃内に新たな種子を潜伏させると同時に、胃内で開花した花同士が受粉して更に種子が増えていく
…
という感じかしら。』
ヌヴィレットはナヒーダの専門的な解説を脳内で咀嚼しながら、難しい表情を浮かべる。
「
……
成程。それで命が尽きるまで花を吐く行為を無限に繰り返す
…
ということか。」
静かに独り言を溢し、引き続きナヒーダの報告に耳を傾けた。
『この説を立証するため、花吐き病罹患者の花を人工的に受粉させて種子を取り出すことが出来るかどうか実験をしてみたのだけれどーーー結果は可能だった。でも、その種子には光や水、肥料など
…
何を与えても発芽することはなかったの。だから私たちは、”拗らせた恋心”こそが種子の発芽に必須な養分で間違いないと結論付けたわ。』
「
…………
」
拗らせた恋心を養分に花開くなど、悪趣味もいいところである。稲妻には”他人の不幸は蜜の味”ということわざがあると聞くが、これはまさにそれだ。偶然生み出された物だとは思えない。一体誰がこんな厄介な物を世に放ったのか。しかし、このテイワットには理解に及ばぬ奇妙な謎が多いのも事実。この奇病も、間違いなくその謎のひとつなのだろう。
ーーーそう思考を巡らせていくうちに、ヌヴィレットの眉間にはだんだんと深い皺が刻まれていった。
『次に、治療薬についてだけれど。これまでの研究過程では、嘔吐中枢の機能を正常に戻すことができれば花吐き病が完治できるのではないかと考えていた。
…
でも、今回の研究結果から考察すると、それだけでは花を吐く症状と種子生成物質の分泌機能を鎮静化させるだけで、再発を繰り返す可能性が高く
…
根本的治療にはならないことが考えられるわ。何故なら、胃内に花が存在する限り、花同士が受粉し、新たな種子が出来てしまう可能性が非常に高いから。もしそうであれば、”拗らせた恋心”そのものが罹患者の記憶に存在している限り、病の完治は死ぬまで永遠に不可能ということ。ーーーつまり、花吐き病を完治させるためには、"嘔吐中枢機能の正常化"と同時に、”恋に関する記憶の消失"が必要不可欠ということよ。ある特殊な実験装置を用いて、花の種子が発芽出来なくなるまでの日数を計測してみたのだけれど、それは通常の花とほぼ同じだったわ。種子生成からおよそ2年間発芽しなければ、再発の可能性は極めて少なくなる。要するに、完治と言って良い状況よ。
ちなみに余談だけれど
…
他国のデータによると、花吐き病罹患者が吐いた花に触れても生涯発症しなかったという症例がいくつか確認されたの。発症しなかった人たちの共通点は、潜伏期間中一度も恋愛を経験しなかったこと、もしくは恋をしても拗らせることなく想い人と結ばれたこと。これらが意味することはつまり、体内に種子が存在している状況でも、恋心を拗らせることさえしなければ発症することはないということを証明している。』
ヌヴィレットは息を飲んだ。罹患しても発症しなかった事例は、フォンテーヌに残る記録には一例も無く
…
ヌヴィレット自身も、一度も耳にしたことがなかった。
…
けれど、よくよく考えてみればその理屈は理解できるものだった。何故なら、感染源となる花は実在する品種であり、普通の花と比較しても判別は不可能に等しいからだ。故に、知らず知らずのうちに多数の人が触れていても決しておかしくはない。だというのに、我が国の報告事例は凡そ500年の間でも極少数に止まり、一度も流行はしなかった。その歴史が、この研究結果に説得力を持たせている。
ーーーーだが、それよりも。
「
…
"嘔吐中枢機能の正常化"と
…
"恋に関する記憶の消失"を同時に、か
……
。」
それらを同時に叶える薬など、本当に作れるのだろうか。もし作れたとしても、一体何年かかる?服用後、人体機能や寿命に影響は?ーーー何より、それをこれから短期間で完成させるなど
…
果たして可能なのだろうか。
じとり、と冷や汗がヌヴィレットの背を伝う。フリーナの安全を懸念すればする程、果てしなく不安が募っていく。
しかし、そんなヌヴィレットとは対照的に、ナヒーダの声色は一層穏やかなものへと変わった。『ここからは良い報告よ。』と、少女らしく弾むような声を聞いたのは初めてで、良い意味での急な掌返しにヌヴィレットは思わず思考が停止し、肩を強張らせた。
『”恋に関する記憶の消失"についてだけれど。旅人の協力によって、"とある貴重な素材"を入手することができたわ。その素材には記憶中枢へと直接アプローチできる希少な成分が含まれている。それは淵下宮でしか手に入らない貴重な果実ーーー”悩みを一掃し、心を穏やかにさせる効果”があるといわれているもの。
今、成分の抽出を行っているところだから、治療薬の完成はもう少しだけ時間が掛かると思う。でも安心してちょうだい。必ず完成させるわ。
完成したらすぐに送るわね。送付先はあなた宛で良いかしら?』
ヌヴィレットは、ふ
…
と肩の力を抜いた。いつの間にか便箋を強く握り締めていたことに気付き、一度便箋をデスク上に置いて皺を伸ばす。
ナヒーダから丁寧な報告を受け、ヌヴィレットは想像以上に順調な進捗具合に感服の念を抱いた。彼女が言った通り、確かにこれは"良い報告"だ。やはり彼女が聡明な神だという認識は間違っていなかったと、ヌヴィレットは思う。
しかし、薬の送付先については迷った。辞任の日まで、もうあまり時間がない。故に、ヌヴィレット自身がそれを受領することは難しいだろう。
ヌヴィレットは自身の治療に薬を使用するつもりが無いため、直接薬を受領出来ずとも何も問題はない。そもそもこれはフリーナの為に依頼したものだ。フリーナの手に確実に渡るならばそれで良い。
…
だが、フリーナは既にフォンテーヌを去り、璃月へと旅立った。辞任後にヌヴィレットが自ら薬を届けることも考えたが
…
病状は日々悪化の一途を辿っている。このような状況の中、広大な璃月の険しい岩道を歩き、フリーナの元へと無事に辿り着けるかといえば
……
正直、自信がない。そもそも、薬の完成時にまだこの命があるかどうかすら不確定であり、仮に生きていたとしてもフォンテーヌを出た後の己の居場所は誰にも知られたくなかった。
故にヌヴィレットは、薬をフリーナへ届ける役目を他者に依頼する必要があると考えた。頼ることができそうな人物を脳内で探す。
まず一番に候補として上がったのは、シグウィンだ。彼女はフリーナの主治医であり、ヌヴィレットが最も信頼する医療従事者である。フリーナの事情を把握しているため、この件に関しても理解を得られるだろう。それに、シグウィンであれば適切に治療薬を扱い、その後のフリーナの細やかなケアも可能だ。何より、彼女は必ず守秘義務を遵守してくれると確信しているため、安心して任せられる。
…
だが、ひとつ大きな問題がある。それは現時点で薬の完成時期が未定であることだ。シグウィンは常に多数の患者を抱え、要塞内全体の衛生管理も担っている。そんな彼女がフォンテーヌを長く離れるのは現実的ではない。ヌヴィレットとしては、薬の受領後可能な限り速やかにふフリーナへ薬を届けて貰いたいと考えているが、その時シグウィンが患者の傍を片時も離れられない状況であったらーーーと、想像してヌヴィレットはシグウィンへ依頼することを諦めた。彼女の患者は殆どが囚人とはいえ、その大半がフォンテーヌの民だ。ヌヴィレットの個人的な事情を押し付け、シグウィンに目の前の患者の命を放棄させるのは明らかに間違っている。自国の民を平等に愛するフリーナも、そのようなことは決して望まないだろう。それならば、ヌヴィレットが公私共に最も信頼する男ーーーリオセスリに依頼しようかと考えてみたものの、メロピデ要塞の管理者である彼もフォンテーヌを離れることは難しい。それに、恋を叶えるために旅立ったフリーナの元へ、故郷から男が追い掛けて来たのだと周囲に誤解を招いてしまえば、それはフリーナの恋に対する妨害行為となる。リオセスリには全く非はないが、こういったリスクが考えられる以上、それは避けなければならない。
…
残念だが、他を当たる必要がある。
次に候補として挙げられたのは、フリーナの親しい友人達だ。フリーナの現住所については、おそらく本人から知らされている筈なので、迅速に薬を届けて貰えるだろう。ナヴィアは人情に厚く、責任感が強い。また、フットワークが軽く、多数の部下の協力も期待できるため、きっと他の誰よりも仕事を早くこなしてくれる。一方、クロリンデは口が固く、隠密行動を得意とし、安全に薬を届けて貰う依頼先として適任だ。今までの職務実績から見ても、クロリンデはフリーナの為ならばどんな仕事でも確実にこなすので、非常に信頼ができる。
…
だがしかし、2人ともフォンテーヌでは名が通っており、実のところ敵も多い。彼女らの周囲のどこに敵が潜んでいても不思議ではなく、予期せぬところで情報が漏れてしまうリスクも否めない。この依頼内容が万が一悪意のある者や記者の耳に入り、スクープとして拡散されてしまえば、フリーナの望まぬところで第三者に病のことを知られ、国内外に混乱を招くこととなる。そのような事態だけは絶対に回避しなければならない。
…
おそらく、他のどの人物に依頼しても、多少なりともリスクが付き纏うだろう。ヌヴィレット自身、いつも以上に慎重になり過ぎているという自覚はある。だが、フリーナのことになると、どうしても些細なリスクでさえも躊躇してしまうのだ。
よってヌヴィレットは、誰か個人へ依頼することは適切ではない、と判断した。
それならばどうすべきか
……
と頭を抱えながら考えていると、ナヒーダのどこか躊躇うような声が、ヌヴィレットへ向けてこう問いかけた。
『それと
…
最後にひとつ、あなたに聞きたいことがあるの。もしあなたが花吐き病を患っていると仮定して
……
あなたならこの薬を使ってでも生き延びたいと思う?それとも
……
恋心を失うくらいなら、死んでしまっても構わないと思うのかしら。そして
…
あなたの選択を、あなたを大切に思う人たちは受け入れてくれると思う?意見を聞かせてほしいの。』
その言葉を最後に草元素の光は消え、ナヒーダの声は聞こえなくなった。
まさか、ヌヴィレット自身も花吐き病を患っていることがナヒーダに気付かれてしまったのかと、ヌヴィレットは焦りを感じた。ナヒーダとは現在友好関係にあるものの、意図せず神に弱みを握られてしまった可能性に、龍の本能が嫌な反応を示した。じとり、と冷や汗が背中に滲む。
先日送った花が自ら吐き出したものであったことが原因か?花の遺伝子解析で何処まで知られた?
ヌヴィレットは思考を巡らせ、努めて冷静に状況を分析する。
すると一点、あることに気が付いた。
ーーーーもしや、ミオソティスの花言葉か
…
?
草木の神ゆえ植物に対する造詣の深いナヒーダが、あの花の名前や花言葉に気付くのは当然といえる。今回の研究で明らかになった新たな治療法と、ミオソティスの花言葉は相反するものだ。
だからおそらくナヒーダは、ヌヴィレットの病に気付いたのではなく、”患者の想い”を気にかけているに違いない。
記憶を消して恋心そのものを無かったことにするという行為が、いくら治療のためとはいえ本当に正しいことであるのか迷いがあるのかもしれない。
ここまで人思いの心優しい神もいるのだなと、ヌヴィレットはナヒーダに対する評価を更に上方修正した。
つまりナヒーダは、ミオソティスをフリーナが吐き出した花であると認識しているとして。【私を忘れないで】という想いを抱えて苦しんでいる本人が果たして、自らの想い人の記憶ーーー【真実の愛】を失うことを受け入れられるのだろうか、と
…
そう問うているのだ。
そう理解をした途端にヌヴィレットは、かなり痛いところを指摘されてしまった
…
と、まるで苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。
実際、ミオソティスを吐いているのはヌヴィレットだ。フリーナではない。
だから問われずとも考えるまでもなく、既に答えは出ている。
ーーーーミオソティスを吐いている患者は、想い人の記憶を失ってまで命を繋ぎたいとは思わない。彼女と共に過ごした時間も、交わした言葉も、耳に馴染む美しいソプラノも、笑い合った束の間の穏やかな日々も、いつも観客席から魅入った鮮烈な輝きも、そして
…
己の罪すらも、余すことなく全て手放したくはない。もう二度と彼女に手が届かなくとも、それらの記憶を失うくらいならば、たったひとり後生大事に全てを抱えながら死んだ方が間違いなく幸福だ。
だが、これではナヒーダの問いの答えにはなっていない。
あくまでもナヒーダは、ヌヴィレットにフリーナの気持ちを考えさせたいのだ。そして、そのうえで"それでもフリーナに対して薬を使用したいかどうか"を問うている。
おそらく、ナヒーダは手紙を通してヌヴィレットの本心をある程度察しているのだろう。ヌヴィレットがフリーナへ、特別な愛を抱いていることは、もはや筒抜けなのかもしれない。
今改めて振り返ると、ヌヴィレットは最初からそう思われても仕方がない行動をしていた。フリーナの病について知った直後、彼女の命が掛かっているとなれば形振りなど構っていられず、迷うことなく草神であるナヒーダへ助力を求めるべく筆を取ったのだ。フォンテーヌの国家元首としてではなく、ヌヴィレット個人として。それはただ単に国家間の公的な取引ではない、という意味だったのだが、ナヒーダには別の意味合いで受け取られていてもおかしくはない。事実ナヒーダは返信の折、フリーナのことを『あなたの”大切な彼女”』と表現していたのだ。つまり、ヌヴィレットがフリーナを元水神として扱っているのではなく、ヌヴィレット個人として大切に思っている人と解釈をさせるには十分過ぎるものであった。今更ながら自身の軽率さに気付き、苦い笑みを浮かべた。
そんな少しばかりの羞恥を振り払い、ヌヴィレットはナヒーダの問いに正しく答えるべく思考を戻した。
この治療薬の開発が成功すれば、恋が叶わぬ花吐き病患者は皆、"恋を忘れて生きる"ことを選ぶか、"恋を抱えたまま死ぬ"ことを選ぶか
…
この究極の二択から自らの未来を選び取ることになる。
…
やはりこれは、難しい問いだ。
そこでヌヴィレットはふと、懐かしいフリーナの言葉を思い出す。
『他者の気持ちを理解するためには、まず自分に置き換えて想像してみるといい。』ーーーそれは昔、フリーナから直接教わった方法だ。
ヌヴィレットは今なお鮮明に思い出せる懐かしい記憶に思わず、ふ
…
と笑みを浮かべる。
…
もし、ヌヴィレットがフリーナの立場でこの治療薬を与えられ、選択を迫られた場合
…
どうするか。
異国の人ーーーしかも既に婚約者がいる人に恋をし、それが叶わぬものであったなら
……
。
フリーナだけを生涯愛すると決めているヌヴィレットには絶対に起こり得ないことではあるが、真剣に考えてみることにした。
「
…
ふむ。やはり私なら迷わず後者を選ぶが
………
」
だが、ヌヴィレットの大切な人ーーーフリーナはそれをどう思うだろうか。
確実な治療法があるというのにそれを拒み、迷わず死を選ぶことを
…
果たして彼女は許してくれるだろうか。
フリーナはヌヴィレットから記憶を奪われる前、ヌヴィレットへ恋を諦めて欲しくないと必死に訴えていた。発作に苦しむ様子を見て、涙を流しながら沢山謝られた。『キミは絶対に死んではいけない』と、そう言われた。ーーー故にフリーナは、ヌヴィレットの恋が絶対に叶わないものだと知った場合、薬で完治させようと行動する可能性が高い。
…
けれどもフリーナは現在、ヌヴィレットに関する記憶を全て失っている状況だ。つまり、ヌヴィレットが死を選んでもフリーナを悲しませることは無いと断言できる。
それからヌヴィレットは立場を逆転させーーー現在の状況で考えてみた。フリーナが患者側ならば、どうするか。
「
……
彼女には、頑固なところがある。一度決めたことは決して曲げようとしない。それは
…
恋愛に対しても同じであろうな。」
かつてフリーナは、ヌヴィレットに964回も告白をし続けた。何度断られても構わず、最終的には意地になり、ヌヴィレットが強制的に距離を置くまでは決して諦めようとしなかった。しかし、そんな彼女がヌヴィレットに見切りを付け、新たな恋をした。その相手はきっと、ヌヴィレットへ向けていた恋心をいとも簡単に上書き出来る程の人物なのだろう。相手のことをよく知らずとも、余程強く惹かれたのだと推測する。
…
それについてはヌヴィレット自身も非常に身に覚えのある話であるため、否定はできない。初対面で恋に落ちることは物語の中だけの幻想ではなく
…
現実でも起こり得る話だ。
故に、フリーナも後者ーーー”恋を抱えたまま死ぬこと”を選ぶ可能性が高い。何故なら彼女は、花を吐いている現場をヌヴィレットに見られてしまうまで、病のことを誰にも打ち明けず、秘密にしていたからだ。何度問い質しても『僕の恋は絶対に叶わないから』と、頑なに想い人の名を隠していた。想像したくはないが、あの日ヌヴィレットがフリーナを見つけなければ、フリーナはその後、たったひとりで死ぬつもりだったのかもしれない。
…
そう考えると、心臓が鋭利な刃物で抉られるような痛みに襲われた。フリーナとしては不本意だっただろうが、彼女の病を比較的早期に知ることが出来たことは不幸中の幸いであったと、心から思う。
結局のところ、フリーナの相手がどのような人物であるのか、ヌヴィレットは知らない。最初こそ、何が何でもフリーナの相手を特定してやろうと躍起になっていたが、彼女と対話をすればする程、次第にその気持ちは薄れていった。本人の証言から想い人の手掛かりは得られたものの、
…
実のところ、現在に至るまでその者の素性は明らかに出来ていない。手掛かりはあれど
…
世界で最も人口の多い璃月人の中からたったひとりを特定することは途方もないことだ。だが、フリーナを四六時中監視すれば、全ての人間関係を洗い出すことは容易い。ーーーそう、ヌヴィレットの権能と、眷属達の特殊な”目”があれば。つまり、ヌヴィレットの意思でそれらを駆使すれば、ひとりの人間を特定するなど造作もないことだ。しかし、ヌヴィレットは敢えてそれを実行しなかった。その心はフリーナの尊厳と自由を守るため。何よりフリーナに嫌われたくなかったという理由もある。だが、決して完治を諦めた訳ではない。治療薬の完成に一縷の望みを賭けた訳でもない。フリーナが相手と両想いになるという、完治への唯一の道が開かれた今ーーー今更余計な詮索をする必要がなくなったことも大きな理由だ。フリーナが生きて、幸せになってくれさえすれば、ヌヴィレットはそれで良かった。ーーーーというのは、実は半分言い訳であり、半分が建前でーーーーヌヴィレットは、フリーナの心をいとも簡単に攫って行った男の実態を知ることを恐れ、己と比較し絶望したくなくて、敢えて特定をやめた。ヌヴィレット自身、らしくないとは自覚している。恋とは全く恐ろしいものだ。今まで知らずにいた、己の弱さを存分に思い知らされたのだから。
…
故にこれは、墓場まで持っていくと決めたヌヴィレットの本心である。
話がだいぶ逸れてしまったがーーーつまり。フリーナはヌヴィレットと同じ選択をするだろう、ということだ。病を完治させるため、相手の記憶を失うことに対してどう感じるかはーーー相手のことも、フリーナとの関係性もよく知らないため、正直
…
具体的な想像は出来ない。
それからヌヴィレットは、はたまた視点を変え、今度は己が花吐き病を患うフリーナを支える立場ーーーまさに現在の状況について、改めて考えてみた。
もし、フリーナの恋が結局叶わなかったとして。
それでも彼女が想い人の記憶を失いたくないと主張し、治療薬の使用を頑なに拒絶されてしまったら
…
。
ーーーー不意に、ヌヴィレットの脳裏に過ぎったのは。
ロイヤルブルーの花々に囲まれ、静かに眠るフリーナ。
白い肌は深海の水温の如く冷たく、宝石のような色違いの青い瞳も、透き通る美しい歌声も、この世界から消えーーーーーー
「ーーーーーッ」
まさに絶望ともいえる残酷な光景を想像するだけで、呼吸が止まりーーーー背筋が凍り付いた。
「っ
…
、やはり私は如何なる理由であれ、彼女の死を黙って見過ごすことなど出来ない
…
。」
頭を抱え、ぐしゃりと前髪を掻き乱した。
ヌヴィレットは患者の立場であれば
後者
死
、しかし患者を大切に思う第三者の立場であれば
前者
生
以外の選択肢を選べない。彼女がどれだけ薬の使用を拒もうと、なんとかして説得しようとするだろう。最悪、先日と同様に権能を用いて記憶を奪うという強行手段に出てしまうかもしれない。それはフリーナの想いを無視したヌヴィレットの、自分勝手な感情の押し付けでしかないのは分かっているがーーーそれでも。例え恋を失っても、生きてさえいれば新たな幸福を掴み取るチャンスはいくらでもある筈だ。かつてヌヴィレットに失恋した後、また新たな恋をすることが出来たフリーナならば、きっと。フリーナは強い。ヌヴィレットはそう、確信している。
此度の問いはそれぞれの答えこそ明確ではあるものの、やはり非常に難しい問題であるとヌヴィレットは思った。
病の治療方針においては患者の意思が第一に尊重されるべきであるが、現実はそう単純にはいかない。家族、友人、恋人、配偶者、子孫など、患者を大切に思う者の意向が、患者本人とは異なることも少なくない。経験豊富で優秀な医療従事者であるシグウィンでさえ、この複雑な問題に悩み、陰で涙を流していたことを知っている。
ナヒーダが投げ掛けた問いは、これと同様の類のものである。
想像して得たフリーナの答えと、ヌヴィレットの想いがまるで噛み合わない。そもそも治療薬の存在そのものがヌヴィレットの自己満足で、もしフリーナに受取拒否をされたとしても文句は言えないのだ。もし現実でフリーナと討論をしたならば、どちらも己の主張を譲らず、膠着状態であっただろう。かつてフリーナが水神として君臨していた時代にも、討論がただの言い合いになってしまったことは数え切れない程あったが、あの頃はいつもヌヴィレットが折れる形で決着がついていた。
…
しかし此度の件だけは、ヌヴィレットも譲れないのである。
ヌヴィレットは真新しい便箋を取り出し、ペンを走らせる。
ナヒーダからの問いの答えは、ヌヴィレットが思うまま率直に書き綴った。
そして。
『ーーーー薬の送付先は璃月の、本人の元へ頼みたい。だが、患者は君が想像している"彼女"で相違ない。現状完治の見込みはあるが、万が一の事態に備え、彼女の元へ届けて貰いたいのだ。仮に彼女が薬を使用しない選択をしたとしても、完治へと至る選択肢のひとつとして彼女の手元にあって欲しいと
……
私は彼女を大切に思う者のひとりとして、そう願わずにはいられない。
…
情報漏洩のリスクに関しては、くれぐれも慎重に。そして、彼女本人には決して私の名は出さないように。万が一私の関与が知られてしまえば、彼女はそれを受け取らない可能性が高いので。
今後のことについてだが、諸事情により私はもうじきフォンテーヌを離れることになる故、次回以降の返信は難しい状況となってしまった。突然のことで大変申し訳ない。全てを丸投げすることとなり非常に心苦しいが、後の事は何卒よろしく頼む。また、謝礼に関しては後日君の元へと遣いをやり、直接届けさせていただく。もし何か要望があれば、私個人が対応できる範囲にはなってしまうが、可能な限り応じたいと考えているので遠慮なく言っていただきたい。
それでは最後に。ナヒーダ殿、慈悲深く聡明な神よ。やはりあの日、君に協力を求める選択をして良かった。君と協力者全員に対し、心より敬意と、感謝を申し上げる。ーーーーーー』
ヌヴィレットはペンを置き、いつもの封筒に便箋を入れ、封をする。そして水元素で生成した小さな龍に手紙を持たせ、窓辺でそれを見送った。
そして、ふとヌヴィレットはあることを思い付く。
一時的に記憶の一部ーーーフリーナへの恋心を、消さずともある程度抑え込めさえすれば、その間は発作を起こさずにいられるのではないだろうか。人の形をしていても本質が龍である故か、余程精神的に追い詰められない限り、元々そこまで発作が酷い方ではなかった。だから、もしこの策が上手くいけば勤務時間中や親しい者との面会時の発作への懸念がなくなり、目の前のことに集中できるようになる。
試してみる価値はありそうだと、ヌヴィレットは早速権能で自らに処置を施した。
雨は弱まり、雨雲の隙間から淡く月の光が降り注ぐ。
このまま雨は止むだろう。おそらく、明日の天気は晴れだ。
ヌヴィレットは再びデスクへと戻り、書類へと向き合った。
*・*・*・*・*・*
間もなくヌヴィレットは、"ヌヴィレット"に関わりのある全てのものを置いてこのフォンテーヌを去る。
民、眷属、部下、友人、かつて水神から与えられた最高審判官の肩書きや衣装、そしてこの"ヌヴィレット"という名さえも、全て置いて行くつもりだ。
その後はただひとりの男として、もう二度と手の届かぬ最愛を想いながら静かに余生を過ごす。
持って行くのは500年分の愛おしい思い出と行き場のない恋心だけ。
何処へ行くかはまだ決めていない。
だが、最期を迎える場所は、誰の目も届かない場所が良い。
ヌヴィレットは予定通り、フリーナへの恋心を抱えたまま死ぬことを選ぶ。
別れの日はもう、目前まで迫っていた。
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