いつのまにか九月も終わりに差しかかり、制服は冬服に、二年進級時のクラス分けに向けた進路調査も始まった。相変わらず爆豪くんは忙しく、ほとんど会えない日々が続いている。
それでも自分のなかで整理がついたことで、気持ちのうえではかなり楽になった。前ほど爆豪くんのことで頭がいっぱいになることもない。今は来月にせまった中間試験に向けて、勉強を進めているところ。
「それで? 名前ちゃんは最近はバクゴーくんとどうなの」
教室の自席で古語の単語帳をめくっていると、前の席の生徒が離席しているのをいいことに、友人があいた席にどんと座った。半身にかまえてこちらの顔を覗き込んでくる友人に、私は単語帳から視線を上げた。
「どうって、まあ忙しそうだなって感じですけど」
「全寮制になってから、全然会ってないんだっけ?」
「全然ってほどでは……連絡だってふつうに取ってるし……」
「あー、それで最近勉強に逃避してるんだ」
にっしっしと訳知り顔で笑う友人。私はぱたんと音を立てて単語帳を閉じると、目を細めて友人を睨んだ。
「逃避って言わないでほしいんだけど。学生の本分は勉強ですよ」
「優等生になっちゃってまあ、ヤンキーの彼女なのに」
「ヤンキーの彼女でも勉強はするんだよ」
私が言い返すと、友人は「真面目だねぇ」と冷やかすように笑った。
このままでは爆豪くんに置いていかれてしまう。そんな危機感と、愚にもつかない嫉妬心をこじらせた結果、ものの見事に醜態を晒したのが二週間ほど前のこと。あれ以来、私は心を入れ替えて、日々勉学へと邁進しまくっている。
なぜ勉学なのかといえば、それが一番わかりやすく、爆豪くんが認めている私の長所だから。爆豪くんが執拗に根暗、ガリ勉いじりをしてくるのは、裏を返せば私の勉強ができるところを見ているということでもある。
そんなわけで、勉強だった。進学校の学生である以上、成績がいいに越したことはなく、実益もかねているので一石二鳥だ。
勉強をしていれば、爆豪くんのことばかり考えずにすむ。だから現実逃避の側面も、もちろんないわけではない。けれど今はそれ以上に、爆豪くんも頑張ってるんだから私も頑張らねば、という気持ちのほうが強かった。
置いていかれないように、隣をちゃんと歩けるように。不純なモチベーションではあるけれど、行動としては咎められるものでもない。おかげでここ二週間、小テストの結果はかんばしく、なおかつ爆豪くんのことばかり考えてしまうというような、どうしようもない状態からは脱していた。
「しかしこの勉強へののめりこみぶり、よほどバクゴーくんと会えていないと見た」
「し、失礼な……」
「でも忙しいんでしょ? 会えてないんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけども」
爆豪くんとは、二週間ちかく会えていない。私の試験が近づいているのもあるし、単純に爆豪くんが忙しいというのもある。それでも連絡は取り合っているので、まったく爆豪くんを絶っているわけではない。
とはいえ、私の恋愛の動向は一学期に引き続き、友人間での注目のまとだ。その恋愛に動きがないというのは、友人たちのあいだでの娯楽がひとつ減ることになるわけで。
いや、今はそうでもないのか。
私が思い出したのと同時に、友人は視線を、教室の反対側でひとりで携帯をいじっている、別の友人へと向けた。
「あーあ、このぶんじゃ次回の会のメインは、名前ちゃんじゃなくてりっちゃんだな」
「りっちゃん彼氏できたんだっけ」
「そうそう。夏休みのあいだにね」
私たちが話していたのが聞こえていたのか、携帯をいじっていた友人、りっちゃんがこちらを向く。手を振ると、りっちゃんも笑顔でこちらに手を振りかえしてくれた。
そしてそのまま、視線を手元の携帯に戻す。たぶん、付き合い始めたばかりの彼氏と、仲睦まじいやりとりをしているのだろう。微笑ましい。
「りっちゃんの彼氏、かっこいいうえに手が早いらしいよーぉ」
にやにやと耳打ちしてくる友人。よほど恋愛の話が楽しくて仕方がないらしい。
これまで恋愛の話となると、私が周囲からの期待を一身に背負っていた。けれど二学期になり、りっちゃんにも彼氏ができたことが分かったため、その大きな期待はやや分散している。この頃ではむしろ、いっこうに動きがない私と爆豪くんよりも、りっちゃんと彼氏のほうがよく話題にのぼる。
「手が早いって、どういうレベルなんだろ。ていうか、どこ情報なのそれ」
「それはまあ、あらゆる風の噂で」
「信用ならんなぁ……。それお嬢様組の基準じゃない?」
りっちゃんも私と同じ高校編入組。典型的お嬢様学校のなかにあって、どちらかといえば庶民派だ。お嬢様組の貞操観念と比べれば、私もりっちゃんも現実的かつ現代的な感覚で生きている。
「ちなみにりっちゃんも、まんざらでもない感じでね」
「本人がいいならね、仲が良くて大変よろしいことです」
「名前ちゃんとバクゴーくんも仲いいでしょ」
「まあ、そうだねぇ……」
適当な相槌を打ったところで、次の授業の予鈴がなる。友人が自分の席に戻っていき、私は机の上の単語帳をかばんに片づけた。
私と爆豪くんが付き合い始めて、そろそろ五か月になる。世間の高校生カップルがどの程度のペースで仲を深めていくのかは知らないけれど、たぶん私と爆豪くんがかなりのスローペースなのだろうということは、なんとなく想像がつく。
五か月付き合って、まだ手もつないでいない。ここのところは、甘い空気になることすらない。そういえば好きとも言われていないけれど、それについてはもうすでにほとんど諦めていた。
爆豪くんにかぎって、そんな言葉を軽々に吐くことはない。好きって言われることが、この先あるんだろうか。……なかったとしても、おかしくはない。好きって言われるところとキスするところだったら、まだしもキスのほうが想像がつきやすい。
キスしそうな空気になら、以前に一度だけなったことがある。夏休み、爆豪くんの入寮が決まって、その話をしていたときだった。
あのとき、爆豪くんは「今じゃない」と言っていた。私もそれで納得した。爆豪くんは明らかに普段より落ち込んでいたし、何か抱え込んでいる様子だったから。爆豪くんが今じゃないというのであれば、その気持ちは尊重しようと思った。
あれから二か月ちかく経っている。爆豪くんと私のあいだに、その後それらしい「今」は訪れず、私たちはいまだ手すらつないだことがない関係のままだ。
気が急く時期は終わったと思ったけれど、こうして考えてみると、やはり気にはなってくる。
爆豪くんはそういうことを、したくないんだろうか。
爆豪くんにとっての「今」は、一体いつなのだろう。そんな「今」なんて、この先の私たちに、はたして訪れるものなのだろうか。
ようやく爆豪くんと会う約束ができたのは、ファミレスの日から数えてだいたいちょうど三週間、十月に入ってすぐのことだった。
三週間ぶりではあるものの、会える時間は長くない。ちょうど爆豪くんが買い物で外出届を出したので、時間を合わせて少しだけ話そう、という程度のものだ。
三週間ぶりに会った爆豪くんは、彼にしては珍しく、ときどき眠たそうにぼんやりしていた。よほど疲れているのだろう。厳しい時間割に自主的な特訓、くわえて仮免補講。忙しくないはずがない。
勉強だって一年の二学期ともなれば、中学までの学力の貯金だけではやっていけなくなってくる。もともと偏差値の高い雄英ヒーロー科は、大学進学を視野に入れていない生徒が多いぶん、かえって高校の授業でハイレベルなところまで詰めるとも聞く。
買い物を済ませ、駅に向かって隣同士歩きながら、私はちらちらと爆豪くんの顔を盗み見た。いつもの鋭すぎる目つきが、眠気のせいか今日は少しやわらかい。
「爆豪くん、おねむでしょ」
「は? 眠くねーわ」
「無理しなくていいのに」
「無理してねーんだよ。適当ふかしてんじゃねえぞ」
低い声で怒られて、私は「わかったわかった」と引き下がった。
平日に声をかけてくるということは、今週も週末に会うのは無理そうだということ。それはもう仕方ないものだと思っているし、爆豪くんを責める気もない。無理をされるほうがよほど大問題だ。
むしろ、こうして会おうとしてくれたことが、本当は少し、いやかなり、嬉しかったりする。会いたいと思っているのが自分だけでないとわかるのは、口ではどういっていても、心強いものだ。
もうじき駅についてしまう。爆豪くんとはいつも、地下鉄の駅の入口のところで別れることになっている。今日もまた、じゃあここでと爆豪くんに伝えようと視線を上げた、ちょうどそのとき。
「あ、名前ちゃん」
ふいに名前を呼ばれた。声がした方を向けば、
「りっちゃん、と、」
「うお、雄英生!」
同じクラスのりっちゃんと、その横に見知らぬ男子高校生が並んでいた。爆豪くんに向かって「本物じゃん」とひやかしなのか何なのかよく分からない声を上げる男子に、爆豪くんは一歩進み出て、思い切り威嚇の表情をつくった。
「あ? てめなんだコラ」
「爆豪くん、威嚇しないで」
「してねえだろうが」
「ガン飛ばすのもガラ悪い発声もだめ、無理そうなら目を閉じて百数えててね」
「てめえ俺をなんだと思っとんだ!?」
「ヤンキーかな……」
「ぶっ飛ばす」
久し振りの向かうところ敵しかいない、全方面に感じが悪い爆豪くんだ。暴れ馬の手綱をにぎるような要領でのコミュニケーションは、できればクラスメイトの前で披露したくはない。
りっちゃんの彼氏を睨みまくる爆豪くんの視線を、どうにかこうにか引き剥がす。「ケッ」などと悪態をついている爆豪くんを背後に隠し、私はりっちゃんに向き直った。
「りっちゃんたち今から帰り?」
「そ。名前ちゃんたちも?」
「うーん、そんなところ」
向こうもこちらも、恋人と一緒。あまり長話をしたくないのはお互い様で、そうそうに話を切り上げた。
「じゃあ、また学校で」
手を振って、りっちゃんを見送る。こちらに背を向けたりっちゃんの、今しがたまで私に向けて振っていた手を、りっちゃんの彼氏がするりと握った。ゆるく繋がれたふたつの手が、りっちゃんと彼氏のちょうど真ん中のあたりで、ゆらゆらとやさしく揺れている。
しばらくそのまま、小さくなってゆくりっちゃんたちの背中を、ぼんやりと見つめていた。
「学校のやつかよ」
背後の爆豪くんが、今更のように聞いてくる。
「うん、そう。同じクラスのりっちゃん。夏休みに彼氏できたって聞いてたけど、彼氏ははじめて見た」
「興味ねえ」
「でしょうね。爆豪くんにとってはどっちも見知らぬ人間だもんね」
「見知ってても興味ねえ」
「それはどうなの」
夏休みに付き合って、一か月くらいで手をつないで、もしかしたらその先もしていて。
りっちゃんの彼氏は手が早いというけれど、でもたぶん、本当はそんなことないのだろう。ふたりの後ろ姿を見ながら、ふいに思った。
手が早いんじゃなくて、おたがいに気持ちの準備ができているから、順当に関係をすすめている。時間の長さではなくて、タイミングと、気持ち。思いの伝えかた。
「仲よさそうだったね、りっちゃんたち」
そこに特段の気持ちをこめたつもりはなかったけれど、爆豪くんはふんと鼻を鳴らしただけで、返事をしなかった。当てこすりというわけではない。ただ本当に、単純にそう思ったのだ。
腕の時計を確認する。そろそろ解散の時間がせまっていた。
「そろそろ戻らないと、爆豪くん、門限」
じゃあ、と手を持ち上げると、爆豪くんの不機嫌そうな表情と目が合った。そんな顔をしなくても。苦笑しながら、私は一歩、後ろに下がった。
「また会えそうなとき教えてね」
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