レゾン・デートル|CASE.03 超弦の遺恨

神秘は科学の手で解体できる。それが僕の信仰だ

雁桐右京。その名は心臓外科医──嘴馬遼士郎にとって浅からぬ縁を持つ物理学者の名である。
そんな右京が突然嘴馬の元を訪れた。右京が日本へ戻ってきた理由には五年前に発生した連続殺人事件が関係しているという。しかし問題を調べようとした矢先、ある人物が不可解な死を遂げる。『この紐とルーシュチャ方程式を用いて求められる最大の素数を求めよ。ヒント…5年前に発生した八人連続殺人事件』。真実を知るため嘴馬らは捜査を開始するが……?
さらに同時に発生した脳外科手術の術中死。誰にでも輸血可能な血液製剤──〈メディウム〉がその死因に挙げられ、四宮椿は独自の調査を開始する。
背後で蠢く希少血を巡る陰謀。市民団体〈きぼうの庭〉と繋がる歪んだ神秘への祈り。
椿は父・沖田蒼司と共に因果の渦へ──。
物語は十二年前の惨劇、その真実へ指をかける。(CASE FILE.02 収録予定)

CASE.02 - マスグレイヴ家の儀式書 https://privatter.me/page/6973712c73d47

※同人誌版の原稿をそのまま移植しているため、改行が少なく横書きでは読みづらいと思います。縦読みリーダー表示をお勧めします。

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 2
 ——六月二十日
 小料理屋『花やぎ』


 糸島市の二見ヶ岡海岸は、櫻井神社の海中大鳥居を望めるすぐそば。そんな一等地にその茶房兼小料理屋『花やぎ』はある。
 二見ヶ岡は医学特区が設立されて以降、大衆に開かれた観光地の色は落ち着きを見せ、どちらかというと高級感を醸し出している。『花やぎ』も同じようにそれへ花を添えているが、今は少しだけその近寄りがたい高嶺の花憮然とした雰囲気が和らいでいる。しかし一方、床の間に置かれた生け花の薫香が店の風格を引き立てていた。
 俺はカウンター席に腰かけ、続けて右京も俺の左隣の椅子を引いた。特に何も言っていないのだが、店の奥から戻ってきた店主——沖田桔梗おきたききょうは柔く優美な微笑みを浮かべて俺たちの前に食前酒の入った徳利と猪口を置いた。
 直後、カラカラと軽妙な音を立てて店の戸が開けられた。ただいま、と穏やかな声が静かな店内に響く。入ってきたのは桔梗の夫であり、俺から見れば幼馴染である沖田蒼司がそこにいた。誰もが彼を一度見ればそういうのだが、兎に角美しい容貌の男である。
 蒼司はここが家であるというのに何故か裏口から入ろうとせず、普通の客の如く堂々と表から入ってくる。以前そのことを聞いた際、「だって帰ってきて一番に桔梗の顔が見たいから」とハイパー惚気攻撃を受けたことを思い出し、俺は口をへの字に曲げた。
「お疲れさん、蒼司」俺はひらひら手を振る。「ま~だ働く気かよ」
「家事は僕が料理担当だからね」
 蒼司はそう言って堂々と厨房へ入っていき、丁寧に手を洗って当然のように桔梗の隣に立った。
「それより久しぶり、右京。元気そうで良かった」
「ああ。君も息災そうで何よりだ」
 形式ばった言葉には何の感情も無く、一旦蒼司を観察して分析しよう、という心の声が駄々漏れになっている。
 右京は猪口の中で揺れる酒の水面をじっと見つめながら蒼司へ問うた。
「聞きたいことがあってね。五年前の連続殺人事件で君は司法解剖に立ち会っているだろう? 警察は僕に解剖結果は教えなかった。彼らは一体どうやって殺害され、遺棄されたのか」
「待った。全然話が見えない。どういうこと?」蒼司は困惑を隠さずに言った。
「五年前に起きた八人連続殺人事件だ」
「管轄が違うのではなくて? 螺旋捜査部が担当しているはずよ」
 桔梗は盆に四つ緑茶を載せてカウンター席へ持ってきた。
「医学特区では珍しいことでもないでしょう」
「流石に四宮製薬の経営一族とあれば、特区の内情にも詳しいな」
 ほとんど嫌味にしか聞こえない言葉を右京は桔梗へ投げた。彼女が己の出身家とは反りが悪いことを知った上で、平気な顔してこんなことを言うのだ。本当にどんな神経をしているんだと疑いたくなる。
 しかし雁桐右京という男はそういう人間で、己の求める解へ辿り着くためなら他人にどう思われようが知ったことではない、という姿勢を貫き通している。それはこの場にいる全員がよく知るところで、なんと言ってもすでに二十年近い付き合いがあるのだ……腹の探り合いなど本来不要、なのだが。
「ええ、おかげさまで」
 桔梗は歯牙にもかけず、穏やかな微笑を口元に浮かべている。
「貴方は相変わらずね。私なら先にチェックメイトの状況を整えてから、最後の駒を動かすわ。でも貴方は敢えて、一度自分を崖の先端へ追い込まないと気が済まない様子ね」
「僕は小さな問題を解いているんじゃない。僕が解くのは宇宙の真理へ迫る理論だ。僕一人が思考の袋小路に入り込もうと、同じ道を歩む者たちが僕へ天啓を与えてくれる。君のように全てを一人で詳らかにする必要はない」
「まあ、己の矮小さには理解が及ぶようになったのね」
「君こそ、その捻じ曲がった性根は相変わらずだな」
「うふふ」
「ハハハ」
 俺と蒼司は天才二人のやりとりに肩を寄せ合って震えた。この二人が揃うと毎回こうである。
 かたや宇宙の真理を追いかける物理学者、かたやその才覚よりも愛に生きる人。
 才覚を発揮するという点で言えば右京の方が「天才らしい」天才であることは否めないのだが、桔梗の恐ろしさを骨身に染みて知っている俺と蒼司は、虎の檻に放り込まれたウサギの気分を二人で味わっていた。

 曰く、事件がある。が、それは起きなかった。
 起きる前に彼女の手によって人知れず解体されるからだ。
 沖田桔梗はそういう人だ。

 彼女は右京が言った通り、一度彼女の蜘蛛の巣へ招かれれば絡め取られ、事件の芽は摘み取られる。奸計は彼女や彼女が懐へ入れた者たちに一切通じず、傷一つ与えられない。
 真実は彼女の前で跪く他にない。本当に恐ろしい切れ者である。何度彼女が身内でよかったと思ったか。
「けれど驚いたわ。まさか雁桐くんと嘴馬くんが揃ってうちに来るなんて」
 桔梗は右手で口元を覆い、穏やかに笑う。
「いやぁ……俺もまさか右京に、ここに連れてけなんて言われるとは」
「桔梗くんの見解も聞きたかったからね。そうするには『花やぎ』へ行くのが最適解だ」右京は猪口に食前酒をなみなみと注ぐ。「聞いても構わないか?」
「ええ、良くてよ」桔梗は鯛を捌きながら続けた。「手が離せないから口頭でお願いできるかしら」
「ああ」
 右京は先日の夜俺にした話を改めてする。
 そして件の問題を口にした……その時、桔梗が一瞬刺身を作る手をピタリと止めた。
「桔梗さん?」
 俺は動きを止めた彼女へ声をかける。再び刃を鯛へ入れる彼女の手元を伺うことはできないが、間違いなく桔梗は『ルーシュチャ方程式』という言葉に動揺を見せていた。
……桔梗くん。君も遼士郎も知っての通り僕は物理学の徒だ。だが『ルーシュチャ方程式』なんて代物は聞いたことがない。君はこれに心当たりがあるようだが、どういう性質のものか教えてもらえないか?」
「貴方、ミスカトニック大学にいたのでしょう。そこで馬子の背骨に触れるような出来事はなかったの? あの大学は普通の総合大学ではなくてよ」
……おや? そんな質問が出るとは随分と訳知りのようだな」
「まあ、嫌だわ。鎌をかけたのね」
「どう捉えてくれても構わない。何であれ、君に五年前の八人連続殺人事件についての見解も聞きたいところではあるが……
 右京は出された鯛の刺身に箸を伸ばしたが、触れる直前でピタリと止める。
「まずは先に死亡時画像診断を行った医師に話を聞くべきだろう」
 その言葉と同時に向けられた視線の先にいたのは蒼司だった。
 総合診療科に籍を置く蒼司は、東医の中でも「何でも屋」のような立ち位置にされている。つまりは気軽にさまざまな診療科にレンタルされ——これまた様々な業務を担っていた。それもこれも副院長が蒼司やその周辺を目の仇にしているせいもあるだろうが。
「右京。僕ら医師には守秘義務がある。死亡診断書の事なんておいそれと喋るわけにはいかないんだよ」
「僕は事件関係者だ。警察から協力を要請され、知恵を貸した」
 右京は鯛を箸で持ち上げ、刺身醤油の海へ浸しながら続ける。
「だが確かに聞くばかりではフェアじゃない。僕から先に話そう」
「いや、そういう問題じゃ……
 蒼司の言葉は虚しく右京の声に遮られた。
「あの八人連続殺人事件の発端は英国街で発生した殺人事件だ。警察が君にどこまで喋ったかは知らないが……外資系の高級ホテルで夜間警備をしていた二人が死んだ。死因は外傷性の脳挫傷らしい。被害者の名前は稲田昌義と中川和人。いずれも三十代後半で中肉中背。健康状態に問題はなく、現場の状況から殺人と結論付けられた」
「ちょっと待ってよ右京。どうしてその五年前の事件を今になって調べてるわけ?」
「事件が終わっていないからだ」
 右京はジャケットの内ポケットから封筒を取り出し、中身をテーブルに広げた。昨晩俺に見せてくれた赤い毛糸と、問題文が書かれたカードである。桔梗は急須で己の湯呑に二杯目の緑茶を注ぎ、じっと毛糸を睨んだ後、それを綾取りの要領でいくつかの結び目を作った。
「紐とルーシュチャ方程式、を使って、最大の素数を求めよ……?」蒼司が独り言つ。「何を言ってるのか全然分からない」
「だろうね。僕に分からないんだから、君に分かるはずがない」
「百倍鋭利に『お前は莫迦だ』って言うのやめてよ……
「分からない方が良くてよ」
 桔梗は静かに言って紐を器用に折り畳む。
「未だこの世界には拭い去れない夜が根を下ろしているわ。ルーシュチャ方程式もそのうちの一つと思って、忘れるべきね。無駄な忠告でしょうけれど」
「よく分かっているじゃないか、桔梗くん。君の知っていることを教えてくれ」
 さあ早く、と……爛々と瞳を好奇心に輝かせ右京は顎を触った。
 こうなってしまった右京にはもう何を言っても無駄だ。俺と蒼司、そして桔梗は全員内心で白旗をヒラヒラ振った。

諸注意
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本作品はフィクションです。実在の団体・名称とは一切関係ありません。
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