レゾン・デートル|CASE.03 超弦の遺恨

神秘は科学の手で解体できる。それが僕の信仰だ

雁桐右京。その名は心臓外科医──嘴馬遼士郎にとって浅からぬ縁を持つ物理学者の名である。
そんな右京が突然嘴馬の元を訪れた。右京が日本へ戻ってきた理由には五年前に発生した連続殺人事件が関係しているという。しかし問題を調べようとした矢先、ある人物が不可解な死を遂げる。『この紐とルーシュチャ方程式を用いて求められる最大の素数を求めよ。ヒント…5年前に発生した八人連続殺人事件』。真実を知るため嘴馬らは捜査を開始するが……?
さらに同時に発生した脳外科手術の術中死。誰にでも輸血可能な血液製剤──〈メディウム〉がその死因に挙げられ、四宮椿は独自の調査を開始する。
背後で蠢く希少血を巡る陰謀。市民団体〈きぼうの庭〉と繋がる歪んだ神秘への祈り。
椿は父・沖田蒼司と共に因果の渦へ──。
物語は十二年前の惨劇、その真実へ指をかける。(CASE FILE.02 収録予定)

CASE.02 - マスグレイヴ家の儀式書 https://privatter.me/page/6973712c73d47

※同人誌版の原稿をそのまま移植しているため、改行が少なく横書きでは読みづらいと思います。縦読みリーダー表示をお勧めします。

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 4
 ——数刻後 廃ビル
 雁桐右京の隠れ家


 ルーシュチャ方程式とは何か。雁桐右京はそれを昼夜問わずに考え続けていた。
 曰く真理を示すものか? 否……僕に解けるものであると出題者は確信している。そうであれば、超弦理論に連なる未発見の数式か。それとも。
(この世の外側のもの……
 右京は意識的にその可能性を否定していた。科学の理解が及ばない世界があるとミスカトニック大学で、ひいては『博物館』で嫌という程に知っていたはずだが、それでも右京は頑なに認めなかった。魔術は孰れ科学で説明できる。幻想も、神秘も、科学の手で征服し尽くし……全て解体できると信じて止まなかった。

 それは、科学という形を取った一つの信仰であった。

 超弦理論は右京の専門分野である。この世の全ての物質が「ひも」であるとし、その「ひも」の振動によって原子・分子が形成されるという仮説だ。
「ひも」は人間が知覚できる次元のうち、三次元どころか九次元の空間で振動している。人類の知覚が遠く及ばない高次元への振動……高次元にのみ適用され、それらを俯瞰するような数式があるのだとすれば、それは人間が見つけていないのも無理はない。右京はそう思いながら赤い毛糸を手に取った。
 毛糸は円形になっており、あやとりのように操ることができる。言うなれば閉じた状態のひもだ。
 超弦理論において重力を伝える素粒子はこの『閉じたひも』の形で表現される。
……ルーシュチャ方程式が超弦理論に関わると仮定すれば、この毛糸は重力子という重大なヒントだ。……
 その声に答えるものは無い。自ら答えてくれる存在の元を去ったのだから当然のことだ。
「災害に巻き込まれたと思って協力してくれ」なんて身勝手な事を言った割に、右京は嘴馬遼士郎へ『レイヴン』の鉤爪が届き、彼の心臓を貫く事を心から恐れている。
 そして不可解なことがあった。まるで右京の行動を予測したように先手が打たれていることだ。濱田礼人……その旧友の口を割らせ、ワタリガラスたちの裏切りについて問い質すことはもう叶わなくなった。
 そしてまさかもう一人死ぬとは思うまい。右京はあの老人の事を考える。カラスの視界を借り受け、その様子を見た時の事を思い出す。何故あの男があれを生かし、そして殺したのか? 疑問は多くある。
 何故あの男がレイヴンの一員を殺す必要があった? 右京は既に人殺しだ。一人殺せば二人殺そうと『人殺し』である以上、大した違いにはなり得ない。右京は床に問題の書かれたカードと毛糸を放り出して胡坐を掻き、右手で頬杖をついて広げた紙を俯瞰する。A4サイズの紙には右京にだけわかるミミズがのたくったような文字で事件の情報が書かれていた。

「レイヴンも一枚岩ではない……か」
 右京の声は無機質な床に溶けていく。問題はなぜわざわざ栄生会総合病院の院長室で、しかも麻酔薬を使って犯行を起こしたか。それは分かりきっている。明白だ。
 嘴馬に発見させ、心肺蘇生を行わせ、自分を犯人から除外させるためだ。
 裏切りの裏切りが発生しているとすれば、奴が行動を起こし、二人を殺したことにも説明はつく。
 しかしそうだとすれば妙な話になる。右京は床をトン、トン、と右手の人差し指で叩いた。
「五年前、奴は僕を殺したがっていた」
 芹沢馨。より正確に言えば芹沢の肉体を乗っ取った吸血鬼が、だが。
「アーカムを示したその答えは、単なる場所の座標以外の意味も持っている。あの女以外の全員を殺して奴が脱走した……いや、復活した事を示していた」
 あの女を奴が殺さなかった理由は、彼女の身に刻まれた呪いにあるだろう。
「博物館に属する魔術師は優秀よ。易々と殺されるとは思えない。だから貴方はレイヴンの裏切りに気づいたのね」
……毎度一体どうやって僕の居所を特定しているんだ、君は」
「蜘蛛の巣はどこにでも張るのよ」
「答えになっていない」右京の不満そうな言葉に、答える気は無いと言いたげに桔梗は鼻で笑った。
「私には盤面を俯瞰する能力がある。それだけ」
「君、よくもまあいけしゃあしゃあとそんなことが言えたものだな」
 桔梗の言葉に右京は心底忌々しいという空気を崩さず、カフスに似た銀色のボタンをつまんだ。それは発信機だった——、いつ取り付けたのかと聞く前に、右京は桔梗の肩で触角を丁寧に洗っている大きな蜘蛛を見つける。
 蜘蛛は忠実な桔梗のしもべであった。桔梗は細く白い指先でそれを撫でる。蜘蛛は光の当たり具合で緋色にも、深紅にも見える不思議な四つの瞳で右京をじっと見つめた。
「あくまでこれは手段よ。ねえ、理解しているでしょう。この事件の犯人は貴方を陥れるつもりよ。こんな逃亡犯のような生活を送っていては、弁護の余地がなくなってしまうわ」
「は。遼士郎の元に帰れ、と?」
「ええ」
 桔梗は日の差し込む建付けが悪い窓の外を見た。
……貴方、八咫烏は本来吉兆のはずでしょう?」
「僕が遼士郎に吉兆をもたらしたことなんか一度もなかったよ」
 右京は自嘲気味に言って、厚いレンズの眼鏡を外した。
「僕が彼にもたらしたのは、本来なら彼が味わわなくていい苦汁だけだ」
「そんな事を言うけれど、でも貴方……中途半端に嘴馬くんを事件に巻き込んでいるじゃない。何がしたいの?」
「わからない」
 右京は力なく零した。桔梗は右京があまりにも哀れに思えてきて、思わず彼の前に置かれた椅子に腰かける。そしてそっと顔を覗き込み、不安げに揺れる瞳と哀愁のある表情を見て、下顎を思い切り掴んだ。
「うッ、!?」
「貴方は本当につまらない男ね」
 桔梗はそのまま顎を持ち上げ、「無計画、衝動的……それは私と無縁よ。でも貴方にはその全てがあるわ」
「悪、かった、な。……そうだ。君は、正しい。いつだって」
 右京は恨めし気に桔梗を睨む。「これで弁護する気も失せただろう。早く帰るといい」
「そういうわけにはいかないの」
 桔梗は右京の顎を握る手に力を込めた。顔に手入れされた爪先が食い込み、
「私には貴方を弁護する義務がある……それが私の本意ではなくても、私にだって『断る余地のない依頼』はあるのよ」
 そう耳元で囁き、手を離す。右京は軽く手で顔を摩って続けた。
……あの女か」
「鋭いわね」
 桔梗は冷笑する。右京はその表情に深い諦めを抱き、そして一言呟いた。
「分かったよ。僕の負けだ。……遼士郎には、ちゃんと謝って全てを話す……だからそんな疑り深い目で見るのを辞めてくれないか」

諸注意
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