レゾン・デートル|CASE.03 超弦の遺恨

神秘は科学の手で解体できる。それが僕の信仰だ

雁桐右京。その名は心臓外科医──嘴馬遼士郎にとって浅からぬ縁を持つ物理学者の名である。
そんな右京が突然嘴馬の元を訪れた。右京が日本へ戻ってきた理由には五年前に発生した連続殺人事件が関係しているという。しかし問題を調べようとした矢先、ある人物が不可解な死を遂げる。『この紐とルーシュチャ方程式を用いて求められる最大の素数を求めよ。ヒント…5年前に発生した八人連続殺人事件』。真実を知るため嘴馬らは捜査を開始するが……?
さらに同時に発生した脳外科手術の術中死。誰にでも輸血可能な血液製剤──〈メディウム〉がその死因に挙げられ、四宮椿は独自の調査を開始する。
背後で蠢く希少血を巡る陰謀。市民団体〈きぼうの庭〉と繋がる歪んだ神秘への祈り。
椿は父・沖田蒼司と共に因果の渦へ──。
物語は十二年前の惨劇、その真実へ指をかける。(CASE FILE.02 収録予定)

CASE.02 - マスグレイヴ家の儀式書 https://privatter.me/page/6973712c73d47

※同人誌版の原稿をそのまま移植しているため、改行が少なく横書きでは読みづらいと思います。縦読みリーダー表示をお勧めします。

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 ——六月二十三日
 東都医科大学附属病院 特別病室


 オンコールで自宅待機していた俺は急いで身支度を整え、東医へバイクを走らせた。普段から普通二輪で通勤しているが、この時ほど二輪で良かったと思うことは無い。何せ言うことを聞かないマニュアル車より扱いが楽だった。
 転がるように裏口から入り、十階の特別病室を目指す。俺の姿を認めた佐奈芽が「遼ちゃん、こっち」と俺を呼ぶ。
「容体は?」
「大丈夫だよ。大事を取って、だから」
 佐奈芽の言葉に少し安堵を覚えるも、先日起こった栄生会総合病院での殺人事件を思い出し、俺は嫌な汗を背中に感じる。「じゃあ私は行くから。オペの事決まったら、教えて」
「ああ」
 電子カルテを確認した限り、親父……嘴馬克彦の容体はお世辞にも『大丈夫』と言えるような状態ではない。俺は去っていく佐奈芽の背を見送り、ジャケットを脱いでから病室の方へ進む。
 流石にもう長袖が我慢ならないほど暑い。季節は夏がすぐそこへ迫っている事を感じさせていた。
 親父が患う大動脈弁逆流症は、大動脈弁が完全に閉じきらないことで、心臓が拡張している間(拡張期)に血液が大動脈側から左心室へ逆流してしまう疾患だ。
 原因は様々あるが、この疾患の主訴として胸痛、身体を起こした状態のほうが呼吸が安定する起座呼吸などがある。治療は外科手術で大動脈弁を置換するか修復するかの二択だ。患者によっては開胸手術を行う場合もあるが、最近の主流は専らロボットアームを使った手術である。東医には『WATSON』と名付けられている六本腕の国産手術支援ロボットがある……こいつは米粒に文字が書けるほど精密な動きができると有名だった。
 親父はこういう手術支援ロボットを毛嫌いしていた。
 理由は恐らく、おふくろにある。
 だが親父の病状を考えると人工心肺を入れた開胸手術はリスクが高すぎる。俺に執刀しろと言うのはつまり、「ロボットを使わずに開胸手術で治せ」という意味なのだろうが、腐っても循環器内科医であるあの頑固ジジイが、それを分かっていないとは思えない。

「遼士郎。浮城教授に聞いたぞ」
 親父は本を読んでいた手を止め、病室に入りベッドサイドの椅子に腰かけた俺を一瞥した。
「一体どういうつもりだ?」
 俺は親父が何を言おうとしているのかはすぐに察しがついた。先日の事件のことだろう。それに加え、右京の事を非難されているのは表情でわかる。
 昔にもこういうことがあった。蓋をした過去が俺の顔を覗き込んでいる。
「信じられん……女ですらないのか? 男に現を抜かして……
 そう吐き捨てられたのはまだ俺が医大生だった頃だ。
「そんな事のために家を出ることを赦し医学部へ行かせたのではない。……お前は嘴馬家の長男として病院を継ぐ義務がある。荷物をまとめて戻ってこい。これ以上の勝手は赦さない」

『俺は実家を継ぐために医学部に入ったんじゃない。もうほっといてくれ』
 そう言えていたらどれほど楽になれただろう。
 その時俺の口から出てきたのは、一切の自由意思を失った返事だけだった。
……聞いているのか? 遼士郎!」
「あ、ああ」
 俺は結局どこまで行っても親父が怖く、親父に逆らえない生き物だった。
……しょうがねえだろ」
「何がしょうがない、だ。心臓外科医としての職分だけを考えていればよいものを、全方位にいい顔をして。……本当にお前は貴和子母親によく似ている」
…………
「頼まれてもいないことに首を突っ込むな。お前にはお前の役目がある。何のために医者になった?」
 俺は思わず膝の上に置いた左手を固く握りしめていた。
 父と母の仲は俺が知る限り常に冷え切っていた。若い頃からこの男は母にただの一度も親愛を向けることは無かった。親父からも何か父親「らしい」事をされた記憶は無く、俺の記憶にあるのはこちらに目もくれない、冷たい空気を纏った背中だけだ。
 恐らく弟妹に対しても同じだろう。寧ろ弟妹には俺より興味が無かったと思う。弟妹に累が及ばず良かった……と思う反面、
 俺は一体何のために神経を擦り減らし、必死になって医師になったのか。
 わからなくなる。
 そもそも俺が心臓外科医を志したのは、

「遼士郎。早く浮城教授とよりを戻し、娘を嘴馬家に入れろ。浮城家は歴史ある医師の家系。申し分ない。我が家は神馬藤澤家に連なる家だ……我が家は血が薄まったとはいえ、藤澤家に連なる家が消えることはあってはならん。いいな」
「ふざけたこと言うな。佐奈芽の意志は無視か? 彼女は、」
「お前が了承するなら構わないと言っていたぞ」
「彼女はうちの問題に何の関係もないだろ!」
「そうだ。関係ない。お前の決断が様々な人生を狂わせている。いいか遼士郎。お前は家を継ぐために存在しているのだ。ああ、だが心臓外科医を辞めろとは言わん。その程度の慈悲で未来が買えるなら安いものだ」
 何故親父がここまで栄生会総合病院を俺に継がせようと躍起になっているのか、俺には理解できない。
 嘴馬家は確かに古い家だ。慶応元年から続く医者の家系。それより以前に遡れば神馬の一族——藤澤家に連なり、彼らと祖を同じくする馬子まごの家系となる。
 すでに神馬の血なんてあって無いようなものだ。
 多分、俺に家を継がせることはあくまで副次的な目的なのだろう。
「未来って何だよ」
……?」
「親父が言ってる未来って何だ? 藤澤の分家に、神馬の家系に回帰することか? 自分の代までまだ馬子がいたからそこに信仰を見出してんのか?」
「何だと」親父は顔を歪めた。図星かよ、と俺は冷笑する。
「一人でやってろ」
 想像以上に憎悪が滲んだ声が唇から漏れた。
 俺は若草色の入院着、その胸倉を掴む。胸に貼られた電極が衝撃で外れ波形がフラットになる。
「もうお前を親だとは思わねえ。俺たちの未来を手前一人の信仰に買い叩かれてたまるか」
 俺は乱暴に手を離す。瞳だけが同じ色だった。鶯色の瞳の奥で瞳孔が萎み、俺の方を見ている。支配的でどこまでも傲慢で威圧的で、どうしようもない独裁者だった男の顔にはただ動揺だけが浮かんでいた。
 僅かに開いた唇の隙間からは掠れた息遣いだけが漏れ出ている。

……俺は執刀しない。東医の規定で、三親等以内の親族はオペできねえんでな」
「待て」
 制止の言葉は聞かなかった。
 人生の後半にもなり、漸く俺は親に反抗する事を覚えていた。

諸注意
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