レゾン・デートル|CASE.03 超弦の遺恨

神秘は科学の手で解体できる。それが僕の信仰だ

雁桐右京。その名は心臓外科医──嘴馬遼士郎にとって浅からぬ縁を持つ物理学者の名である。
そんな右京が突然嘴馬の元を訪れた。右京が日本へ戻ってきた理由には五年前に発生した連続殺人事件が関係しているという。しかし問題を調べようとした矢先、ある人物が不可解な死を遂げる。『この紐とルーシュチャ方程式を用いて求められる最大の素数を求めよ。ヒント…5年前に発生した八人連続殺人事件』。真実を知るため嘴馬らは捜査を開始するが……?
さらに同時に発生した脳外科手術の術中死。誰にでも輸血可能な血液製剤──〈メディウム〉がその死因に挙げられ、四宮椿は独自の調査を開始する。
背後で蠢く希少血を巡る陰謀。市民団体〈きぼうの庭〉と繋がる歪んだ神秘への祈り。
椿は父・沖田蒼司と共に因果の渦へ──。
物語は十二年前の惨劇、その真実へ指をかける。(CASE FILE.02 収録予定)

CASE.02 - マスグレイヴ家の儀式書 https://privatter.me/page/6973712c73d47

※同人誌版の原稿をそのまま移植しているため、改行が少なく横書きでは読みづらいと思います。縦読みリーダー表示をお勧めします。

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 ——五年前 深夜
 いとしま医学特区 英国街


 その警備員の勤務態度は凡そ勤勉とは言い難く、彼は欠伸を噛み殺して扉の前に立っていた。現在時刻は既に夜中の二時を回り、冷たく町を愛撫する海霧だけが、彼の愚痴を聞いている。
 少なくともこの時刻まで異常はなかった。彼は普段の警備時には有り得ないほど強い眠気を覚えたが、深夜帯の給料加算を思い浮かべて何とか耐える。
「な、なあ」
 共に深夜の勤務に勤しんでいた同僚が恐々と彼に話しかけた。彼……稲田昌義いなだまさよしは「んあ?」とあからさまに興味がない声を出して答える。
「今日ってこんな濃霧の予報だったか?」
「さあ……どうだったかな。でも別になあ? 濃霧になることも曇り続きなことも別に珍しくはないだろ」
 稲田はそう答えたが、明らかに霧は平時と比べ異常な濃さであった。ほんの数メートル先にいるはずの同僚の顔すら見えない。
 LED電球の鋭い明るさのおかげもあり、この周囲は夜でも比較的明るい地域である。加えて、警告灯が輝く医学特区評議会のビルが町を見下ろし、少しだけ高層の劣るこの高級ホテルは、英国街の眺望を独り占めしている。五つ星ホテルは伊達のモノではないが、今夜の濃霧では何も見えない。
 霧の奥でぼんやりと瞬く街灯の明かりすら徐々に見えづらくなり、稲田は川から流れてくる冷たい風に少し肌寒さを覚えた。
 医学特区は四方を海に囲まれていることから、本土に比べて比較的涼しい気候ではあるが、六月だというのにこの肌寒さには少々違和感がある。年々妙な気候になってきているのは間違いないが、この肌寒さは……
「おい、中川……
 稲田は同僚が居るはずの方向を向き声をかけた。中川からの返事はない。
「まさか立ったまま寝ちまったのか?」
 懐中電灯を片手に持ち、稲田は濃霧で閉ざされた視界を進む。中川は数メートル先にいたはずだ。手探りで霧を掻き分けるように腕を動かし、そして何か固いものに、同時に体温ほどのぬくもりを持つ何かに触れる。
「ったく……冗談だろ? 立ったまま寝てるのか?」
 稲田は懐中電灯を中川の顔へ向けた。

……中川?」

 そこに中川の頭は無かった。正確には……頭と呼べる部分はあったが、人間の頭蓋とは思えない形に変形していた。雑巾絞りのように捩じられ、圧縮され、原型をとどめていない。
「ヒッ」
 稲田は自分が触れた温かいものが何だったのかを認識する。それは血液だった。中川の頭蓋から撒き散らされた血液で自分の手が真っ赤に染まりきっている。
「な、な、なん、な何が起き」

 フラフラと数歩後退し、背中に何かが当たる。
 恐る恐る振り向くとそこには人影があった。それは上背だった。瞳は赤く、顔には目立つ火傷の痕が走っている。目立つ容貌だが稲田にその顔を覚えておく機会は永久に訪れない。
 ホテルの前には二つ、物言わぬ人形が置かれているのみであった。


諸注意
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