レゾン・デートル|CASE.03 超弦の遺恨

神秘は科学の手で解体できる。それが僕の信仰だ

雁桐右京。その名は心臓外科医──嘴馬遼士郎にとって浅からぬ縁を持つ物理学者の名である。
そんな右京が突然嘴馬の元を訪れた。右京が日本へ戻ってきた理由には五年前に発生した連続殺人事件が関係しているという。しかし問題を調べようとした矢先、ある人物が不可解な死を遂げる。『この紐とルーシュチャ方程式を用いて求められる最大の素数を求めよ。ヒント…5年前に発生した八人連続殺人事件』。真実を知るため嘴馬らは捜査を開始するが……?
さらに同時に発生した脳外科手術の術中死。誰にでも輸血可能な血液製剤──〈メディウム〉がその死因に挙げられ、四宮椿は独自の調査を開始する。
背後で蠢く希少血を巡る陰謀。市民団体〈きぼうの庭〉と繋がる歪んだ神秘への祈り。
椿は父・沖田蒼司と共に因果の渦へ──。
物語は十二年前の惨劇、その真実へ指をかける。(CASE FILE.02 収録予定)

CASE.02 - マスグレイヴ家の儀式書 https://privatter.me/page/6973712c73d47

※同人誌版の原稿をそのまま移植しているため、改行が少なく横書きでは読みづらいと思います。縦読みリーダー表示をお勧めします。

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***

 ——未明


 その人物は静かに点滴を取り替えた。その点滴は心臓病の治療薬などでない。
 静脈麻酔——ジアゼパム。明らかに用量を超え、致死量になりかねない量が投与されている。
 ぽと、ぽと、と落下する液滴を其は無感動に眺め、その老人へと視線を移動させていく。夕日や琥珀の色にも似た瞳の奥に宿っているのは憎悪でもなく、遺恨でもなく、ただ広がっているのは憐憫であった。
 其は幻想へ近しいモノを求め、決して叶わない願いを抱くその老人へ強い憐れみを見出した。ワタリガラスの刺青が入った項はボブカットの髪の毛で覆われている。其の姿は浮城佐奈芽と寸分違わない容貌だったが、突如カラーノイズが全身に走り、次の瞬間に現れたのは細身の男の姿だった。
 同じ特徴として残されたのは項の刺青だけである。姿を偽るこの魔術は、刺青に直接刻印された特異的な魔術だった。

 おかしい。

 男はバイタルモニターを睨む。何故何の変化も起きない? 致死量を投与しているのに。数分で自発呼吸を止められる量だ。男はベッドから離れようと足を扉の方へ向けた。
 次の瞬間……部屋の電灯が乱暴に点けられる。思わず眩しさに顔を顰め、

「やあ。会いたかったよ、レイヴン」

 入り口に立っていたのは雁桐右京と、嘴馬遼士郎であった。
 梅原理玖はただ、二人を見据えているのみで——何も言いはしなかった。


 そこにいたのは、医学特区署の刑事であるはずの梅原理久だった。普段と特段様子は変わらないように見える。だが一転して不機嫌そうな表情で俺たちを睨み、時折眩しいのか目を細めて擦った。そして一度項へ手を伸ばし、「ハァ……」と鬱陶しそうに溜息を漏らす。
……厄介なことになったな」
「薬はすり替えておいたぞ」俺は梅原を睨みつける。「それの中身はただの生理食塩水だ。無駄な足掻きは止せ」
「嘴馬先生。貴方にはお世話になった。何の恨みも、何の憎悪もありません。関わらないでほしかった」
 梅原は忌々しいと言わんばかりに右京だけを見ている。
「だというのに……カラスは腐肉に群がるというが、死臭を嗅ぎ付けるのが本当に早い」
「誉め言葉として受け取ろう」
 右京は涼し気に視線を受け流す。梅原の手には何か……ガラス瓶が握られていた。シリンジのようにも見えるが、それの表面には細かい透かし彫りのような文様が見える。俺の視線の先に気付いたのか右京も同じ方向を見た。
「成程。君はそれを回収していたのか。回収してどうするつもりだったんだ? それは君が思っているほど万能なものではないぞ」
「黙っていてくれないかな。……ところで、自信満々そうだけど宿題は解けたのか?」
……ルーシュチャ方程式は、僕なら全て解くことはできる」
 右京はそう言って手の中の紙と折り畳まれたひもを見つめ、続けた。
「だが解かない。君の思惑に乗ってやる気は無い。外星に信仰を見出し、その狂気を祝福と勘違いしている君たちと、同じ轍を踏みたくはないのでね」
…………
 梅原の表情が露骨に憎悪へ塗り替えられた。
「科学の手で神秘世界を征服できるなどと、傲慢の極みのような事を言っている奴に言われたくないな」
 俺は眼前に立つ梅原理久という男が、徐々に奇怪な怪物のように見えてきていた。
 相手は魔術師だ。この部屋も多分、すでに魔術の慣らしは済んでいる。俺たちは今サメの腹の中にいるようなものだ。
 俺は激しく揺さぶられる三半規管が悲鳴を上げているのを感じ、ふらりとよろけて右京の肩を借りる。
「一つ聞きたいことがある。なぜ、君は濱田礼人とあの老人本物の雁桐右京を殺害した?」
「答える義理はない」
——レイヴンは一枚岩ではないらしいな」
 梅原の表情は良く見えなかった。偶然にも、窓の外——カーテンの隙間から、月明かりが差し込む。
 そこには何の感情も浮かんではいなかった。驚くほど彼の心は凪いでいる。まるでその質問も、真相に辿り着くことさえ分かっていたと言いたげな雰囲気に、俺は背筋が冷たくなるのを感じた。
「蒐集は、いい。だが解明のための蒐集というのは、話が違う」
 梅原は手の中のガラス瓶を愛おし気に見た。あの瓶は。俺は、あれを知っている。見覚えがある。心臓を思い切り鷲掴みにされたような感覚に、額から汗が滲む。
……神秘は秘匿されるがゆえに神秘だ。万物が真実の前に首を垂れ、叡智によって辱められるようなことが赦されていいはずがない」
「だから訴えたのか。外なる星の神とやらに」
「お前だって同じ穴の狢だろう」
 梅原は吐き捨てた。そして拳銃の安全装置を解除し、右京の方へ銃口を向ける。
「科学で全てを解明できるとお前は信じている。それがお前の信仰だろう?」
「ああ。君たちとは一生平行線だ。だがそれを否定する気は無い。僕の信仰は僕だけのものだ。誰かにそれを強制する気は無い」
「右京!?」
 さっと左手で制される。右京は右手で拳銃を握る梅原の左手を掴み、銃口を胸に押し当てていた。安全装置は外されたままだ。もし今発砲されれば弾丸は容易に彼の命を奪う。
「もう一つ聞きたいことがある。雁桐みづきについてだ」
…………
 梅原は微動だにせず右京を睨んでいる。俺は右京に制されたまま、足が釘になったようにただただ動けず二人の様子を見ていることしかできない。
「彼女は芹沢馨に刺された後、栄生会総合病院に搬送されていた。そして彼女はそこで、術中死している。死因は出血性ショックだった——が、それだけでは説明できない所見があったはずだ」
「硬膜外麻酔の過剰投与」
 俺はその言葉を口にする。
「ああ。だが遼士郎……そんな形跡があった遺体は、雁桐みづきだけのはずなんだよ。なぜなら他の被害者たちは皆即死しているわけだからね」
「ちょ……右京、待ってくれ。一体何が言いたいんだ」
「梅原理久。君は意図的に硬膜外麻酔の過剰投与という、死亡時画像診断で出された所見を隠蔽したな。そして栄生会総合病院での麻酔薬の使用記録についても、問題なしとしたのは君だ。君はこの一件において、直接死因が刺されたことではなく麻酔薬の投与量のミス、即ち医療事故である、と結論付けていた。だがそれは隠蔽され……栄生会総合病院の院長である嘴馬克彦と、その緊急手術で麻酔管理を担当した浮城佐奈芽、その事実を隠蔽した刑事の君は、秘密を共有する事となったわけだ」
…………誰に聞いた?」
「誰にも。初歩的な推理ことだ」
 その言葉に梅原が顔を背ける。音もなく……ただ、鋭利な刃が彼の背に触れるか触れないかの距離で突き付けられ、刀に流れる波紋が月明かりで揺れている。そんな、ぞっとするほどの殺気があった。
 蒼司はほとんど感情が動いていないのか、どこかからかっぱらってきた手術剪刀を梅原の首元にあてがっている。あとわずかでも触れれば、切れる。俺は生唾を飲み込む。
……沖田先生。……あんた一応医者でしょ。人に刀向けて、どの口が医者ですか」
「安全装置が外れてる拳銃を一般人に向けてる警察官に言われたくないかな」
「ッハ、良く回る口だ」
 梅原は拳銃を落として、俺たちの方へ蹴り飛ばした。鈍い金属音が響く。
「全く……吉兆を連れてくる八咫烏、か……成程、持っているというわけか」
「僕からも聞きたいことがあるんだけど、構わないかな」
 蒼司は静かに、それでいて怒りが滲む声で梅原へ問うた。
「ミスカトニック大学は、神秘魔眼を蒐集したことがあるらしいね」
「ノーコメントでお願いしたいが、」
 蒼司の表情に気圧されて梅原は声を詰まらせた。
……神秘魔眼『ホルアクティ』を蒐集し、ここへ——そしてあの手術室へ持ち込んだのは誰だ?」
……『ホルアクティ』の出所は、分からない」
 梅原は唇を震わせながら言った。蒼司の表情は穏やかなものだったが、全身から殺気がひたひたと滲み出ているのは少し離れた所にいる俺と右京にも明らかなほどであった。
 口腔内が乾燥し、心臓が早鐘を打っている。
 蒼司は稀に見るほど怒っていた。
「そう」
 興味が失せた、と言わんばかりに、短い返事が夜の風に流される。
「知らなくても別にいいんだ。最初から期待はしていなかったから」
……、う、」
「でも……ちゃんと事件の真相は、話さないといけないよ」
 緊張の糸がぷつんと切れたように地面へ崩れ落ちる。
 梅原は、恐怖で彩られた表情は誰にも見えぬよう下に向け、激しく呼吸を繰り返していた。


諸注意
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