シノハラ
2025-11-05 00:17:44
76995文字
Public 無風
 

无风短編まとめ

全部全年齢です


悪点

 あくまで形式的なものだろう。
 そんなことに付き合わされるのも不服だろうが、諦めて協力してほしい。

 風息が暮らす予定の賃貸の一室に最低限の家具を持ち込ませた無限がそう言ったのは、もう五年ほど前のことになるだろうか。
 彼が言う通り、館は家の中の風息の振る舞いをしっかりと監視するつもりはないようだった。
 もちろん、人の出入りや力の使用状況は常に監視されているだろうが、それ以上のことまでは真剣に立ち入らないということだ。

 そのため、目付け役の肩書きを持つ無限を長期的に他所にやることにも躊躇いがない。
 その生活を良しとする無限が要請を断ることはないので、ほとんどの時間を風息は一人で過ごしていた。
 二人で暮らすための間取りの家は一人で暮らすには少し広すぎて、寂しさを覚えることもある。

 いや、はじめの頃はそんなことはなかったのだ。
 無限がいるときは自室に籠りがちになって、いなくなってようやく満足に息を吸える心地になった。

 風息を酷く打ちのめした手からは視線を逸らすようにしていたから、共に食事をするときもずっとテーブルに用意した料理ばかり眺めていた記憶がある。
 自らの身を固くするばかりの男がいなくなれば、すぐさま部屋中を掃除して彼の気配を消して回った。

 正直に言うなら、風息は無限が恐ろしかったのだ。
 風息をあれほどに痛めつけて、意思を折った者は妖精であってもいなかった。
 渦中にある頃にはそう認識できなかったが、今となってははっきりと分かる。
 あの頃の風息はただ恐れから、無限を忌避していたに他ならない。

 それでもしばしば帰ってくる彼を見るうちに、彼が酷く丁寧にものを扱うのだと気がついた。
 いつものように二人で夕食をとっていたとき、俯いた視界に入り込んできた無限の箸が煮込んだ里芋を迷いなく挟んで、その仕草を追って顔を上げたのだ。

 ぬめるそれを口元に運ぶまでの動きは静かなもので、思わず感心したのを覚えている。
 普段の彼の指先はおそらく風息のそれよりも、ずっと優しいものなのだとようやく理解した瞬間だった。

 それがきっかけだったのだと思う。
 次第に彼が家にいることに違和感を覚えなくなり、風息が自室に籠る時間も自然減っていった。
 共有する時間が増えれば、必要最低限のラインを越えた無駄話をするようになる。
 話をすれば、彼の人柄が見えてきて、自分の倍生きているとは思えない迂闊さがあることまで知ってしまった。

 館で仕事をしていなければ、案外どこかでうっかり死んでたんじゃないのか、と風息がからかったとき、無限は気を悪くする様子もなくそうかもしれないと口にした。
 近年の人間の進歩はあまりに早く、館の助力がなければ付いていけなかったかもしれない。
 時代に取り残され、所属するコミュニティもないのであれば、野垂れ死にしてもおかしくなかっただろう。

 私が今ここにいるのは本当に運がよかっただけなんだ、と口にした無限が風息に自らをわずかばかりに重ねていたのが分かった。
 一つでも状況が異なれば、風息のいる立場に無限がいたかもしれない。
 彼はそう言いたかったのだと思う。

 それが現実的なものなのか風息には判断がつかなかったが、無限が己の人生にそういう危うさを感じているということなのだろう。
 彼の言葉に風息を懐柔する意図は感じず、嘘偽りない気持ちであるのは嫌でも分かった。

 べらぼうに強く芯が定まっているように見受けられるが、それでいて不安定さも確かに併せ持つ人間。
 無限に対しての印象が刷新され、数を増やしていくうちに彼が家を離れてから念入りに部屋の掃除をすることもなくなった。

 彼が長く家を空けた後、しばらく休みだから長めにいると連絡を貰ったときは何となくそわそわしてしまった。
 一人でいるのも嫌いではないが、やはり自分は誰かと共同生活をするのに慣れてしまっているのだろう。
 そうして、無限と共にいるのがもう不快でないと風息は認めるしかなかった。

 彼が戻ってから日々はゆったりと過ぎると思いきや、たまに妙な騒動を引き起こすこともあった。
 妥協するのは風息の方が多いが、謝るのは無限の方が多かったように思う。
 結局無限ばかりが我を通していると気がついて、大いにごねたこともあった。
 あの時はどうやって自分の気持ちを収めたのだったか。

 人間の子供の夏休みには足りない程度の休暇の最終日に、無限は私室の掃除をしようとしたらしかった。
 それも大掃除めいたことまでしようとしているようだったので、理由を訊ねれば長くいたからとだけ無限が答える。

 確かに普段より長く暮らしていたし、その間は風息も無限の部屋には掃除をしに入らない。
 無限が清掃を億劫がる質なのであれば、埃のいくらかは積もっているかもしれなかった。

 いいよ、そんなこと、と返事をした後に、無限がぱちりと瞬きをしたのを見て、妙なことを言ってしまった気分になった。
 殊勝な心掛けだとそのまま任してしまうのがよかったのかもしれない。

 それでも撤回するつもりにはならず、いいよ、ともう一度無限に告げる。
 あと半日しかないんだからゆっくりしていればいいじゃないか。
 掃除くらいこっちでやっておくから。
 本音だったからか驚くほどするすると無限を堕落に誘う文句が出てくるのを、無限は心底意外だと言わんばかりに見ていた。

 風息をまじまじと見ながら無限が投げかけられた言葉を検討して、それじゃあお言葉に甘えて、と口元を緩める。
 なんだかそれが嬉しくて、風息は時間の許す限り居間に居座って、無限の時間を潰し倒したのだ。

 無限を送り出した翌日に無限の部屋に立ち入ると、普段よりずっと生活感のある部屋に迎えられた。
 夜になって気温が下がると彼が羽織っていた上着が椅子に掛けられていて、中途半端に読んでいたらしい雑誌が机の上に置かれている。
 布団も起き上がったときのままらしく、捲られたままだった。

 確かにここで無限が生活していたことが分かる形跡をまざまざと見せつけられて、途端に上手く息ができないような感覚に襲われた。
 共に暮らし始めてすぐの頃に感じていたそれとは違う締め付けに、不快ではないどころの話ではなかったのだと痛感してしまう。
 彼の眠っていたベッドに上がりシーツに鼻先を押し付けると、風息の知らなかった無限の匂いがした。

 そうすればじわじわと寂しさが込み上げてきて、風息はその感情に慌てて蓋をしようとした。
 それでも閉じる前に溢れ出したそれを覆うように、ぞっとさせる思いが湧き上がってくる。
 それはどれだけ時を経たとしても消え失せることのない、己と彼を結びつける発端となった確執の形をしていた。

 再び顔を合わせてしまえば抑えられないと分かっていて、半月後に彼を家に戻らせてしまった。
 彼の姿を見た途端、強い後悔が湧き上がり、風息は玄関で靴を脱ごうとする無限を押し留める。
 それから、なんとか出ていってほしいと願い出た。

 思っていたよりずっと固く響いた風息の願いに、靴を脱ぐために少し上げていた足を下ろして無限は探るような視線を寄越した。
 もうここを自分の家だと思っているらしい彼からすれば青天の霹靂だっただろう風息の要求に、無限は何事かと問いかける。

 どうして今になって。
 私に至らないところでもあったのか、と誠実さを感じる声が鼓膜に届いた瞬間、何とか封をしていた思いが後から後から溢れ出した。

 あっちこっちにとっ散らかったままの彼との日々を言葉にして、無限に募っていった好意を詳らかにする。
 腹の上から喉奥の下で渦巻いていた愛情の形が確かになるたびに、その隙間から自らの所業が這い上がり腹の底が冷えていく。

 望みを叶える手段が、贖う術もない罪であることを知っていた。
 どんな結末を迎えても、それらが風息を苛むのだと覚悟していた。
 けれど、それがまさかこんな形で牙を剥くなんて、夢にも思わなかったのだ。
 こんな苦痛の堪え方を風息は学んでこなかった。

 どうすればいい。
 どうすれば、この痛みを乗り越えられる。
 いや、そもそもこれが罰だというのなら、自ら捨てることすら許されないのではないか。
 そんなことすら今の風息には分からない。

 でも、今更どのツラ下げてあんたに好きなんて言えばいいの。
 最後の最後にそう、風息は細い声で自問するように口にする。
 俺のやり方があんたにとってどういうものだったか、俺にだって分かってる。
 結果として誰も死ななかったからで済む話じゃないことも。
 全部分かってる。
 だから。

 だからもう来ないでくれ。
 そうすれば何もなかったことにできるから。
 どれだけ時間がかかっても、全部忘れてみせるから。
 そう懇願する自らの声は縋るような響きを孕んでいて、風息のどうしようもなく浅ましい願望を白日の下に晒していた。

    *    *    *    *

 あんたも仕事くらい選べばいいのに、とその時彼は呆れた調子で零したはずだった。
 そう言われてしまうと無限は何も言い返せない。
 元々口が達者な方ではないし、この件は風息が言うように実際条件が良いものではなかったのだ。

 まず、己の休暇に当たる日々が館の意向に縛られることになる。
 基本的に何をしても構わないと言われてはいるが、任務場所によれば龍游に向かうこと自体が骨ということもあるだろう。
 無限の気質からすればそう負担にはならないものの、余暇に過ごす地域を限定されることを厭う者も少なくはないはずだ。

 次に、監視対象が風息であるのも良くない。
 館は現状彼が決起することはないと考えているらしい。
 風息が不利な場所であるにも関わらず強引に事を運ぼうとしたのは、まだ手に届く場所に小黒の領界があったからだった。
 小黒の空間系の能力が領界のみであったなら、風息は今ここにいなかっただろう。
 それほどにあの案件では領界を手中に収めることが重要だったのだ。

 小黒の領界が失われた今、風息には己の理想を押し通すための手立てがない。
 条件が揃わないまま、再び事を起こすほど、風息は愚かではないと館は判断しているようだ。

 風息には生活の自由は与え、他者との接触や情報の取得の監視のみを継続し、強奪する価値のある力を持つ妖精の情報を得る機会を制限する。
 それが館の決定であるが故に、無限の立場は括弧つきの保護監督者でしかない。
 人間達の行政が風息を認知している手前、何もしないわけにも行かないので致し方なくというのが実情なのだ。

 風息も今のところ、人目を盗んでどうこうするつもりもなさそうだが、相当な騒ぎを起こした風息に冷ややかな視線を投げかける執行人も少なくはない。
 動機は理解できるものの、だからと言って許されることではないと嫌悪する者や、単純に自らが忙殺されたため恨みを抱いている者もいる。

 そんな状況だったから、無限の他にも龍游を拠点にして活動する執行人に声を掛けたようだったが、難色を示されてしまったらしい。
 条件が悪いと思った者達の気持ちも十分に理解できる。

 そもそも定住している者が引越しを強いられるところからして負担が多い。
 その点、無限であればその辺りの不安はなかったし、目ぼしい人物が断っているのであればと無限は任務とも言えないくらいの頼みを引き受けたのだ。

 後から話を聞いた小黒が慌てて連絡を取ってきて、やたらと気を揉ませてしまったのだけが申し訳なかった。
 無限だって、風息の件について全て飲み込めているわけではない。

 けれど、当事者である小黒がかつて抱いた葛藤を越えて、もう恨みに思うようなこともないと言うのだ。
 表立って彼を避けることで、これ以上この件について小黒の心を波立たせたくはなかった。
 無限がそう思ってこの件を受けたことくらい、もしかしたら小黒も分かっているのかもしれないが。

 いざ同居が始まると、風息は予想以上に無限から距離を置いてきた。
 顔を合わせるのは彼が律儀に無限の分も用意する食事のご相伴に与るときくらいで、それ以外ほとんど風息は自室から出てこない。

 家にいるのだから、と家事の一部を負担しても特に反応を示さなかったが、何もしなくとも文句を言ってくることもない。
 ただ、台所で洗い物や水回りの掃除をしているときだけ、様子を窺いに来ることはあった記憶がある。
 おそらく小黒に何か入れ知恵されていたのだろう。

 どうして風息がわざわざ三食用意して、無限を呼んでから食べ始めるのか正直なところ理解できていなかった。
 関わりたくはないけれど、必要以上に無視をしても意識している雰囲気が出てしまって嫌だったのだろうか。

 ある日、風息が豆板醤で煮込んだ鶏肉と里芋を出してきた。
 辛味のある里芋を口に入れて、咀嚼しているうちに頑なに無限を見ようとしなかった風息がこちらを見ていることに気づく。

「いつも毎食作っているのか?」

 しっかりと合った視線が切られる前に無限が問いかける。
 無限の意図を探ろうとしていたらしい風息が合点のいった声を上げて、それからそうだよ、と肯定した。

「こういう所に住んでると腹が減るんだよ。小黒もそういうことがなかったか?」

 確かに小黒が幼い頃、思った以上に食べたり食べなかったりということがよくあった。
 大人顔負けの量をぺろりと平らげることもあれば、同じ年頃の子供半分も食べないで満足する。
 妖精が食事から摂取するのは栄養素ではなく霊だと知っていたから、あまり気にも留めていなかったのだが。

……子供特有のむらっ気だと思っていた」

 そうでもない、と風息が茶に口をつけてから無限の思い込みを否定する。
 周囲の霊が不足していれば、体が別の方法で霊を取り込もうとするのだと風息は言う。
 おそらく、風息が毎食食事を強いられるようになったのは再び龍游で暮らし始めてからなのだろう。
 となれば、本格的に料理を始めたのもそれくらいからのはずだ。

「料理が上手いんだな」
「そうか? 誰だって慣れればこれくらいは……いや忘れてくれ。得手不得手は誰にでもある」

 箸で里芋を掴もうとしていたらしい風息がうまく行かずに諦めて、箸先で芋を突き刺した。
 無限が調理が不得手なように、風息は箸の扱いがあまりうまくないようだった。
 とはいえ、元々使う機会が少なかったのだから、ただ慣れていないだけかもしれない。

「いや、美味いものを食べさせてもらって助かってる。ありがとう」
……ならよかった」

 どう応じるか迷ってから、風息は素直に感謝を受け取ることにしたらしい。
 少し視線を外して、観念したように彼は言葉を紡いだ。

 その日を境に無限は食後の片づけに加えて、食卓の準備をするようになった。
 始めは食器を並べるくらいしか許されなかったが、今は鍋から料理を皿に盛るところから全て任されている。

 風息が自室から出ていることも増え、雑談をすることもしばしばあった。
 会話を重ねれば、彼の責任感の強さや、他者を気にかけて当然と考える気質が見えてくる。
 そうでなければ、そもそも無限に食事を与えることもなかっただろう。
 美徳であるはずの気質が、いつしか風息を蝕みあの局面を生んでしまったことは想像に難くなかった。

 彼の行いは許されるものではない。
 けれど、風息を知るたびに、どうしてそうなってしまったのかが分かってしまう。
 世界のあり様に加え、風息の気質と能力と、館の彼へのアプローチ方法が少しずつ悪影響を及ぼした。
 彼に罪はある。
 けれど、彼のみに罪を求めるのも間違っている。

 自分もまた罪ある者だと、彼の傍にいると気づかされる。
 館が最終的に出した結論と相違ない感触であるのに、ここに来てようやく無限は実感を持ってその事実を受け入れた。
 彼へ抵抗感を抱く資格など、端から自分は持ち合わせてなどいなかったのだ。

 無限は任務が終わって家に帰るとき、欠かさず風息に帰宅日時を伝えていた。
 普段一人で暮らしている家に、突然人が上がり込んだら驚くだろうという配慮からである。

 いつだったか、風息が外出しているときに帰ってきたら、後から戻ってきた風息が明らかに警戒した様子で居間に入ってきたので判断に間違いはないと思っている。
 実際、後から聞いたところ、すっかり失念していて大分気が動転していたらしい。

 いつも通り事前に決めていた時間に呼び鈴を鳴らし、鞄に入れていた鍵を手に取ろうとする。
 鍵を収めていたはずの鞄の小さなポケットに指を入れたところで、それらしいものが指先に当たらないことに気がついた。
 ポケットに入れ損なって鞄の底にあるだけならいいのだけれど、と気が焦るのを感じながら腕を突っ込んだ辺りで、扉ががちゃりと音を立てる。

 はじめは聞き間違いかと思ったが、それからすぐにチェーンを外す音が聞こえてきた。
 無限がいつも術で外すことになる簡単な構造のそれに触れているのはおそらく風息だろう。

「おかえり」
……ただいま」

 ドアを開けた風息が共有部の廊下でもたついていた無限を迎えた。
 返事が遅れてしまったのは、まさか彼が自分のために出迎えに来てくれるなんて思いもしなかったからだ。

 おそらく無限が帰ってきた合図があったのに、いつまで経っても入ってくる様子がなかったのが気になったのだろう。
 ドアの覗き穴から無限がいることを確認して、わざわざ戸を開けてくれたらしい。

「鍵、無くしたんじゃないだろうな」
「いや、多分鞄のどこかにはあると思う」

 ならいいけど。
 ちゃんと探しておけよ、なんて言いながら風息が居間に戻っていく。
 ああ、と返事をしたけれど、すぐに鞄を漁る気持ちは湧いてこない。

 自分が暮らす家があって、そこで自分を迎えてくれる人がいる。
 そんな環境を享受できているのは、いったいいつ振りの事だろう。
 小黒と旅するようになってから、ただいまとおかえりを言えるようになったが、自分達には家がなかった。
 自分を待つ人がいるだけで、自分に待たれる人がいるだけで、これ以上のものはあるまいと思っていたのに。

 自らがまだ他の人間と決定的に隔たりがあると知らぬまま生きていた頃、当然のように手の内にあったものだった。
 一度失ってから再び得ることは叶わなかったそれが、確かに今ここにある。

 無限が望んだわけでも、ましてや風息が求めたわけでもない。
 歪でしかなかったものが、慣れや諦念によって丸く磨かれつつあるのだ。

 おかえりと口にした彼は、無限の不手際に少し呆れているようだった。
 けれど、そこに不快感は見受けられない。
 それが無限には大層喜ばしくて、胸の奥が甘ったるくなって口元が緩く弧を描きそうになってしまう。

 彼には不服かもしれないが、この生活がずっと続けばいいと、そう思っていたのに。
 それなのに、風息はそれを許さなかった。
 無限に対しての好意の軌跡を語りながら、それでも無限を拒否しようとする。
 無限が得ることすら諦めてしまっていたものを取り上げようとするのかと、憎らしく感じられた。

 何より、無限への愛情を語る口が、ほとんど同時に無限を拒否する理由が分からない。
 自分のテリトリーから無限を追い出して、愛していると告げた人を忘れたがる気持ちが分からなかった。

 否、本当は分かっている。
 ただ、風息が懇切丁寧に説明してくれた彼の思いを無限が受け入れたくないだけだ。
 かつての彼自身の行いが風息の思いに絡みつき、膨らみ行くそれに痛みを与えながら封じ込めようとしている。
 その堪えがたい痛苦の正当性を認め、無限を忘れてしまいたいと風息は切願しているのだ。

 無限が締め付けられた彼の思いを掬い上げて、自分とて同じ罪を持つものだと、無限の前ではその罪悪感を忘れてしまっていいのだと言ったところで、彼は納得できないだろう。
 風息はただ一つの例外を除いて、今まで一度も許しを乞うて来なかった。
 その例外が与えられた小黒ですら、彼の態度には不満を抱いている。

 風息は僕が許したいなら許せば良いって思ってる。
 でも、僕が許したいって気持ちを受け取るつもりは全然ないんだ。
 だったら僕のもう怒ってないよって気持ちはどこに行ったら良いの。

 風息と対話を重ねていた頃の小黒がよく無限に漏らしていた愚痴は、いつしか聞かなくなっていた。
 だから、問題はもう解決したのだとばかりに思っていたのだが、ひょっとしたら無限の思い違いで、小黒が無限に愚痴を言うのに飽きただけかも知れない。

 風息の唯一の謝罪は小黒が風息を許せるようにと彼が慮ったものに過ぎない。
 風息には小黒が風息を許そうが許さなかろうが、自らが抱く罪に大した影響はないと思っているのだろう。

 確かに彼の行いは、簡単に許されるものではない。
 あの夜は妖精と人間の間に確かな影を落とした。
 妖精の存在を知らぬ者達も、街に関わるのであれば多かれ少なかれ苦労を強いられたことだろう。
 そういう有象無象に事の次第を説明して、理解を得て回ることなどできるはずがない。
 皆に納得してもらうことなど、絵空事でしかないのだ。

 けれど、これはそういう努力以前の話である。
 風息はそもそも許しなど望んでいなかった。
 その罪こそが自らの決意を確固としたものに足らしめたのだと言わんばかりに、風息は後生大事に抱えている。

 誰が自分を許そうと、己の行いが持つ意味が変わることはない。
 そう彼は考えている。
 だから誰にも許しを求めないし、与えられた思いを受けつけるつもりはない。

 間違っていたとしても、と告げたあの時の風息を無限は思い起こす。
 何を犠牲にしても、どんな罪を犯したとしても、あの閉じた世界に構築される世界には途方もない価値があると当時の無限は受け取った。
 けれど、本当にそうだったのだろうか。

 懇願する色を隠さない風息の瞳を見るうちに堪らなくなって、無限は風息の腕に手を伸ばす。
 無限の動きに気がついたらしい風息が逃れようとするが、可哀想なくらいに固まってしまった四肢では上手くいかなかった。

 風息の体を引き寄せて、暴れようとするのを抑え込んだ瞬間、項辺りの産毛がちりちりと焼けるような感触が湧き上がる。
 体が放つ警告の理由を察した無限は、慌てて風息を解放した。

 人間である無限は妖精よりも術の検知能力が劣っているが、これほど至近距離で術を組み立てられて分からないはずもない。
 おそらく風息は術を使いたかった訳ではなく、無限に術の予兆を検知させて身を引かせたかったのだろう。

 風息の力の使用状況は館が常に監視している。
 風息が術を使ってしまえば、その理由がどういったものであろうとこの関係は強制的に終わらせられてしまうだろう。
 それでは無限の望まない風息の願望を叶えてしまうことになる。

 危なっかしさを感じる足取りで距離を取る風息の頬は予期せぬ接触に熱を集めているのに、同時に瞳は不安げに揺れ、絶望に近い色すら宿している。
 その色に無限はもどかしさを感じて、一度ゆっくりと瞼を落とした。

 どうして、彼にこんな顔をさせなければならないのだろうか。
 無限はただ、風息にここにいて、無限が帰ってくることをいささかであれ、心待ちにしてくれれば僥倖だったのに。
 ただそれだけで、それ以上を求めようなんて無限はこれっぽっちも思っていなかった。

「そんな顔をさせたくない」
「じゃあ、出ていってくれればいい。あんたに会わなきゃ、もうこんな思いはせずに済む」

 自分がどんな表情をしているのか分からないらしく、風息が俯いて無限から顔を背ける。
 伏せた瞼に並ぶ睫毛のせいで彼の虹彩の輪郭はあやふやになってしまって、無限では上手く読み取ることが叶わなくなってしまった。

「嫌だ」
「随分意固地だな。この家がそんなにも気に入ったのか」
「そうだよ。お前と共に暮らす家だからね」

 殊更柔らかく響くように注意しながら、無限は足先だけで乱雑に靴を脱いで風息のいる廊下に上がる。
 幼い頃の小黒を窘めていたときに、よく使った声だな、なんて少々場違いなことを考えた。

「いや、ここを出ても構わない。風息がそこにいるなら、他所でだって構わないんだ」

 そこが自分の家だと感じる場所であれば喜ばしいが、もはやそれは自分の中の必要条件ではなくなってしまっていた。
 打ち解け始めたと言ってもいい頃の、彼が話題を探そうとする様子が酷く愛おしく思い出される。
 それが数日しか留まらないような宿の出来事であったとしても、無限の心を温める思い出となっただろう。

「お前が話してくれたこと、私にしてくれたことは全部嬉しかった。そんな風に思う男が、どのツラ下げてなんて思えると思う?」

 彼の反応が見たくて、無限は風息の前でしゃがみ込む。
 涙が溜まって睫毛にまで滲んだ目と視線がかち合うと、驚いたように風息が目を丸めて無限に倣うように膝を折った。
 それから少し尖った膝頭に額をぎゅっと押し付ける。

 あんたの言いたいことは分かった。
 そう、掠れた彼の声が豊かな髪の向こうから聞こえてくる。

「俺だって嬉しいはずなのに、ごめん」

 すみれの花のいろに似た軽やかな髪を場違いだとばかりに握り込んで引き伸ばしながら、風息はゆるゆると頭を振る。

「あんたのそれが本物だって信じられない」

 その声が、まっしろになるくらいに握り締められた指先の色が、無限の思いを信じたいと伝えてくれているのに。
 涙の混ざる気配のある呼気が、確かに喜びを伝えてくれているはずなのに。
 それでも風息は信じられないと無限に告げるのだ。

 風息の肩が震えるのが分かって、今度は彼を必要以上に怯えさせないようにそっと手を伸ばす。
 びくりと跳ねた以上の反応を返さないのを確かめてから、無限は風息の丸く縮こまったしなやかな体を抱き寄せた。

 いつまで経っても、強張った体は緩む気配がない。
 抱き締められる感触に煽られて僅かばかりに上昇した体温は、風息の精神を苛んでいるのだろうか。
 触れるだけだった腕に力を籠めると、風息の体がもう一度揺らぐ。
 それからまた彼は拒否の意思を込めて、今まで以上に体をきつく強張らせた。

 自分には無限に愛を伝える資格がない、と風息は言う。
 それはおそらく無限だって同じことなのだ。
 最後の引き金を引いたに留まらず、かつて風息の切なる願いを砕き、好き勝手に人物像を作り上げ、怒りのまま言葉を投げかけた。

 無限の思いを信じてもらえないのも当然の話だ。
 長く彼の本質を見落としたまま、気づこうともしてこなかった。
 幼かった猫の妖精が少年期を終える頃まで、無限はもはや強くはないにせよ彼に悪感情を抱き続けていたのだ。

 そんなことをした男がどうして、彼に愛を乞うことができるだろう。
 どうすれば彼の思いを受け止めるに足る己になれるのか。
 答えもなく、言葉も尽くせない無限はただ、静かに腕に収まってくれている風息を抱き締めることしかできなかった。