シノハラ
2025-11-05 00:17:44
76995文字
Public 無風
 

无风短編まとめ

全部全年齢です


ご褒美
 ※无风ワンドロ・ワンライ~春Special~ ご褒美 より

 任務が思いの外早く片付いたから、と連絡があったのは帰宅予定日の二日前のことだった。
 背後から聞こえてくる騒々しさは繁華街の雑踏らしく、すでに帰る準備をしていたのだろう。

 明日の夕方には帰るから家にいて、とだけ無限が言ったので小さく頷いてから慌てて声で了解する。
 その間に何があったのか察したらしく、彼が少し笑ったのが分かった。
 映像付きで通話することも多いせいか、なかなか抜けない風息の癖である。

 彼の言う家は風息が一人で住むこじんまりした部屋ではなく、無限がかつて小黒との生活拠点にしていたマンションの一室を指す。
 独り立ちした小黒もよく顔を出し入り浸るらしいが、普段は一人で暮らすには広いだろう場所で彼は暮らしている。
 それでは寂しかろうと、彼が戻るタイミングに合わせて風息が一部屋借りるようになったのだ。

 いい加減一緒に住んでもいいのではないかとも思うのだけれど、彼の家に勝手に上がるという体験のこそばゆさもなかなか捨てがたい。
 それに、四六時中顔を合わせていて、喧嘩が多発しないかという不安も拭いきれないのだ。

 彼への愛情は嘘偽りないものだが、あまり性格の相性がいいとは思っていない。
 諍いが生じることだってしばしばあるし、それでよくもまあ関係が続くものだと言われることもあった。
 それでも彼の恋人の座を誰かに明け渡したくないのだから、恋とは不思議なものである。

 無限の家に上がって最初にとりかかるのは、あちこちの窓を開けての換気だ。
 人がいなくなると途端に埃臭くなる空気を入れ替えている間に、適当に買った食材と菓子を冷蔵庫に押し込む。
 つやつやした紙箱に入っている洋菓子は、この前無限が食べたがっていたものである。

 幸い天気が良かったので寝具を干してから、彼が読んでいたらしい本に手を伸ばす。

 物語を読み進めていくと、途中で栞が挟まれていたので少々考えて本を閉じた。
 ここから一気に読み切るには残りページが多すぎたように思えたから、おそらく以降は未読なのだろう。
 多分無限は気にしないだろうが、買った人よりも先に読み切ってしまうのは気が引ける。

 ちょうどいい時間だったので、料理の下拵えをしているうちにインターフォンが鳴らされた。
 普段より値の張る服を着ている手前汚すのが嫌で使っていたエプロンを脱いで、風息は玄関に向かう。
 家主である無限が鍵を持っていて、勝手に入ってくるのは承知の上で出迎えてやりたかった。

「おかえり」
「ただいま」

 靴を脱いで上がってくる無限の姿を見て、ああ無事に帰ってきたんだな、と実感する。
 彼ほどの実力者が大怪我をして帰ってくることなんてほぼほぼないのは分かっているが、基本的に無限の仕事は荒事だから案じてしまうのも仕方がない。

「今日は早く帰ってきたからご褒美がある」

 え、と期待の交じる無限の声を聞きながら冷蔵庫に洋菓子を取りに行って、箱ごと持って行くと無限が目を丸くした。
 無限が風息に会いに来る際に菓子を持参することは多いが、その逆は早々ないから意外だったのかもしれない。

「これ、前話していたケーキ?」
「ああー……もしかしてもう食った後だった?」

 物のあたりまでついているのに、盛り上がり切らない質問に急に雲行の悪さを感じてしまった。
 口に合わないものでない限り、一度食べたくらいで飽きる質ではないはずだが、新鮮味は失せてしまっているだろう。

「いや、そうじゃない。嬉しいよ。ただ、ちょっと違うことを期待していて」

 思ったより萎れた声が出てしまったのに自分でも驚いたが、無限はそれ以上の驚きだったらしい。
 取り繕うように慌てて口にして、それから躊躇いがあったのかゆっくりと口を閉じ、風息からわずかに視線を逸らす。

「こう、恋人らしく抱き締めてくれるとか……
「なんだ、それくらい」

 もったいぶった様子だったせいで、ハードルの高い要求が飛び出すのではないかと身構えていた。
 だから正直肩透かしだという感想を抱いたのだが、十分ハードルが高いのではなかろうかと思い直す。

 無限から抱き締められることはよくあって、今更恥ずかしがることでもない。
 が、自分から脈絡もなく抱き締めるなんてこと今まであっただろうか。
 自身の記憶を掘り返してみるが、それらしい記憶はどこにもない。

 だってそんな恥ずかしいこと。
 それに、無限からの抱擁で十分に満たされてしまっていたから、抱き締めようという気持ちにならなかったのだ。

 愛する人の腕に閉じ込められる感触の幸福を風息は知っている。
 知っていて、ずっと恋人に与えていなかったのだ。
 そう考えると、とてもひどい行いのようにも思える。
 あとで謝らなければいけないかもしれない。

「それくらい?」

 普段から平坦な調子の声ではあるが、その表面の奥にある感情の動きが分かってしまうくらいには風息は無限と共にいる。
 無限からの期待をひしひしと感じながら、風息は手にしていた洋菓子の箱をテーブルに置いた。

 それから一つ大きく深呼吸をして、覚悟を決めようと努める。
 そりゃあ、風息だってしばらく会えなかった恋人が早く帰ってきてくれたのはとても嬉しいのだ。
 その気持ちをこの手土産に込めたつもりだったが、本人が他のものを欲していて、叶えられるものなら応えてやりたい。

 己の気持ちを確認していくにつれ、鼓動が強くなって体温が上がっていくのが分かる。
 頬に熱が集まってしまう前にしてしまおうと決めて、風息は無限の前に立ってぎこちなく腕を広げた。

 その仕草を見た無限が口元を緩めたのを見えなくするために、風息は思い切って知らない街の匂いのする男の身体を抱き留めた。