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シノハラ
2025-11-05 00:17:44
76995文字
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無風
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无风短編まとめ
全部全年齢です
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无风ワンドロ・ワンライ夏 「汗」「お昼寝」「ただいま」 より
四百年以上生きていようが暑いものは暑い。
ここ十何年かの間に、地球は加速度的に気温を上げているらしい。
土地によっては夏が来るたびに乾燥から山火事が起き、人間の手で制御がしきれず広大な土地を焼かせてしまう。
温度の上昇は大気だけではなく水中にも及び、海面の上昇の原因にもなっているのだとか。
地球は十万年程の周期で寒冷化と温暖化を繰り返している。
現在は短期的に見ると急激な温暖化傾向にあるものの、周期としては依然寒冷に位置しているとのことだ。
その周期に人間は関与してしまっている可能性が極めて高く、主に経済活動における改善が昨今求められている。
とはいえ、さしもの無限も惑星規模の時の流れの前には塵芥同様で、学者の論説を実感として感じ取るのは難しい。
無限に分かるのは最近は特に夏場の気温が高く、今日は格別酷いことくらいである。
髪の毛で吸い切れなかった汗が首から服の内側に滑り込む感触がして、汗を拭くためだけのタオルを持ってこなかったのを後悔する。
少々考えてから、もう手を拭くために使う機会もあるまいと、無限はハンカチで首筋と額を拭った。
肌に汗が滲む不快感が少しだけましにはなったものの、焼け石に水には違いない。
少しでも日陰になる場所を歩きながら、無限は家までの道のりを考えないようにしていた。
なるべく他所事を考えながら、機械的に足を動かす。
それでもふとした瞬間に、どうして日が落ちるまで館の所有するビルに留まらなかったのかと後悔が湧いた。
ここが龍游である時点で、その選択を無限が選べるはずもないのも当然ではあるのだが。
「ただいま」
空調の効いていない建物のエレベーターと廊下を歩いているうちに、またどっと汗をかいた。
すぐさま冷水のシャワーを浴びなければやっていられないと思いながら玄関をくぐり、覇気のない声を上げる。
これでは風息が居間にいたとしても、扉を一枚隔てた先にまで声は届いていないだろう。
靴を脱ぎ散らかしたままにしたくなるのを堪えて揃えてから、無限は居間に続くドアノブに手をかける。
この先に行けば、いままでの空気が孕む温度など思い出せないような空間が広がっている。
そのはずだった。
「
……
風息、いないのか?」
戸を開けると、果たしてそこにあったのは廊下よりも熱く、重たいようなぼんやりしたような雰囲気のある空気だった。
二人で選んだ賃貸の居間は西向きで、昼過ぎになると太陽の影響を強く受けるようになっている。
とはいえ、この部屋には文明の利器があるはずで、その力を借りればこんな事になっているはずがない。
可能性としては風息が寝室に引っ込んでいるか、そもそもこの家にいないかになる。
ただ、少なくとも夏場によく使っているサンダルは玄関に置いたままだったように記憶していた。
嫌な予感に息を潜めながら、無限は静かに居間に入る。
台所には気配がない。
居間での彼の定位置は、二人掛けのソファの右端だ。
そちらの脇には雑誌が入れられるようになっていて、彼の関心がある雑誌の最新号が差してある。
こういう予感に限って良く当たるのはどうしてなのだろう。
二人掛けのソファには風息の紫色の髪が広がっていた。
ひじ掛けに額を押し付け、もう片方のひじ掛けに足を投げ出している。
だらりと下がった腕が緩くではあるが無理な方向に曲がって、力の入っていない手の甲が床に影を落としていた。
「
……
風息!」
名を呼んでもぴくりとも動かない。
ソファの前に膝を突くと、彼の額にじっとりと汗が浮かんでいるのが分かる。
あまり汗をかかない印象の強い頬にも汗が滲んでいたのか、癖の強い髪がべったりと張り付いていた。
こんな時に体を揺らして良いのかと疑問が浮かんだのは、堪らず肩を揺さぶってからだった。
肩が集めた熱量にぞっとしながら、無限は風息に再び呼びかける。
「ん
……
」
三度目の呼びかけにようやく風息が微かに喉を鳴らした。
それから瞼を震わせてぐっと腕を伸ばそうとしてから、ひじ掛けが邪魔な事に気がついたらしい。
すっと上体を持ち上げて、それはそれは気持ちよさそうにぎゅっと腕を伸ばして背筋を反らす。
んん、と肺から押し出される声も、心地よさを表明していた。
「風息、体は大丈夫? 気分が悪いとか、頭が痛いとかはないか?」
真夏の窓しか開いていないような部屋で眠っていたとは思えない寝起きの仕草だが、感覚が鈍っているのが理由とも限らない。
矢継ぎ早に問い掛けると、風息はぱちくりと瞬きをした。
「おかえり」
「ただいま。でも今はそうじゃなくて」
「
……
おはよう?」
「おはよう。そうでもなくて、体に変なところは?」
ぐっすり眠っていたところを起こされて、訊ねられた事をいまいち把握できていないらしい。
とりあえず自分がするべき挨拶を探しはじめて、熱さで認知能力が下がってきているのではないかと心配になってくる。
「ああ。あー
……
ええと、無限。妖精は熱中症にはならない」
無限の耳辺りから汗が雫になって顎に滑るのを見た風息がようやく状況を理解したらしく、俄かに縮めた瞳孔をすぐに瞼の奥に隠してしまう。
それから少々悩まし気な声を上げて、思いもしなかった知識を披露された。
え、と思わず声を上げると、嘘じゃないぞ、と念押しされてしまう。
これだけ汗をかいて、体に熱を溜め込んでいるというのにそんな事があり得るのだろうか。
俄かには信じられず、無限は風息に疑念の混ざる視線を投げかけてしまった。
けれど、冬場でも半袖シャツに素足でベランダに出て平然としている彼なので、夏場も似たようなものなのかもしれない。
汗をかきながら眠るのが快適かどうかは知らないが、冬の強烈な寒さも不快に思わないと言うのだから、暑さに対しても同じ感想である可能性もある。
とにかく、彼が言うには命に別状はないらしい。
その事実に少々落ち着いて、ようやく心臓が馬鹿みたいに跳ねている事に気がついた。
「知らなかったか? 小黒も大丈夫だっただろう」
「いや
……
人間の子供と同じ対応をしていたから、それで防げていたのかと」
その事実を知っていたとしても、無限は小黒に帽子を被せ、頻繁に水を飲ませていただろう。
小黒は小さな頃から人間の世界に溶け込んで生活しているからか、夏の暑さと冬の寒さを不快なものだと認識している。
そんな子に対して対策を講じないなんて、少なくとも無限には考えられなかった。
無限の返事を聞いた風息がふふ、と喉を震わせる。
その声には呆れや嘲笑の気配は感じられなかった。
目尻を緩く下げ、妙な角度になっていた肘を少し気にしながら、風息が無限に手を伸ばす。
その手のひらを受け入れると、頭の側面をくしゃりと撫でられた。
「大事に育ててくれたんだな」
無限と小黒の日々を慈しむように、無限が小黒に注いだ苦労とも言えないような苦労を労るように、風息は両の手で無限の頭を撫でた。
きっとかつての風息は自身の下で小黒を育て上げるつもりだったのだろう。
結局それを肩代わりする形になった無限の動向を気にした事もあったのかもしれない。
「はは、お前もべたべただ。そっちこそ熱中症になったりしないよな?」
頭を撫でるのに満足したのか、しばらくしてから風息は無限の頬に手のひらを移した。
滑りの良くない皮膚の感触に小さく笑って、頭痛は、なんて聞いてくる。
「このままじゃ危ないかも。とりあえず水を取って来るけどあなたもいる?」
「ああ、頼む。喉はさすがに乾いた」
ふわりとあくびをする風息をソファに置いて、無限は台所に向かう前に掃き出しの窓を閉めに行く。
温まった鍵を締めてから、テーブルに置いてあったエアコンの電源を入れた。
電子音が鳴るとすぐに風が吹き始めて、ようやく体の緊張が緩む心地がする。
お互いたっぷり水を飲んだら、水風呂にでも入ろうと提案してみよう。
それから、無限の心臓のためにも寝るときくらい冷房を付けるように要請もしたい。
いくら彼らに命の危険がないと分かっていても、どうしても自分の尺度で測ってしまって吃驚してしまうのは火を見るも明らかだった。
そんな事を考えながら台所に姿を隠して、ふと無限は自身の髪に触れた風息の手のひらを思い出す。
あんな風に頭を撫でられながら褒められるのは一体どれだけぶりだろう。
遥か昔の記憶を辿りながら、風息の軌跡をなぞるように無限は自らの髪に触れた。
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