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シノハラ
2025-11-05 00:17:44
76995文字
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無風
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无风短編まとめ
全部全年齢です
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三十一日目の恋人
日付が変わった瞬間に彼はやってくる。
呼び鈴に応じて待っていましたと迎え入れれば、扉が閉じるのに合わせて紫色の目を細めて抱き着いてくるのだ。
愛らしい恋人の反応に口元を緩めながら抱き締め返すと、ほどなく風息が顔を上げるので唇を合わせる。
しばらくは表面を合わせて啄むだけを繰り返し、それで満足できなくなると口づけを深くする。
軽やかな髪を愛しながら風息の身体にうまく力が入らなくなるまでしつこく口づけて、彼が音を上げるのを待ってからベッドに連れて行くのが常だった。
彼は無限との性交には協力的だったが、時間をかけて我を忘れさせられるまで抱かれるのを嫌っていた。
過ぎた快楽を好まないという話ではなく、今日という日を寝潰してしまうのは惜しいと言われてしまえば無理を強いられるはずもない。
行為の後は風呂に浸かってから、しばらくベッドで話し込んで眠気が来たところで早朝まで二人で眠る。
世界が目覚め切る前に眠気の抜けない体を起こし二人で散策に出て、早くからやっている屋台で適当に一日分の食事を見繕って部屋に戻る。
あとはただ誰にも見咎められぬよう、二人でひっそりと寄り添って日付が変わるまで過ごすのだ。
それがここ数十年の四月一日の暮らし方だった。
風息との縁が始まったのは確か一世紀ほど前からだった。
何年かに一度顔を合わせれば良い方、という程度の関係だったが会えば楽しくやっていた。
最後に龍游で彼に会ったのは、人間が近代的な開発に着手する前だったはずだ。
それでも、何だか最近騒がしくて、とちょっと困ったように漏らしていたのを覚えている。
個人的な縁だったから、館も無限と風息の関係は把握していない。
だからなのか、風息が引き起こした騒動について無限が聞き及んだのは事態が収束して半年が過ぎてからだった。
当時、館は風息の動向を掴んでおり、何度か接触を試みようとしていたらしい。
その情報を引き出して、無限は風息の元を訪ねたのだ。
春先の熱が残った温い空気を感じる、日が暮れてすぐの出来事だった。
執行人が何の用だ、と警戒する風息の姿を見ながら、無限は愚人節というのがあって、と口にした。
全く噛み合わない会話に毒気を抜かれたらしい風息に、自分が知っている彼と今の彼は何ら変わりがないと確信を抱く。
それくらい知っていると告げた風息に、なら話は早いと、実は私はただの人間で力の一つも使えない、と真面目腐った調子で返した。
風息は一瞬目を丸くしてから、まだ少年の顔立ちだった頃とそっくりな笑い方をして、じゃあ幾つなんだよ、と愉快そうに訊ねて来たのだったか。
二十五歳、と適当に答えながら、その頃はまさかこんな時代まで自分が生きるとは露とも思わなかったことを思い出す。
二十五、とくふくふと風息が反芻したあと、じゃあ、と風息が無限に呼びかける。
ただの二十五の人間が俺に何の用、と無限に訊ねる風息の声には隠し切れないのか、それとも隠すつもりもないのか期待が潜んでいるのが分かった。
それから二人で、日付が変わるまで酒を飲んでくだらない話をして過ごしたのだ。
別れ際に来年はこの町で過ごすつもりだと風息に告げれば、今度は彼が無限の元にやってきた。
本当は俺は十八の人間で、と嘯いてきたので、それだと酒は飲ませられないなと深刻な声で返してやれば、即座に年齢を訂正された。
たしか、二十一だと言ったんだったか。
無限が来年暮らす街を告げ、半月程休みを館からもらいその街にいる間に風息が無限の暮らす部屋を探し出して会いに来る。
館に与する執行人としては全く褒められた行動でないのは理解していたが、どうしても彼との縁を切りたくなかったのだ。
それは単純な彼への好感からの動機ではない。
これから人間という種に失望を重ねるだろう風息に、種と個を一緒くたにしてほしくないという思いがあったのだ。
どれだけ人間が他の種に対して悪しきものと思えたとしても、個々人との穏やかな交流は確かにあったと覚えていてほしかった。
それを思い返す引き金になるのが自分であればいいと、そう願ってやまなかった。
それが反って風息を苦しませることになったとしても、なくしてほしくないと思うのは無限のわがままだ。
そんな関係が十年近く続いた頃だったろうか。
丸一日飲んだくれても足りるだろうという量の酒とつまみを持参して部屋で飲もうと提案した風息は、したたかに酔ってから不意に無限と唇を重ねようとした。
突然のことに硬直してしまった無限の膝に乗って、もそもそと服を脱ぎながら嫌なら早いうちに嫌がってくれと囁く。
困ったことに全くそんな気持ちにはなれないでいると、本当にいいのか、と不安そうに確かめられたのを覚えている。
二人で高めあっている最中にぽろぽろと意味のない音を落とすのに紛れて、すき、と風息が無限の目を見ずに口にした。
震えて破れかぶれな調子のある告白が信じられないくらいに美しく無限に届いて、その煌めきが風息の思いだけで彩られているのではないと理解する。
彼の名を呼んで、無限を見させてからもう一度と愛をねだる。
潤んだ目は快楽のせいだったのか、無限の無体な要求で生じた恥のせいだったのかは今でも分からない。
全て終わってから自分からも愛情を伝えれば、そういうのはすぐに返事をしろと叱られた。
言われてみれば頷くだけでは返事としては足りなかったかもしれない。
気持ちを認めて貰って相手をしてもらえただけで十分だと言い聞かせていたところだったと風息が言い出して、慌てて謝罪したのを覚えている。
ちなみに、風息が持ち込んだ酒の類は大分余ってしまい、処理をするのに随分難儀したはずだった。
そうやって、年に一度だけ会うひとが年に一度だけ会う恋人に変わったのはおおよそ三十年ほど前のことだったか。
無限はぼんやりとかつての日々を思い出しながら、音も立てずに動き続ける時計の秒針を眺めていた。
いつも通り去年に伝えた街に二週間前から暮らしていて、あと二分ほどで恋人が訪ねてくる時間になる。
共に二つの季節を過ごした小黒は、今まで自分とこんなにも長い時間ひとところで過ごしたことがなかったからか、少し飽きが来ているようだった。
今まで毎日あれやこれやと新しい体験をさせすぎたのかもしれないが、今までの小黒が何も知らなさ過ぎたとも思えるので匙加減が悩ましい。
全ての針が時計のてっぺんを指してから、五秒、十秒と経っても何も聞こえて来ない。
一分を過ぎたところでベッドのスプリングを鳴らさないように注意しながら起き上がり、無限は入口に向かった。
ドアの前で一度深く呼吸をしてから、ドアノブを回して押し開ける。
その先に煌々と光るホテルの明かりに照らされて、無限を待つひとはいなかった。
ただ、深夜に相応しい息のつまるような静寂が横たわっている。
当然だ。
分かっている。
風息は生まれ故郷で眠りに就いて、もうどこにもいないことくらい。
分かっていたはずだった。
そのはずだったのだ。
風息、と微かな声で彼を呼ぶ声は酷く震えている。
扉を閉じた途端に涙が視界を滲ませるのが分かって、無限は指を握りこみながら間違っても声を上げてしまわないように息を殺した。
風息は、誰にも知られないまま密かに心を交わすこともあった無限の愛しいひとはもういない。
そんな簡単なことが、無限にはずっと分からなかったのだ。
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