シノハラ
2025-11-05 00:17:44
76995文字
Public 無風
 

无风短編まとめ

全部全年齢です


しかれども星は巡る
 ※同人誌の『おわかれに向けて』の後日談です。
 本を読まなくても「お互いがお互いを一番にしなくても一緒にいられる世界が来たらその時はまた話をしよう」と約束をして二人がお別れしていることが分かっていれば読めると思われます。

 世界は巡る。
 大きな流れはもう誰にも止めることは叶わない。

 あれから世界は様変わりした。
 天候の変動を切っ掛けに大地はやせ細り、最初は怒りによって争いが拡大した。
 そしてそれは資源を巡るものに変わり、今は小規模な集団同士が今日の糧のために争っている。

 世界は、少なくとも人類が謳歌した世界というものは滅ぶのだろう。
 誰もがその未来を予期しながらも、誰も止めることができなかった。
 今無限がこうやって生きて行けるのは、館が優先的に資材を回してくれているからに他ならない。

 風息が指摘するまでもなく、人間という種は長く繁栄するには破壊の性質が強すぎたのだ。
 人間が全く自らに巣食う性質に抗わなかったわけではない。
 けれど、どうすることもできなかった。

「久しぶりだな、無限」

 風息、と呼ぶ自分の声が掠れたのは、最近誰かに喋りかける機会がなかったからだ。
 援助を受ける関係で人間のコミュニティに根付くわけにも行かず、無限は集落から離れた場所にある木々に喰われつつある廃墟で一人暮らしていた。

 妖精達もこの状況では自衛に奔走するしかないらしく、他の執行人が顔を出しに来る余裕もないようだった。
 もちろん要請があれば無限も助力するが、彼らが必要としているのはもはや闘争のための力ではない。
 そうなれば、無限がわざわざ駆り出される機会も自然減っていた。

「あなたがこんな所まで来させる余裕が館にあるのか?」
「いや、ない。ないが必要だ」

 嫌味っぽく響いた問いかけを気にした様子もなく風息が答えて、ますます分からなくなって無限は首を傾げてしまった。
 風息はとある大国がその身を一つに保てなくなった頃から、館に積極的に関わるようになっていた。
 ちょうど、結果的に無限が館の運営から距離を置き出した頃に一致する。

「領界を展開する」

 風息が持ち込んでいた飲み物で喉を潤そうとした無限の手が止まる。
 それはかつての、実現するにはあまりに多くの犠牲を伴う彼の夢だった。

「術者の協力を得て、習熟度も十分だ。俺が龍游で展開したものとは規模は比べ物にならない。そこに妖精を集めて、妖精は一度ここから引き上げる」

 いいから飲めよ、別に悪いものなんて入ってないなんて言う風息に、そういう懸念はなかったと言い訳をしながらコップに口をつける。
 雑味のない水なんてものは、もう人間にはなかなか手の届かないものになってしまっていた。
 人間には手がつけられなくなった森というものはいくらでも存在するが、汚染が進んでいない場所まで進む技術を持つ者は極少数だ。

「今の人間達であれば、異変に気がついても何もできないだろう。ひょっとしたら、それを異変とすら認識できないかもしれない。だったら、段階的に妖精を呼んでも問題は起きないはずだ。荒野と化した地域を選べば、人間達に不利益を齎しようもない」

 風息も水に口をつけて、それから真っすぐな視線を無限に向ける。
 その瞳はあの日から何一つ変わっておらず、その色を保ち続けられた事実に無限は感服してしまう。
 あの日無限が夢想したように、彼の魂の欠片はまだ龍游の地にあるのだろうか。

「あの時のように懸念するべき事はもう何もない」

 風息の言う通りだ。
 人間にはもはや他の種族と対立するほどの能力など残っておらず、不審な事があったとしても実害がなければ目を背けて今日を生き延びる選択をするしかない。
 よしんば実害があったとしても、もはや人間には堪え忍ぶ他に選択肢はないとも言えるのだが。

「人間は領界には入れない。執行人――無限、あんたもだ」

 決心をするまでの時間とでも言うように、ゆっくり息を吸ってから風息が口にした。
 館の判断は理解できる。
 領界に人間を入れて、中で増えられてしまえば厄介だ。
 地球とは違って絶対的な支配者がいるとはいえ、ほころびを作らないには越したことはない。

……人間を守ることも、多分できた」
「そんな義理はあなた達にはないはずだ」

 自然と共にあらねば生きていけない妖精もいれば、環境に左右されない妖精も存在する。
 前者は既に有力者の霊域に退避しているが、後者は人間の指導者として残ることもできるだろう。
 かつてはそういう国もあったのだし、今も小規模ながらその体制を保つ集落もあるのかもしれない。

 けれどそもそも、妖精の生活を守れなかった人間達に妖精が手を貸す義理などどこにもないはずだ。

……そう。そう割り切れたら良かったよな」

 かつて風息は人間という種を危惧しながらそれでも小黒に伝えた通り、人々を嫌っていたわけではなかった。
 人間は既に制裁を受けたと静かな声で彼は言う。
 妖精が代行するまでもなく、大地が人間達に牙を剥いた結果が今なのだ。

「人間がやりすぎないよう俺達が監視して、そうやって暮らしていけば案外上手く回るんじゃないかとも思うんだ」

 自然の成長ペースに合わせて人口を管理し続ければ、おそらく人間は穏やかに生きていけるだろう。
 妖精という超常的な力に頼り、技術の発展の芽を摘みながら、現状維持に注力させる。
 そうすれば、人間は自然と生きていけるはずだ。

 夢物語めいた展望にも思えるが、今の人間の規模と妖精の能力を思えば鼻で笑えるものでもない。
 厳密な管理体制を敷けば、やってできないものでないと無限も思う。

「でも、俺達が人間に対して息を潜めて暮らしていたのと何が違う? きっと俺達が助けた代は俺達に感謝して、満足して暮らして行くかもしれない。だが、そいつらの子供や孫はどうなる? 自分達がしたい事も、できる事もできずに我慢して、俺達の目を気にして暮らしていく事になる」

 途端に口早になる風息は、人間達に降りかかるだろう境遇をかつての自身を重ねているようだった。
 苦痛と喪失の日々を思い出したのか、ぎゅっと眉間に皺を刻んで、一度下げかかってしまった視線を無限に向ける。

「それでも命があれば良いなんて、やっぱり俺は、どうしても思えない」

 あの時の彼は復讐がしたいわけではなかった。
 今の彼もまたそうなのだ。
 人間に手出ししないことで、彼らの未来を守ろうとしている。

……この世界でも人間は生き延びる。きっと完全に滅びはしない。またいつか、環境が戻ったときに自由にやればいい」

 願いを込めるような響きが廃墟の中に広がって、帳が下りるように静まり返る。
 風息だって、この環境の中で人類の大半が死滅することは分かっているだろう。
 その犠牲を理解しながらも、彼は人間に自由を与える方を選んだ。

「そう上手く行くだろうか」

 ぽつりと呟いた声は思った以上に深刻になってしまったが、致し方あるまい。
 同じ種族が急速に数を減らす状況を肌で感じながら、助けはどこからも来ないと分かってしまって消沈しないはずもないだろう。
 いつか一人きりになる日がくるのではないか。
 漠然と抱いていた不安感が、今現実として無限の前に立ちはだかっている。

「人間は滅びない。そもそもあんたみたいなのがいるからな」
「私はもうずっと前から自分が妖精に近い存在だと思っているけど」

 屁理屈、と風息は少し笑って、いつの間にか空になっていたコップを脇に置いて後ろ手に手を突く。
 無限も倣って水を飲み乾して、コップを手から離した。
 それから、もしも、と口にして一度言葉を切る。

……もしも、人間が生き延びたら、同じ事の繰り返しになるんじゃないか」

 長い長い時間をかけ、ある一点に達した瞬間に人間達は急速に技術を発展させ、自らが生み出した力を最後まで制御しきれなかった。
 自分達は一つ一つ得たものを失いながら生きている。
 たとえば今、良質な鉄を精錬できる技術を持つ者は一体どれだけいるだろうか。
 そう考えたときのやる瀬のなさは、多分風息が感じたものに似ている。

 そうして全てを失っても、また数が増えて行けば人間はいつか同じ水準まで技術力をつけて行けるかもしれない。
 その力は再び自然を喰らい、犠牲の上に人類を繁栄に導くだろう。

「その時は多分今回よりはもっと上手にできるはずだ。俺達は二回目で、やるべき事とやらなくて良かった事くらいは分かるようになってる」

 きっと全てが上手くいくわけではない。
 想定しなかった事だってたくさん起こるだろう、と風息は言う。
 それでも、きっと違う結末が迎えられるはずだと、風息は信じているようだった。

「無限、あんたに頼みがある」
「あなたの願いであればなんだって」

 真剣な声に答えると、随分と安請け合いをすると風息が笑った。
 あの時からずっとそうだよと言葉を重ねれば、風息が途端に目を丸くして笑みを引っ込めた。
 彼にも無限が言わんとすることについて思い当たる節があったのだろう。
 なら安心だと、種類の異なる笑みを風息が口元に浮かべた。

 それから彼は、もしも、と舌を繰る。

「もしも、俺が上手くやるために人間に無理を強いるような事があれば、その時は無限、あんたが止めてくれ」

 一回やってるんだ、お手の物だろう。
 なんて少し茶化すのを聞きながら、無限はすぐさま頷いた。
 それを見て、風息は満足そうに目を細めて小さな声で礼を告げてくる。

「さて、ここからが本題なんだが」
「え」

 手で床を押して反動をつけた風息が胡坐をかいて緩く背を丸める。
 声の調子も少し砕けて、がらりと様子を変えた風息について行けず、無限は間の抜けた声を上げてしまった。

「えってなんだよ。あんた今の状況分かってるのか? 俺達がみんな領界に引っ込んで、あんた達を置き去りにするって言ってるんだぞ?」
「ああそうだった」
「そうだったってあんたな」

 あんたにとってはそれが一番大事なことだろうにと呆れたようにぼやかれたが、自分の生まれの種族の行いを思えばそうなるのは道理だと思っていた。
 今まで無限がのうのうと生き長らえられていたのも、館の善意があったからに他ならない。
 来るべき時がようやく来たのだと、納得できてしまっていたのだ。

 無限が理不尽をそのまま飲み込もうとしていると思い込んだのか、風息は僅かに苛立ちを覚えたようだった。
 俺達がいらなくなったって簡単に捨てるような奴らだと思われるのは腹立たしい、と彼は唸る。

「それに、何も館はあんたらを無用の長物だと思っている訳じゃない。あんたには大地の観測を手伝って欲しいんだ。俺達はいつかまたここに戻ってくる。その日を知るためには、継続的に外がどうなっているか知る必要があると思ってる。その拠点にあんたにはいてほしいんだ。そうすれば、生きるに足る物資は渡せる。協力してくれるか」
「もちろん」

 自分達が生きて行くために理由を作ってくれているのだと、少なくとも無限は感じた。
 彼らが大地に戻ってくるのは本当だろうが、観測の仕方はいくらでもあるはずだ。
 拠点を作って常時観測をしなくても、おそらく十分なはずなのだ。

 それでも彼らはそのために人間の執行人が必要だと判断した。
 ひょっとしたら、人を絶やさないという願いは風息一人だけのものではないのかもしれない。

 荒れ果てて、人間はおろか多くの生き物が消え失せた大地に戻り、妖精達は少しずつ大地を癒していくのだろう。
 それがどれだけの困難を孕んでいたとしても、彼らはそうしなければならない。

 いくら広大な土地を有することになったとしても、意図的に隔絶された空間にひとが長く拘束されることはリスクに繋がる。
 当初は統制が取れていた集団もどこかから綻びが生じ、いつかは解けてしまうものだ。
 その危険から逃れるためには、人為的に制限された空間から逃れる他に方法はない。

 妖精達が再び大地に戻り、大地がかつての姿を取り戻した遠い未来で。
 自分達は、妖精と人間は共に歩む日が来るのだろうか。
 今度こそ、そうあってほしいと無限は思う。

「これであなたと顔を合わせるのも最後かもしれないのか」

 ゆるりと肩の力を抜いて礼を言った風息の柔らかな表情に、無限はぽつりと寂しさを漏らしてしまった。
 あの日を最後に無限と風息は必要以上の接触を避けてきた。
 そんな事情もあって、こうやって二人で話し込むなんて百年以上なかった機会のはずだ。
 ひょっとしたらその次もあるのかもしれないが、遠い未来を待つことになるだろう。

 無限はずっと彼を愛してきた。
 ふつりと途絶えた関係の糸の荒々しい断面を撫でながら、小春の穏やかで少し寂しさのある温度に身を浸し続けている。
 それが風息も同じなのかは分からないが、少なくとも無限はずっとずっとそうやって生きてきた。

「いや、俺はこっちに残る」
「あなたが?」
「人間の執行人はそうはいないんだ。到底人員が足りなくなる。それにそのとりまとめは妖精がしないと、集めてもらった情報が持ち帰れないだろ。俺だけじゃなくて、執行人でこっちに残る奴は結構多いよ。小黒もそのつもりみたいだし」

 時間を作っては顔を出してくれる弟子の名が上がって、無限はぱちくりと瞬きをする。
 小黒を筆頭にその選択をする執行人が多いのであれば、ますます彼がこちらに居残る必要はないようにも思う。

――他ならぬあなたが望んだ世界だったろうに」

 何者にも縛られず、妖精が自由に生きられる世界の構築。
 そのために、かつての風息は禁忌を冒してまでも領界の展開を望んだはずだった。
 かつてと状況は違えど、この大地で妖精が暮らすのに制限がかかるのは今も昔も変わらない。

 人間が勝手に世界の均衡を取り返しの付かないくらいに崩してから、彼はずっとその日のために奔走していたはずだった。
 妖精のために、と望んだ妖精がそれを享受しようとしないなんて。

「そう、何はともあれ夢は叶ったんだ。もちろん、こんな叶え方をするつもりはなかったが、もう俺達の生活が人間に脅かされる事はない」

 自由にやれる、と零された音は少しの寂しさに心地よい疲労感を混ぜ込んだ響きをしている。
 それから風息は膝に手をついて、少々大儀そうに立ち上がった。
 どこかに行くのかと思ったが、彼は無限の正面で腰を下ろしたかっただけだったらしい。

「俺達はもうどこにいたっていい。だったら俺はここにいたい」

 無限が暮らす龍游はとっくの昔に人間に放棄されていたが、今も風息公園を中心に局所的な森が存在している。
 木々はコンクリートを砕き根を張り、建造物を食らいながらじわじわと広がってはいるようだった。

 しかしまだしっかりとした生態系は根付いておらず、かつての霊を支えにして緑があるだけだ。
 それだけでは人は生きて行けず、立ち入る者はいても無限のように暮らす者はいない。
 まだ歪な形をしている森を風息は観測拠点にするつもりなのだろう。

「もしかしたら、龍游が俺の知っている場所に戻るところを見られるかもしれない。俺が、故郷を元の姿に戻せるかもしれないんだ」

 森が産んだ妖精が森を育てる。
 かつては確かに存在し、いつしか断ち切られてしまった妖精と自然の循環だった。
 一度は故郷と微睡んだ彼が、故郷を起こす日が来る。
 あの時ですら望めなかった日々を取り戻せるかもしれない予感に、風息が声を揺らがせるのが無限にも分かった。

 この世界は風息が望んだものではない。
 彼は、人類の黄昏を願っていたわけではない。
 転がり落ちるように廃退した世界を尻目にしながら、彼が何を思っていたかは無限には検討もつかなかった。
 それでも彼が今の自分達を見て、ざまあみろと嘲けられるひとではないのは分かっている。

 憂いて、恨んで、憐れんで、焦って。
 それでも彼は諦めなかった。
 もう無限には何もなくなってしまったように見えるこの世界の先に、風息はたくさんの可能性を描いている。
 無限にはまだ見えてこない世界の姿も、彼といれば見つけられるのではないかと、そう思わせる。

 そして、何よりも無限は彼が龍游の風息として実像を結ぶ瞬間を目の当たりにしたかった。
 龍游を失った風息でも、故郷に魂の欠片を残して来た風息でもなく、ただ故郷と共にあるだけの風息に戻る日に無限は立ち会いたいと思うのだ。
 きっとそれは、あの時無限が風息を止められなければ永遠に失われてしまうものだっただろう。

 かつての風息は人の弱さを知らなかった。
 自分達が暮らしていた土地を奪った異物を彼らは徹底的に解析し、どうにもならないと分かれば排除しようとしただろう。
 人間は分からないものと共に平然と生きられるほど、肝の座った存在ではない。

 最悪周囲は跡形もなく破壊せしめられ、今なお人が立ち入れない地になっていた可能性がある。
 戦場となり汚染尽くされてしまった大地は人間どころか妖精すら近寄ることも叶わない。
 龍游がそうならない確証はどこにもなかった。

 今となってはそういう事も考えられるというだけで、無限もそんな危険性を考慮して彼と戦っていたわけではない。
 それでも、一つ一つが多重に折り重なって、今この未来が浮かび上がってきているのだ。
 良い事も悪い事も、そのすべての結実が今無限の目の前にあった。

 人のための世界は滅ぶ。
 けれど、それはこの星にとって大きな意味を持つ出来事ではない。
 この星はまだここにあるし、今日だって粛々と回り続けている。
 世界は確かにここにあるのだ。

 その、まだ誰のためにあるわけでもない世界に、彼は一歩ずつ足跡を遺して行くのだろう。
 今は土埃を擦るものでしかなかったとしても、それがいつの日か色鮮やかに染まればいい。
 新たに定義された世界が妖精の、欲をいえば彼らと共に人間が在る世界であればと無限は願う。

「それに、ここならあんたもいる。品定めってやつをさせてくれないか」
「品定め」
……忘れたんじゃないだろうな、あんた」

 他ならぬ無限が望んだことだ。
 忘れるはずがない。
 頭を振って否定するが、風息は眇めた目をすぐに戻すつもりはないようだった。

 彼が無限への思いを抱いたまま未来を歩もうとしてくれていたことを、どうしようもなく愛おしく感じる。
 彼はあの時自分もそうして欲しいと言っていたが、無限がやるべきことなどもう一つもない。
 その思いが変わらなかっただけで、無限にとっては十分だった。

「あなたのお眼鏡に叶う私であれていれば良いんだが」
「はは、あんたの自信がなさそうな顔見るの初めてかも」

 大丈夫だよきっと、色眼鏡はまだ健在だから。
 そう言って、風息が目を細める。
 その柔らかさに惹かれて彼の目尻に指の腹を当てると、今度は擽ったそうに瞼を落とした。

「みんなにも会いに行けるし、俺が何かを犠牲にしてあんたを選ぶって話でもない。あんたが気後れする必要はないよ。だから、だからさ」

 自分はもう何も我慢してはいないのだと風息は言う。
 彼はたくさんのものを失って、抑圧されて、それでも何一つ変わらなかった。
 きっとこれからもずっと、彼は彼のままであろうとする。
 それが彼にとって苦痛ではない日々が目の前にあるのだ。

 一呼吸を挟んでから意を決したように風息の視線が無限を射貫くものだから、無限も思わず居住まいを正してしまった。

「俺と来てくれないか」

 僅かに緊張が混じる声に無限は思わず顔を綻ばせる。
 こんな世界にあって自分を笑わせてくれるひとの手を取らない理由なんて、今の無限には存在しなかった。