退勤直前に鳴る携帯端末がもたらすのは、大抵の場合はろくでもない用事ばかりだ。セフィロスは液晶に表示された発信者の名前を見てため息をつき、焦らすようにしばらく鳴り止まないのを確認してから、嫌々ながらも通話ボタンを押した。
発信者は、ミッドガルを実質的に支配している大企業、神羅カンパニーのトップの男だった。当たり障りのない挨拶などは全て省略し、一秒でも惜しいというように一方的に要件を伝えられ、こちらが終話する前に通話は切られてしまう。自ら直々に依頼――そう言えば聞こえがいいが、実のところただの命令である――をされることが最高の栄誉だと信じて疑わないその尊大な振る舞いに、再度深いため息をついた。
『パトロンをしている女優の公演をお忍びで見に行くから、護衛として着いてきてくれ』
断る道理はいくらでも思いついたが、あの男が直にものを頼んでくるということは、端から拒否権など存在しないのと同義だった。ここでの押し問答は経験上無駄になることがわかりきっていたので、セフィロスは無言でその話を聞き、定時で退社することを早々に諦めた。端末を操作し必要な人員数と待機場所を自身の所属先へ伝え、通話を終えるとぐるりと首を回す。身体のメンテナンスは定期的に受けているものの、精神の疲労は隠せない。メンタルの不調は行動へも密接に関わることを知っているセフィロスは、そろそろ一日何もしない休みが必要だと機械的に考えた。
そもそも、要人警護はセフィロスの得意な仕事ではない。この都市では、どんな著名人よりも『神羅の英雄』の方が遥かに有名で、広く顔も割れている。己よりも目立つ軍人に護衛を頼むやつがあるか、と内心で毒づきながら、自らが指定した待機場所への移動を開始した。
優秀な社員の手によって集められた精鋭のメンバーたちを乗せた車は、本社ビルからほど近い劇場へと着いた。裏手にある特別入口から専用ロビーを抜け、プレジデントが愛人から贈られたという桟敷席へと向かう。絨毯の敷かれた絢爛な廊下には、美しい花瓶に活けられた生花が芳香を漂わせていた。かつてミッドガルは平凡な美しい平原だったらしいが、人の欲望は土と草木を覆い隠し、ただの花がここでは富の象徴になっている。
胸の悪くなる廊下を歩くうちに、プレジデントと合流する。彼の両脇を固めていた制服姿の兵士はセフィロスの姿を見ると静かに敬礼をし、その場を離れていった。
労いの挨拶などはない。ちらっとこちらを一瞥して、当然のような顔をしてプレジデントは歩みを進めていく。一般の兵士とソルジャーの違いなど、彼にとってはそう大した問題ではない。どうせ、市民の前へ顔を出すときに、横にセフィロスを連れていると箔が付くといった下らない理由で呼ばれたに決まっている。自身の権力の誇示に意欲的な男の考えそうなことだった。
桟敷席の中にはビロードの椅子が数脚置いてあり、ワインクーラーに刺さったワインは今まさに抜栓されたところだった。これも、今一番お気に入りだという愛人の意向だろう。セフィロスが冷ややかな目をしていることにも気づかず、プレジデントはワインを見て満足そうに目を細めどかりと椅子へ腰を下ろした。寄り添うように背後へ立つと、広い劇場内がよく見渡せる。
立ち位置がよくなかったのか、桟敷から姿を見せた思わぬ『有名人』に、劇場内に溢れる開演前の人々の囁き声が一層大きくなった。
(それ見たことか)
セフィロスは暗い気持ちで囁き合う人々を見下ろした。度胸のいい何人かは、堂々と指を指しながら突如現れた英雄の姿を確かめる。任務以外では滅多に大衆の前に出てこないセフィロスが軍服のまま劇場を訪れたことで、場内で低く交わされる会話によって瞬く間に情報は伝播していった。目論見通りのその様子に誇らしそうなプレジデントは、マネージャーらしき熟年の劇場スタッフが勧めるワインを、このあとも仕事があると片手を上げて慇懃無礼に断った。
プレジデントは今日、早めに片付いた仕事のあと、予定されていた会食の開始時刻までいくらか手の空く時間があることを知った。そこで、以前より招待を受けていた愛人の誘いに乗り、ついでに市民の文化活動の視察をするという『良きプレジデント・キャンペーン』の敢行に踏み切った。わざわざ指名でセフィロスを呼び出したのも、もちろんキャンペーンの一貫だった。眩い戦果をもたらした美しき英雄が自身の支配下にあると示したいというわけだ。
セフィロスは、神羅という巨大な組織を抱えながらも、いつまでも小物の器しか持ち得ないこの男が心底嫌いだった。神羅の有する軍だって、今や半数以上がセフィロスの活躍に憧れ英雄を夢見て入隊してきた者で占められている。そのことは別途セフィロスの憂鬱を誘ったが、プレジデントはそんなことには少しも頓着しないようだった。己の率いる組織に属した者は、全て彼の駒であると考えいる。
時折、湧き上がる不快感からこの男の首と胴を永遠に別れさせてやりたいような気になるが、そんなことをしても気が晴れないのもわかっている。ここまで育ってしまった組織は、トップを失ったところでその体質は変わらないだとうと思うと、実行する意義を見出だせなかった。
時間外労働の内訳は、神羅本社ビルから劇場までの移動、及び三幕で構成される公演の第一幕終了までの警護。休憩時間に、会食の開催される店までの護衛担当に引き継ぎをしようやく仕事を終えられる。超過勤務の対価は分単位できっちり請求するつもりで、舞台横に備え付けられたデジタル時計を見た。開演まで、あと七分。
人気劇団の公演とあって、場内の観客たちは銘々に着飾って、誰もが浮かれて興奮しているように見えた。セフィロスは桟敷の手すり越しに彼らを眺めながら、ちらちらと送られる無数の視線に辟易していた。
生来セフィロスは注目されることが苦手だ。とは言え、自身の人並み外れた体躯と容姿は嫌でも視線を集めるし、軍人として無比の強さを誇ることも衆目に晒される機会を増やす一方だった。ただそこにいるだけで、黙っていようがじっとしていようが、勝手に批評の的になる。観察されることなど幼少の頃より常だったにも関わらず、いつも逃げ出したい気になるのはなぜだろう。大抵の場合は逃げ出すことは許されないので、今回もまた、機械的に口の端を無理矢理つり上げ、微笑に見えなくもない表情を作る。あとは時間が経つのを待つだけだった。
ふと、舞台を挟んで反対側の桟敷席へ、見覚えのある顔がいるのを見つけた。スラムの顔役であるコルネオだった。神羅のトップと裏社会の顔役が同じ場所にいるとは、なんとも間抜けな話だった。しかし、利益には抜け目ないプレジデントが、単にあの悪党を野放しにしているわけがない。彼らの間に暗い癒着があるのは市民の目にも明らかであるから、いまさら話題になることでもなかった。
まるで観客へ見せつけるように、コルネオは情婦らしい連れの肩を抱き、その首元へ濁った色の舌を突き出して顔を寄せている。決して愉快とは言えないその光景を呆れながらも見ていると、しなだれかかっていた情婦が突然顔を上げてこちらを見た。
目が合った瞬間、ばちりと背中に電流が駆け抜ける。顔を強張らせて、セフィロスは自身の縦に裂けた独特な瞳孔が膨らむのを感じた。それは女ではなく、男だった。
あちこちへ跳ねた見事な金髪が開演を待つ場内の淡い照明を吸って鮮やかに光り、そこだけ発光しているように見える。絶妙なバランスで配置された顔のパーツは確かに男のそれであるが、創造主が全力を注ぎ入れたらしい繊細な造りは、中性的な印象を与えた。
歳の頃は十代後半か、二十歳そこそこだろうか。まだ若干のあどけなさを残し、少年と青年のどちらともつかない危うい過渡期を思わせた。意思の強そうな真っ直ぐな眉の下、瞳の色は南方の海を想起する不思議な青だった。
美しい顔が映えるよう誂えられているのは、グレーのスリーピーススーツにストライプ柄の入った同系色のネクタイ、ドレスシャツ。どれもぴたりと品良く肢体を包んでいる。爪先まで隙のない装いは、限りなく豪奢な生活を匂わせていた。人身売買の噂も絶えないコルネオのことだから、お気に入りの情夫を侍らせていても不思議ではなかったが、セフィロスはその若く美しい男から何故か目を離せなくなった。
二つほど瞬きする時間を見つめ合っていると、若い男はセフィロスを見たままにやりと微笑んだ。その表情は、よく知っている尊敬や憧れ、畏怖とはかけ離れた、睨むように挑発する笑い方だった。
(なんだ、あれは)
ほんの数秒にも満たない出来事だったが、気づくとその男の視線は外され、開演前のアナウンスが場内へ響き渡る。観客たちはすでに囁きを止めて、劇場は静寂に包まれていた。
徐々に客席の照明が落ちていき、舞台を覆っていた緞帳がゆっくりと上がる。それに合わせて、コルネオの桟敷のカーテンが、セフィロスから逃れるように閉じていった。深紅のカーテンの端を掴む男の白い指先が、するりと向こう側へ消えていった。
第一幕が終わると、二十分の休憩に入る。次の予定に向かうため、プレジデントはセフィロスを見もせずに「ご苦労」とため息混じりに呟いて、強張った腰や肩をさすりながら席を立った。
専用通路を来た通りに戻り、駐車場へ続く扉を開けると、既に会食会場への護衛の部隊が車を寄せて待機していた。プレジデントを乗せた車が行ってしまうと、やっと仕事を終えることができた。
携帯端末で時刻を確認すると、セフィロスは長い髪をかきあげて開放感から息を吐いた。後ろに控えている部下たちへ、本日の勤務時間が残っている者は帰社して報告書の作成、該当しない者は直帰と事務的に伝えてその場で解散してしまう。
疲労は頂点に達し、このまま帰ることすら億劫だった。部下の姿が見えなくなると、夕闇の中、セフィロスは踵を返してロビーへ戻ることにした。気力を取り戻すために一服したい。専用ロビーに配置されたバーカウンターを目指すため、再び屋内への扉へ手をかけた。
客席は八割程度埋まっていたように見えたが、一定以上のランクのチケットを所持した者しか立ち入れないロビーは人もまばらで、先客のいないバーカウンターへ近寄るとスタッフが待ち構えていたようにメニューを差し出してきた。
コーヒーを『会社持ち』で購入し、抽出時間を待つためにウェイティグスペースへ移動すると、背後から声をかけられた。
「ここで会うとは、珍しい」
物憂く首だけで振り返ると、今日は休みのはずの同僚が見慣れないスーツ姿で立っていた。
「ジェネシス。……ただの退屈な残業だ。ついさっき終わった」
不服そうに言ったのを気にする様子もなく、ジェネシスは隣に並んで持っていたフルートグラスを口に運んだ。淡い黄金色に透き通ったスパークリングワインが、薄く開かれた唇の中へ飲み込まれていく。
「労働意識が高いのは良いことだ」
全くそう思っていないであろう調子でジェネシスは言い、ある程度親密な者にしか読み取れないセフィロスの拗ねた顔を見て笑った。
「ほひ~! またボンボン買って、クラウドちゃんは食べるものもういの~!」
静かなロビーフロアを裂くように下品な声が耳へ届き、二人は揃って声のしたほうを向いた。やや離れたソファ席に腰を落ち着けているのは、コルネオとその情夫だった。あの男もこのロビーを使用できる席種だったらしく、セフィロスは一瞬だけ一服してから帰ると決めた自身の判断を悔やんだ。同じ空間にいるだけで気分が悪くなる。
声の主を見ていたかと思うと、予想外に明るい声でジェネシスが歌うように呟いた。
「椿姫も今日は来ていたのか。てっきり、お前が来ているから客席がざわついていたのかと思った」
「椿姫?」
「知らないのか。あそこでコルネオといちゃついている若い男だ。名前は、クラウド・ストライフ。芝居を観るのが趣味で、いつも彼の桟敷にはオペラグラスと、ボンボンと、椿の花が用意されている。そこからついたあだ名だ。彼を一晩好きにするのに何万という大金が必要だと言う、高級男娼だ」
中身が半分まで減った細いグラスを傾けてそちらを指し示すと、ジェネシスはさらに得意げに言った。男ながらに『姫』とは。セフィロスは表情を繕うのも忘れて、憐憫からくる苦笑を浮かべてしまった。
クラウドというその男は、確かに男にしては美しい顔をしていた。だが、セフィロスには情交に金をかけるという発想がなかった。もちろん世間には、そういった稼業で生計を立てている者がいることは知っているが、セフィロスの肩書へ群がる女たちはいつだって向こうから金を出すから子種をくれとでも言いそうな者ばかりだった。あの男は、相手が誰でも求められればいくばくかの金で脚を開くのだろうか。そんなことを考えた自分に気がつくと、途端につまらない気分になって、浮かんだ苦笑は瞬時に消え去ってしまった。
突発の護衛任務をこなしてから数日経ったあと、本社ビルの近くを訓練後のクールダウンを兼ねて目的もなく歩いていると、街中で珍しいものを見た。見事な毛艶のチョコボが繋がれたチョコボ車だった。
魔晄エネルギーで全てを支えられているこの都市では、人々は車や列車に移動手段を切り替えており、動物に頼る移動を好んで選択する者はほとんどいない。機能的な都会の街並みにチョコボ車の取り合わせはそう見かけないためついそのまま眺めていると、利口そうな顔をしたチョコボはゆったりと車道を歩いていき、ある洋菓子店の前で主を降ろすためにその足を止めた。
キャビンから小さなステップが伸ばされ、御者が恭しく扉を開けると、中から降りてきたのはあの日劇場で見た金髪の美青年だった。
昼の光の中で見るクラウドは、整った容姿をしているもののまるきり普通の青年だった。以前の着飾った衣装とは違い、身体の線を程よく見せるシンプルなデザインの黒いTシャツに、小ぶりな尻と長い脚を際立たせる細身の色の淡いデニムパンツ、よく磨かれ光沢を放つショートブーツを身に着けていた。左の耳朶には、シルバーの小さなピアスがきらめいている。艶やかな夜の気配を完全に消したクラウドはどこか清廉な雰囲気すら纏っており、通りの向かいにいるセフィロスには目もくれず、吸い込まれるように洋菓子店へ入っていった。
丁度進行方向にその店があるだけで、後を追いかけるわけではない。誰かへ向けてそう言い訳をしながら歩くのを再開すると、強化されたソルジャーの肉体へは、店内の声が漏れ聞こえてくる。昼下がりの洋菓子店は女性客で混雑しており、前触れもなく現れた美しい客へ向けて言葉を交わし合っているようだった。中にはクラウドの稼業を知っている者もいたらしく、露骨に嫌悪を表す単語が細切れに耳に入る。
その囁きが何なのかを知っていた。己が人前へ姿を見せたとき、人々は必ず何かを囁き合う。称賛から罵倒まで数多の言葉を浴びてきたが、それらが直接セフィロスに向けて放たれることはない。人々は異質な存在に大して感想を持ったとしても、それをこそこそと囁き交わすだけなのだ。目の前にいるセフィロスが、まるでいないかのように振る舞う。視線を注がれ話題に出しながらも、存在していないのと同じように無視をする。人と英雄と男娼と、その間には、埋められない確固とした隔たりがあった。
(俺もあれも、ある意味で同じような存在か。人々の好奇心をくすぐるだけの、都合の良い傀儡だ)
自嘲の気分に浸る前に思考を止めてしまうと、セフィロスはその場を離れることにした。二度と会うことはないと思っていたクラウドの美しさだけが、瞼の裏に焼き付いたようだった。
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