はるの
2023-09-19 21:11:09
162116文字
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空に心臓

+13|AOS spirk|2023.10.1|2023年の日本で暮らしているジムが、倒れていた迷子のヴァルカン人を拾う話。現代ものパロディです。

8.


 スポックは、ここのところずっと、タイムマシンの話をしていない。
 それどころか、戻らなければならない、という唯一の、彼の最優先事項を、生活の中で感じることがない。
 彼には大切な、元の世界があるはずなのだ。出会った頃のスポックが、あんなに取り乱すだけの、命をかけるほど大切にしている、彼の世界の人たちや、世界そのものが、あるはずなのに。
 ジムはいつだって、いつだって、こう尋ねたかった。
 ――君はもう、帰る気をなくしたの?
 けれどその問いは、やっぱり、どうしても、喉の奥につかえて出てこない。きっと、そんなわけないだろう、というあきれられた返答を、絶対に聞きたくないからだ。
 スポックが自分の世界のことを話題にしていない期間、つまりここのところずっと、ジムは懊悩を持て余していた。そうとは分からないように懸命にふるまっているものの、最近は息切れするような思いである。我慢できなくなってひとりで家を出てみても、結局は途方に暮れて天を仰ぐことが多かった。誰かの家の庭先でふくらんでいた花のつぼみが今日は開いていることや、低い位置にかかった月の赤さと大きさが素晴らしかったことや、ちょっと面白い店先の立て看板なんかを見つけたとき。スポックに話したい、とからっぽの隣を見つめてしまうから。
 今日は一番星の明るさを眺めて途方に暮れて、ジムはすごすごと帰ってきた。ただいま、と投げれば、おかえりなさい、とすぐさま返されたが、スポックは出かける前と同じ姿勢で、ラップトップにかじりついている。なんだかやたら熱心だな、と首を傾げながら、ジムはその手元を覗き込んでみた。
 座椅子とテーブルを潤沢に使用しているスポックは、もはや堂に入った態度である。ラップトップは相変わらずスポック専用機だったし、彼が愛用しているマグカップには夏でも温かいハーブティが淹れられていて、そばにはスポックしか使わないハンドクリームの缶があった。これに至るまでにいくつか試された過程で、ジムの両手もしっとりつるつるにした代物である。
 気配に顔を上げたスポックは、ごく自然にこちらを見上げてきた。もはや自分がヴァルカン人であることすら忘れ去っているのではないか、と疑ってしまうくらい、なじんだしぐさで。
「異星人が戸籍を取得する方法はあるのでしょうか」
 何気ない、のんきにすら見える上目遣いのスポックは、ふいにそんなことを言った。
「社会保障を受ける方法がないかを模索しています」
 真面目な口調で、まるで当たり前のように。彼はそう付け加えて補足すると、再び画面に向き直る。
 ディスプレイには、行政に関する調査結果がいくつものタブで並んでいた。
……ない、んじゃないかな」
「何らかの理由で戸籍が取得できなかったケースなどが」
「あっても。君は、だって。あのな、外国にいたってだけでも大変なんだぞ、国籍を取得するとか、戸籍を取得するとか」
「イケヤのケースですね」
「あ、そう……、知ってるんだ。じゃあ分かるだろ、たとえ君が異星人であることを開示したって、今の行政が何かしてくれるとは思えないよ。エイリアンの人権を保障してくれって、誰に話が通じると思う? それとも、パリでデモから始める?」
「ジム、私は冗談を言っているのではありません」
「だいたい、いきなり戸籍って。戸籍って……、何の、ために」
「ないと困るでしょう」
 スポックの、そのしれっとした返答に、ジムは空気を食んだ。
 どうして困るんだ、と叫び出しそうになって、拳を握る。社会保障を受けることで、君は何を担保したいんだ。君は、どうして、君は――
「海外に、行きたいとか? やっぱ偽造パスポートだな」
「犯罪行為はやめてください。海外にはもちろん、行ってみたいですが」
「じゃあ、密航だ」
「犯罪行為です」
「でも、スポックはしょうがないだろ。どうやったってパスポートは取れないんだ、スポックは何も悪くないのに。それなのに犯罪になっちゃう世の中のほうが間違ってるんだ」
「それでも、それが規則です」
 スポックは再びこちらを見上げると、少しだけ目を見張り、スムーズに立ち上がった。
 その分、ジムは1歩下がる。彼の顔をまともに見られなくて、ひたすらラップトップの画面を睨みつけた。
 ――俺だって、悪くない。
 そんな衝動に駆られて、ジムはぎゅっと唇を噛む。
 俺だって、悪くないはずだ。そうだろ? だって、どうやったって、スポックはもう、自分の世界には帰れないんだ。だったらそんなのあきらめて、俺と一緒にいたらいい。そんなふうに願うことが、どうして悪いことなんだ?
「ジム」
 スポックはゆっくりと、諭すような声音でささやいた。たぶん、気分を害しているように見えたのだろう。喧嘩してジムの機嫌が悪くなると、彼はこの声であやすようにすることがあった。そんな記憶を掘り返して、ジムは口をゆがめて笑う。
「なんだよ」
……私も、可能なら、そうしたいと思うのです」
「そう、って?」
「あなたが連れていくと言った、サンフランシスコの海へ、一緒に行きたい。ジム」
 ためらいながら、小さく差し出されたそんな希望に、ジムはとうとうスポックを見た。
 どこかすがるような、後ろめたいような、けれど前向きな意志のある双眸を、真正面から受け止める。
 途端、かっと血がのぼって、自分の中身がめちゃくちゃになる気配がした。それは、気づいたときには手遅れの、噴出するような激情だった。
「じゃあ、密航してくれる? どんなに悪いことをしても、俺と一緒にいてくれる? スポックは、これからもずっと、俺と一緒にいてくれる? 君がどこかに置いてきた、君の大切なものすべてと引き換えに、俺のほうを選んでくれる?」
 言っているうちに声が震えて、視界がじんわりにじんでいく。両目をこすって前を向くと、スポックは驚いた顔をしていた。彼がここまで分かりやすく瞠目するのは珍しいが、ジムはもうそれどころではない。血管が破裂しそうで、頭が爆発しそうだった。俺は何を言っているんだ、と自分の中の大半が叫んでいる。
 けれど、ずっと言いたかったことだった。
 同じだけ、言いたくなかったことだった。
 じっと、もはやねめつけるような強さで、スポックを凝視する。
 彼は、何かを発言しようと口を開けた。息を吸って、止めて。そのまま、しり込みするように逡巡して。
 結局、何の言葉にもならなかった吐息とともに、スポックの口は閉じられた。
 彼はやや困ったように、けれどいつもの無表情で、こちらを見つめてくる。その視線が、『言わずとも分かってほしい』と訴えているように見えて、そう見えてしまった瞬間、ジムは激昂した。
「なんにも分かりたくない! 俺は分かりたくないんだ、スポック! うんざりだ!」
 そう叫んで、踵を返す。周りをうろつかないと、腹の底から湧き上がる衝動を逃がしきれなかった。
「君が何も言わないなら、この話は終わりだ。俺は、何も要らない! いつかいなくなるくらいなら、最初からないほうがずっといい! 君は、ずっと、思わせぶりなことをして、戸籍だなんて! 俺をからかって楽しんでるのか? 君のそれで、俺は今、胸を切り裂かれた気分だよ! 心臓を抉り出して、俺の真っ赤なやつを、君とはまったく違うやつを、君に投げつけてやりたい。君はどうせ、それが何かも分からないんだ!」
 強く床を踏んで振り向けば、スポックは唖然としていて、ジムは口角を持ち上げる。こんなこと、きっと言われるなんて思ってもみなかったのだろう。自分が傷ついた分だけ、きっちりスポックにもダメージを残したかった。
「サンフランシスコなら、俺ひとりで行くさ。遊び相手ならすぐできる。新しい恋を探してみてもいいかもな。君には、君のサンフランシスコがあるんだろ? 君はそっちへ行ったらいいよ。だって、この世界は君のものじゃない。俺だって、君のものじゃない!」
 ああ、何か今、余計なことを言った。そう思ったけれど、もうどうでもいいとも思った。
 ジムはゆがみまくった視界を手で押さえつけてから、弾けるように家を飛び出した。



 ひとつ、昔話がある。ジムがあまり思い出さないようにしている思い出だ。
 記憶喪失で迷子になって、施設で過ごしていた頃、ジムには友だちがいなかった。日本語が話せなかったからだ。
 それに、ジム自身、あまりなじもうとしていなかった。当初はまだ、自分には帰る場所があると信じていたからだ。ただ思い出せないだけで、今この瞬間、自分を探している誰かはどこかにいる。ここは一時的な仮の住まいで、自分の本当の家は、この空の下のどこかにある。
 そんな夢想はもちろん、夜を越えるごとに、惑い、揺れて、かすれていった。
 時間が経つごとに、自分の立場を理解した。『誰か』を待ち望んでいる自分が、まるで馬鹿みたいだった。こんな生きづらい世界に放り出して、探しにも来ない『誰か』に、ずっと暗い怒りを引きずっていた。自分は捨てられたのだという事実を、悲しんでしまいたくなかったのだ。そんなことをしてしまったら、自分がみじめなものになり下がってしまう気がして。
 学校に入れられたとき、最初に案内されたのは特別教室だった。
 日本語が話せない子供のために、英語の分かる大人が、日本語を教えてくれる教室だ。
 ジムはただ、英語が使えることがうれしかった。記憶を失う前の自分が持っていた唯一の言語を、使わないうちに忘れてしまうのが怖かったからだ。教師はやさしかったし、そのとき教室にいたのはジムだけで、慣れない生活を強いられる施設よりも、格段に居心地がよかった。廊下を歩けばじろじろと見られたけれど、言葉が分からないふりをすれば誰も話しかけてこない。
 ある日の放課後のことだった。
「帰りたいって言ってんのに、なんで通じないんだ」
 階段の先からそんな声が聞こえてきて、ジムは足を止めた。一言一句すべて聞き取れたのは、その言葉が英語だったからだ。
 そっと手すりから下を覗き込んでみると、おとなしそうな黒髪の子が、数人に話しかけられていた。その子が話した言葉に、彼らはわっと沸いて、それから口々に話しかける。楽しそうに、好意的な態度で。
 断片的に分かったのは、これだけだ。
 ――ハーフじゃないの? 日本人にしか見えない。日本語話せないの? 日本に何しに来たの?
 けれどそれだけで、その子が困っているだろうということは分かった。自分にも、身に覚えがあるからだ。
 ――どこの国の人? 両親は? 日本語話せないの? 金髪に青い目でお人形さんみたい。なんで日本にいるの?
 ジムはその場でしゃがみ込んだ。
 あの、知るかと叫んで全部ぶっ飛ばしたくなるような気持ちを、きっとあの子も感じているだろうと思ったからだ。
 助けられるのは、自分しかいない。
 今、立ち上がって、そういうのはやめてほしいと言えるのは。あの子を救えるのは、きっと自分だけだ。
 けど、どう言えばいい?
 どう、表現したらいいのか、ジムには見当もつかなかった。何か分からないことを言われたときに、うまく返せるかも分からない。ジムは迷いに迷って、迷っている間に、集団は教師に見つかってあっけなく解散させられた。
 大丈夫かと訊かれた少女は、問題ないと端的に返す。
 けれどひとりになった途端、口汚い言葉を吐いて、靴音も高らかにどこかへ行ってしまった。
 ジムは、ずっと座ったままだった。
 いったい自分は何なんだろう。そう思うと泣けてきて、逃げるように走って帰った。帰ったといっても、場所は施設だ。自分の居場所とは思えないそこに戻るしかない自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
 拳の中で爪を立てることしかできない馬鹿な自分が、嫌で嫌で。
 こんなゴミだから捨てられたんだろって落ち込む自分が、たまらなく嫌で。
 いつもなら笑い飛ばせるうつろな思考も、このときだけはだめだった。自分が本当に情けなかったから。本当に情けなくて――、ひとりでは、抱えきれなかった。誰かにそばにいてほしかった。どこかにいる『誰か』に、慰めてほしかった。大丈夫だと言ってほしかった。
 自分はもうずっと、ずっと、悲しくて、悲しくて、とてもみじめなんだと、ジムはその日、初めて自分で認めた。
 星空を見上げるようになったのは、このときからだ。
 翌日、階下で見たあの子は、特別教室の新しいクラスメイトとして入ってきた。
 驚いたジムは、けれど表面上は何食わぬ顔で、めったにない友好的な態度を取ったと思う。動揺していたからだ。
「俺、自分の名字嫌いだから。名前で呼んで」
「奇遇だな。こっちは名前が嫌いだから、名字で呼んで」
 そんな、忌憚のない態度を取る年上の同級生とは、その後もいろいろあったけれど、今でもつかず離れずの交友を続けている。
 けれどジムは、イケヤ本人に、このことを話したことは一度もなかった。きっと一生、打ち明けることはないだろう。



 空港へ行こうと思った。サンフランシスコへ行くには、国際線に乗る必要があるからだ。
 金も身分証も持っていなかったので、実現不可能な行動目標だった。けれどもう、やけっぱちだ。
 すっかり日の暮れた駅前は、夜の町に繰り出す人々でにぎやかだった。ほとんど肩で風を切るように歩いていたジムは、思いっきり人とぶつかってしまう。
 謝ろうと振り返ると同時、相手も振り返った。ものすごい形相で、あからさまに憤慨した様子で。
「いってぇ! おい、なんだお前」
 続けざま、そんなふうに因縁をつけられて、ジムは瞬時に謝罪を投げ捨てた。こっちだって、尋常じゃなく機嫌が悪い。
「なんっだその顔。でけぇ図体して邪魔なんだよ。ここは日本だぞ、すみっこ歩けよ外人は!」
 すでに酔っているのか、やけにでかい声だった。じっと睨み返していると、相手は派手に舌打ちする。通行人は、ちらっと見るだけで通り過ぎていった。
「通じてねぇのか日本語が。日本にいるなら日本語喋れや。お前みてぇなのがいていい場所じゃねんだよここは」
「じゃあ、どこならいいんだよ」
「あ? 分かる言葉で喋れ」
「どこならいいんだっつってんだよ! どこなら! 俺だって、俺だけの、俺の居場所があるならこんなとこにはいない!!」
 ほとんど、声の限りだった。行き場のない怒りを近寄ってぶちまけると、逆上した男に突き飛ばされる。ジムはふらついた体をすぐに立て直して、同じように突き飛ばしてやった。そしたら殴られて、同じように殴り返す。
 駅前には、だいたい交番があるものだ。そして、ざわついた通行人のうちの誰かが、すぐさま警官を呼んだようだった。騒ぎが大ごとになる前に仲裁が入り、ジムは相手と引き離され、そのままがっしりと腕を掴まれて連行される。
 殴られた顔は痛かったが、双方に大きな怪我はなかった。そのためだろうか、事情を聴取されるうち、警官は別のことを気にし始める。
「君、パスポートは?」
 やや不審げに問われたそれに、ジムは余計にささくれ立った。鋭く睨むと、警官は困った顔で両手を挙げる。
「落ち着いて」
「パスポートなんか持ってない。持ち歩いて生活しますか、普通? 俺はどこの誰かも分かんないけど、日本国籍を持ってます。こんな顔してるけど、俺は。俺は」
「分かった、分かった。ご家族は?」
「そんなの俺が知りたいよ!!」
 ほとんど癇癪を起すように叫ぶと、警官は小さく溜息をついた。
……まあ、こっちも知りたいんだが」
「いません。誰も」
「天涯孤独か?」
 天涯!
 その言葉の意味を、ジムは調べたことがある。空の果てのことだった。空の果てを含めても、俺はひとりぼっちなんだ。
 黙ってしまったジムを見て、再び溜息をついた警官は、家まで送ろう、と提案した。
 アパートの前まで、押し黙って歩く。
 住所を聞いた警官が、それなら歩いて行けるな、と言ったからだ。そして、家に着いたら身分証を提示するよう求められた。
 顔を知っている近所の人が、何事かとこちらを見てくる。じっと視線を返してやれば、好奇の目はそそくさと散っていった。八つ当たりをしているな、となかば投げやりぎみに思う。
 完全に、八つ当たりだった。気に入らなくて暴力に訴えるなんて、クズのすることだ。
 気に入らないことなんて、生きている限り、決してゼロにはならないのに。勝手にキレて、暴れて、叫んで、こんなことをしたって何にもならない。
 ――けれど。
 けれど。
 いったい、俺って何なんだろう。
 自分が自分でいられる場所にいたいと、たったそれだけの願いも叶わないのなら。



 玄関は開いたままだった。警官をそこに待たせて家に入ると、出迎えたスポックは闖入者を見て、耳を隠しながら眉をひそめる。もちろん、警官のほうも、誰だお前、という態度だった。不法滞在者かと疑われているのだろう。
 職務質問に答えようとするスポックを遮って、たまたま遊びに来ていただけの知り合いだ、とジムは答えた。その言葉にも、何か言いたそうな表情を向けるスポックに、黙ってろ、と視線でくぎを刺す。
 こういうときのために、あらかじめ取得してある身分証明書を提示すると、警官は素直に帰っていった。
「何があったのですか」
 ふたりきりになると、当然、スポックはそう尋ねてくる。再びリビングで立ち尽くすシチュエーションに戻ってしまい、ジムはまるっきり馬鹿らしい気分になった。なんだか自分ひとりだけが、騒いでひっくり返ったみたいだ。
 少なくともスポックは、ジムを追いかける、という行動は取っていない。確かに、それはそうだろう。ジムは手ぶらで飛び出していて、どのみちここへ戻ってくるしかなかったのだ、論理的に考えて。くそくらえ。
 はは、と空笑いすると、スポックはぎゅっと眉間を寄せた。
「ジム」
「なんだよ」
……あなたが不安に思っていることを、教えてください」
「ははは! 不安。不安ね。じゃあ、もし俺が今、わんわん泣いてすがったら、君はやさしく髪を撫でてくれるのか?」
「ジム」
「いや、もう、なんでもない。ちょっと今、気が立ってるだけなんだ。スポックはそんなことしなくていい」
 まるでスポックのほうこそ、不安に駆られているようだった。そんなふうに話しかけられて、ジムは払うように首を振る。じんじんする目頭を押さえてベッドに突っ伏せば、持っていた身分証明書がくしゃっとたわんだ。
 しばらく、そのままうつぶせでふてくされていると、ふいに。
 後頭部あたりに、羽のように、触れるような気配がして、ジムは勢いよく体を反転させた。
 こちらを覗き込んでいるスポックは、瞬時に手をひっこめる。その丸められた指先を凝視して、ジムは呆然とその顔を見上げた。
 相変わらずの無表情だが、じっと見下ろす瞳はいつもより奥深い。
 指先に触れるのはセンシティブなことだ、と彼は言っていた。それはたぶん、地球人にとっては、デリケートな部分に触れるのと同じ感覚なのだろうと思う。たとえば、唇を、薄い皮膚に押し当てるとか。
「泣いているのかと、思いました」
 極度に張りつめたふたりの静寂に、ほとんどおぼれるような吐息が落ちる。
 スポックは、慎重で、怯えているようでもあった。静かに下ろされた手は、何かをごまかしているようにも見える。ジムが泣いていると思ったから、スポックは髪を撫でようとしたのだろう。とてもやさしく。
 ――君だって、いなくなるのだ。
 ジムはあえぐように息を吸って、腕で両目を覆った。君がそんなことを言わなければ、泣かなかった。そう口惜しくすら思う。
「俺は、天涯孤独なんだ、スポック」
 声が震えないようにするので精いっぱいだった。スポックは静かに聞いていて、それを確認して、ジムは再び息を吸う。
「小さい頃の記憶がないんだ。俺は、気づいたらひとりぼっちだった」
 そうしてジムは、自分の人生を、覚えている限りのことを、なけなしの言葉にしていった。記憶の消去を極端に嫌がった理由も、ファミリーネームがない理由も、この状況に対する、深い怒りや、あきらめや、消えない不安や、悲しみのことも。
「さみしくなると星空を眺めるんだ。もしかしたら、この空のどこかに、本当の、自分がいるべき場所があるんじゃないかって。そんな、何にもならない夢を見る」
 ほとんどすっかり話してしまうと、後に残ったのは力のない笑みだけだった。自分をすべて開いてしまうと、何もかも終わってしまったような、すべてを失くしてしまったような、そんな諦観がやってくる。スポックは出ていくかもしれないし、自分は記憶を消されるかもしれない。けれどもう、それでいいような気もしていた。スポックと出会ったのは、文字どおりのイレギュラーで、きっと何かの間違いだったのだろう。自分にはこれからも、今話したとおりの、今までどおりの、どうしようもない人生が横たわるだけなのだ。
「俺の本当の居場所は、ずっと向こうにあって、空の彼方のどこかで、俺を必要としてくれる誰かが、俺をずっと待ってるんじゃないかって。俺の心臓が動くべき場所は、ずっと向こうの……、なんてな。馬鹿なんだよな、俺は」
 かさ、と手に触れた身分証明書を摘まみ上げて、ジムは寝そべったまま紙を折った。今まで何度も、何度も見てきた星空を思い浮かべながら、手慰みに紙飛行機を作る。
 完成したものを少しだけ見つめて、腕を投げるようにして飛ばした。それはどこに届くでもなく、ひょろりと墜落して見えなくなる。
 スポックはその紙飛行機を拾い上げると、丁寧に手のひらで皺を伸ばした。生真面目に手渡してくるので、ジムは首を振って受け取りを拒否する。
「では、もらっても?」
 すると彼は、そんなことを言って首を傾げた。意外な反応に笑ってしまって、ジムは肘をついて身を起こす。
「君がもらってどうするんだよ」
「これはあなたという人物を証明する書類でしょう。私が持っておきます。これがここにあるということは、いずれあなたが必要とするものです」
「それを、君が持っておくの?」
「ええ。あなたが捨ててしまわないように」
 スポックは細心に、大切そうに、証明書を折りたたんだ。それから歩いていって、大事なもの専用の引き出しにしまい込む。
 もう自分のことを投げ出してしまいたい気分のジムは、顔をくしゃくしゃにしてしまった。
「なあ、スポック。なあ。俺にやさしくするのはやめてくれないか」
「やさしくはしていません。論理的に行動しています」
「でも、君のそれは、俺にとっては、とても」
 ジムはうつむいて、ぎゅっと唇に力を入れる。そうしていると、スポックは音もなく戻ってきて、そっと視界に入り込んだ。彼はベッドのそばで控えるように、膝をついてこちらを見上げてくる。
「私は地球人の慰め方には不慣れです」
「君の能力に、慰める、なんてテクニックがあったんだ」
「何かしてほしいことはありますか?」
 おそるおそる、視線を返せば、スポックはまっすぐ見返してきた。ひたむきで、熱心な、そんなまなざし。
「それって、俺を慰めたいと思ってるってこと?」
「論理的に考えるとそうなりますね」
 そのへんで、ジムは限界だった。
 ベッドからずり落ちるようにして、かがんでいるスポックに抱きつく。
 スポックはたじろぐようにのけぞったけれど、それだけだった。めいっぱい力を込めれば、そのうちのけぞっていた背中も戻ってきて、彼はゆっくりと体の力を抜く。
 ふいに、かすかに、背中に体温が触れて、ジムはきつく目を閉じた。おずおずとした手のひら型の熱が、ゆっくりとさするように背中を滑る。
 じりじりと間際でこらえ続けていた涙が、その瞬間、ぶわっとあふれてしまった。でも、スポックには見えていない。だったら少しだけ、気を抜いてもいいだろうか。
 ジムがどれだけ肩口をべしょべしょにしても、スポックはずっとそうしてくれていた。実に、ジムのおなかが盛大に鳴って、間抜けな雰囲気になってしまうまで、ずっと。