はるの
2023-09-19 21:11:09
162116文字
Public スタートレック
 

空に心臓

+13|AOS spirk|2023.10.1|2023年の日本で暮らしているジムが、倒れていた迷子のヴァルカン人を拾う話。現代ものパロディです。

7.


 タイムマシンを作ろう、という共同のプロジェクトは、一向に進む気配がなかった。そもそも、転送先の座標計算は、民間で手に入るコンピュータでは不可能なのだそうだ。となると、どこかのスパコンを盗んでくるか、スパコンを作り上げるしかない。お手上げである。
 当然、スポックはそんな問題などすでに承知していて、だからこそ、彼は不可能だと強固に断じていたのだった。彼がこのプロジェクトに乗ったのは、ひとえに彼の精神安定のために他ならない。けれど、だからこそ、ジムは『本当にできる』と信じている必要があった。その盲目なポジティブが、打ちのめされたスポックを少しだけ助けるからだ。
 無職だったスポックはそれでも、ジムが勤務している日中は、自分が持ち込んだ未来の機械をチェックしたり、何らかの算段をしていたのだろうと思う。
 けれど、彼が現代の生活や日本の風習を学び、次第に家の仕事を担うようになるにつれ、日本語の習得に多くの時間を割くようになっていった。図書館から借りてきた本を入れる棚は、やがてやさしい日本語で書かれた児童書に置き換わり、そのうち彼が自分の能力を試すための一般教養本に置き換わる。
 スポックが働き始めると、本棚には経営に関する書籍が追加された。その背表紙を眺めながら、これカフェバー乗っ取られるんでは、とジムは真剣に懸念したものである。
 そしてそのジムはというと、ぽつぽつと読んでいた科学の本からは、すっかり遠のいてしまっていた。宇宙の話は面白かったけれど、時空間の話になると、精密ドライバーで心臓の柔らかい部分をつつかれるような気持ちになるからだ。結果、すかすかし始めたその棚に、ジムは100均で買ったペン立てとボールペンとメモ帳を置くことにした。本が倒れてペン立てが弾き飛ばされる事故が2回起こったのち、100均のブックスタンドがスポックによって追加されている。
 勉強以外の可処分時間、スポックが何をしているのかというと、ジムを構っていた。買い物に行こうとか、おにぎりを作ろうとか、映画のシリーズを観ようとか、ジムがそんなふうに誘いをかけると、彼はほとんどの場合、しれっとした顔で参加してくれるのだ。つまり、時間的に就寝が望ましい場合や、ウイスキーとシロップでショットグラスチェスをしようという欲望に満ちた依頼である場合を除いて。
 試用期間を終えたスポックがカフェで働き始めると、彼のバリスタぶりを見るために、ジムは2回、半休を取った。ふたりの勤務時間は、スポックのほうが少し早いが、おおむね同じ時間帯だ。店が職場から近ければ休憩時間に来られるのに、とジムは口惜しく思っている。ちなみに、それをイケヤに訴えたらまたクレーマー扱いされた。心外である。
 店でのスポックは、すべてを円滑にこなしていて、何の不自由もなさそうだった。安心と、ちょっとだけの面白くなさを、カフェラテにくるくる溶かして飲み下す。そんなふうに静かに過ごしていると、ふいにスポック自らそばまでやってきて、追加で紅茶を1杯おごってくれた。彼は実際、私生活でも茶葉を使った飲み物をよく選んでいる。絶対に認めはしないが、絶対に好物なのだろうとジムは確信していた。そもそもが草食だし、たぶん、草全般が好きなのだろう。今度一緒に牧場に行こうかな、なんてジムはにやにや考える。
 1か月経って、スポックは初めて給料をもらった。
 その額を報告しにきたスポックは、すべて生活の足しにしてほしい、と主張する。もちろん、ジムは笑顔で首を横に振った。
「いや、全部はいいよ。それに、いわゆる初任給だろ。今回は君の好きなように使いなよ」
「それでは、私が働きに出ている意味がありません。私はあなたの生活を補佐するために働いています」
「うん、分かってる、ありがとう。でも記念すべき最初の、スポックだけのお金、だろ?」
「初任給に特別な意味を持たせるのは、地球人の習慣ですか?」
「日本人の習慣かなあ。ほら、なんかちょっといいもの食べるとかさ。君がどうしてもって言うなら、余った分は生活に回すから」
……分かりました。では、買い物に付き合ってください、ジム」
 スポックは深く考え込むようなしぐさをしてから、早々に折れた。こういう議論は果てしなく長引く可能性も秘めているのに、珍しいことだな、と思いながら、ジムは気軽に快諾する。
 次の休日は、よく晴れていて、暑い日だった。スポックは暑さに耐性があるそうだが、湿度の高さには少し辟易しているようだ。外出から帰ってきた彼が、どことなくしんなりしているのは面白かったけれど、それはつまり、それ以上にジムもしんなりしているということだ。暑さ対策のグッズが欲しいな、とは思っていたところだった。
「何を買うんだ?」
 まぶしい日差しにサングラスをかけながら、ジムは自分のキャップの位置をずらす。スポックは、特にまぶしそうな様子もなく、帽子のつばの下からこちらに目を向けた。
「夏服を」
「夏服?」
 スポックはそう言って、迷わず歩き出す。ジムは慌てて追いかけて肩を並べながら、不思議に思って隣を見た。スポックは基本、衣類は最低限しか購入しないのだ。
「それから、財布を購入します」
「おっ、大きい買い物だ。いいね。君、100均のやつずっと使ってるもんな」
「家具屋で、衣装ケースを購入します。あなたが適当に片づけるせいで、私はときどきあなたの服を着るはめになっています」
「はめって言うなよ、俺のかっこいい服を」
「居住スペースとの相談になりますが、もうひとつ座椅子を購入してもよいと考えています」
……なんで?」
「ラップトップを使用する率は私のほうが高いのに、あなたはあれで昼寝をする」
「ああ、君、背中丸めてちまちま操作してたな。あれ、そんなに嫌だったのか」
「ところで、寝具は借用品ですが、あれは返却しなくてもよいのでしょうか?」
「それは、でも」
「予算に足りるなら購入を検討してもよいかと思います」
「なあ」
「そして、忘れてはならないのが電気圧力鍋です」
「スポック」
 そんなよどみない言葉を聞いているうちに、鼻呼吸が難しくなってきて、ジムはあえぐように息をついた。勝手に泳いでしまう目を何度かなだめつつ、もう一度なんとか隣に向ける。
 視線に気づいてこちらを見たスポックは、ごく普通の、いつもの、はっきりとした、真面目で清廉な無表情だった。
 何か、言おうとして、口を開けて、結局ジムはつぐんでしまう。そんな連れには視線だけを置いて、彼は再び惑うことなく前を向いた。
「何かご意見が?」
……いや」
「初任給は私の使いたいように使う、というのがあなたの提案でしたので、私はそれを実行しています。ですが、私たちの共同生活において、何か気になることがありましたら、もちろん随時申告してください」
 スポックはその言葉のとおり、さまざまな場所へジムを連れていき、使いたいように金を使った。検討の結果、購入を断念したものもあったが、たとえばスポックは、彼の気に入るデザインの、素敵な財布を手に入れた。そこにジムの与えたICカードや電子マネーカードを差し込んで、彼は満足そうに口を閉じる。そんな様子を一部始終、ジムはなかば呆然と、隣で見守ることになったのだ。
 彼が『一時的な滞在だから』を理由に、新しく購入することを拒否していたものたちが、次々と購入されていく様子を、ずっと。



 その日の夕食は、新しいキッチン家電が活躍した。〝共働き〟でも困りません、と新しく覚えてきた日本語を披露するスポックは、まさに堂々たる態度だ。もうずっと、ろっ骨の奥で言葉がつまったままのジムは、おざなりな笑みを返すことしかできなかった。スポックはいつもどおりなので、たぶん、ばれてはいないだろうと思う。
 適当にテレビをつけて、ふたりで食卓を囲んだ。いつもどおりのことなのに、なんだかひどく慎重な気持ちになる。
 スポックはもしかして、帰る気をなくしたのか?
 たったそれだけのことが、どうしても訊けなかった。たったそれだけのことが、すべての最たるものだからだ。
「この光景は見覚えがあります」
 ふいに、スポックはそう発言した。彼の視線を追えば、テレビに赤い橋が映っている。
「サンフランシスコ?」
「はい。私がかつて地球にいたとき、この場所で過ごしていました」
 かつて? と疑問に思ったものの、ジムは口を閉じた。彼が過去形で言うからには、彼がいた未来での話だろう。最近ではもう、あまり話題にも上がっていなかった。彼の元の世界のことなんて。
 それをこのタイミングで言い出すスポックに、気持ちがついていかなかった。でも、君はそれを、もしかしたら、あきらめたんじゃないのか? 気を抜くとそう口走ってしまいそうで、ジムは苦心して笑みを作る。
「なるほど、だから英語を話せるのか。君、似合わないなあ、南国が」
「似合う必要はありませんし、似合うかどうかは主観の問題です。それに、宇宙とつながることにおいては歴史のある土地です」
 テレビ画面では、陽気な街並みが流れていく。青い空、青い海、パームツリーの並木道。スムーズに走っていく赤いオープンカー。
 ジムはふと、あれに乗りたいと思った。髪をなびかせて速度を上げて、派手な音楽をガンガンに鳴らして、何もかもを蹴とばすように駆け抜けるのだ。もしそれでクラッシュして大事故を起こしても、きっとスポックなら助けてくれるだろう。威厳のある断固とした表情で、心配を混ぜた詰問口調で、ジム、と言って叱りつけるのだ。あの、明るく澄んだ青空の下で。
「行ってみる? サンフランシスコ」
 そんな妄想は、ジムの心を少しだけ軽くした。やけになった、と言ってもいい。妙な反骨心にそそのかされるようにして、ジムは目の前の異星人に挑発の笑みを向けた。スポックは片眉を上げて、しとやか、かつ、あからさまな反応を見せる。
「行ってどうするのです」
「どうするって、観光だよ。ちょうど夏だし、海に入ったり? 君、海パン似合わなさそうだな。よし、海だ海!」
「海パン、とは、ウェットスーツとは異なるのですか?」
「おいスポック。まさか、水着を着たことがないのか?」
「水着、で理解しました。ヴァルカン人は、人前で肌を見せるのは」
「パスポートをどうするかが問題だなあ……
「話を聞いてください」
「やっぱ偽造するしか……
「犯罪行為をしようとしていますか? 絶対にやめなさい」
「もしくはスポックにハワイ経由で泳いできてもらうか……
「もう少し現実的な立案ができませんか?」
「スポックならできるよ! 太平洋横断クロール!」
「できません」
 軽口なら、いくらでも好きなだけ生産できた。実現できないと決まりきっていることを、さもできるかのように話す才能には恵まれている。口先だけの楽しいことで大口開けて笑いながら、ジムは不服そうなスポックを存分に楽しんだ。
 こんなふうに、君のいたサンフランシスコはもうないのだと知らしめて、自分は何がしたいんだろう。
 そんな分かりきった問いを頭の奥で潰しながら、ジムは10回、スポックから不正行為は厳禁だという指摘を引き出した。



 結局、この部屋に座椅子が追加されることはなかった。単に置き場の問題である。
 そのため、ジムはスポックと、座椅子じゃなくて構わない用事なら座椅子の上で行わない、という約束を改めて交わすに至っていた。早い話、うたたねするならベッドで、というわけである。
 だから、風呂から上がってきてリビングのドアを開けたジムは、座椅子に収まっているスポックを見つけた瞬間、ほぼ反射的に息をひそめた。脱力して座り込んでいる彼は、目を閉じたまま深い呼吸を繰り返していたからだ。
 これは鬼の首が取れるぞ、とほくそ笑みながら、ジムはそろそろと近づく。目の前のテーブルに開かれたラップトップには、グーグルアースの最初の表示、ゆっくりと自転する地球のグラフィックが表示されていた。スポックは、割とこのページが好きである。きっと異星人的に、地球の見た目が面白いのだろう。
 椅子の横で膝をついて、そっと顔を寄せてみた。少し不安になるくらいのリズムで、意外と分厚い胸がゆったりと上下している。肺の位置は、地球人とあまり変わらないらしい。確か、著しく場所が異なるのは、心臓だった。
 すい、と目が勝手に体のラインを撫でて、わき腹あたりで留まる。いつかのヴァルカン人の構造に関する講義で教えられた、彼の心臓がある場所だ。ジムは無意識に手を伸ばしてから、そんな自分の行動に驚いて、ぎゅっと指先を握り込んだ。きっと触れれば、熱いのだろう。確か、触ったことがある。いつだったか、彼のジャケットをめくって。
 ジムはふっと鼻で小さく笑って、そっと立ち上がった。油断すると触れてしまいそうなので、視界から隠してしまうことにする。自分のベッドから夏用の薄いケットをかき集めて戻ってくると、ゆっくり開いて、そろっと、用心してスポックの体にかけた。
 そういえば、こいつに出会った頃、同じことをしようとして、首を絞められたな。
 そのままぺたんとしりもちをついて、おとなしくケットに包まっているスポックを見つめながら、ジムはしみじみと思い出した。あれは本当に、手負いの獣のようだった。そう考えると、こいつもずいぶん、人間に慣れたものだ。保護猫の成長を見守るような言葉が浮かんで、ジムは口元を押さえた。笑ってしまったら、さすがに起きてしまうだろう。
 ふと、ケットの端から、力なく垂れた腕がこぼれていることに気づいて、手を伸ばす。中に入れてやろうとして、シャツ越しに触れて、その一瞬で、ジムの頭は思いがけず真っ白になってしまった。何も考えられない瞬間のあと、指先に触れている高い体温をことさら意識してしまう。
 スポックの袖口を凝視して、ジムはこくんと喉を鳴らした。
 そっと、指先をそっと、手首まで滑らせてみる。素肌に触れると、全身が震えるようだった。想像したより、ずっと熱い。
 出会った日の自分は、ここに触れて、脈を確認していたはずだった。あの日の自分は本当に、何も、なんにも、知らなかった。あの日の自分のままでいられたら、どんなに楽だっただろう。そんな強烈な思いに体を貫かれて、ジムは恐れるように吐息する。
 けれど、この体温の意味を、知らないまま死ぬなら、それはもう自分じゃない気がした。
「ヴァルカン人はタッチテレパスです。主に指先で、他者の精神を読み取ります」
 すり、と乾いた肌を指先でなぞった、瞬間、そんな声が間近で響く。ジムはほとんど気絶するような衝撃を受けて、火に触れたように手をひっこめた。
 スポックはゆっくりとまぶたを持ち上げると、顔を傾けてこちらを見る。
「そのため、ヴァルカン人の手に触れることは、非常にセンシティブな行為であることをお伝えしておきます」
 おっと、またヴァルカン新情報だぞ。
 と、そんなふうに茶化すべきだった。なんて、頭はこずるく回るのに、体のほうが言うことを聞かない。ジムは腰が抜けたように、ただ呆然と、背中を起こすヴァルカン人を見ていた。
「ジム?」
 ほんのすぐそばで、不思議そうに呼びかけられて、ジムはやっと肺に空気を入れる。大きく膨らんで圧迫されたろっ骨が、きしんで痛むくらいだった。
「あ、ご、ごめん」
「構いません」
 ささやくような密やかさで、スポックは言葉を返す。そんな彼の顔を、我に返った状態で直視するのは難しくて、ジムはあらぬ方向に視線をさまよわせた。体はまだちょっと混乱していて、落ち着けようと手で頬をこすりつける。それからふと、この指先で今まで彼に触れていた、ということを思い出して、自分でしどろもどろになってしまった。
 スポックからの視線が痛い。唇を舐めて潰して気を紛らわせてみても、じわじわと自分のしたことがよみがえってきて、そのうちヴァルカン人の体温とタイマンが張れるような気になってくる。
「ジム」
「あ、うん。その、ごめん。手の、近くを触るのも、気持ち悪いのかな。今後、気をつけるよ」
「いえ。触れるなとは言っていません。触れるのなら、そのような意味を持つ、という事実を伝えています」
 え?
 と、思った。もちろん。
 その驚きに体が跳ねて、やっと自由になった感じが戻ってくる。ぱっと顔を上げると、じっと見つめるスポックの双眸とかち合った。照明をちかりと反射する濡れた瞳。近くで見ると、深いブラウンにとろりと飲み込まれそうになる。
 つまり、あんまり他人が触れたことのない、スポックの肌を、触ってもいい、ということだろうか。
 そう考えた途端、腹の底からぶわっと、よくない衝動が吹き上がった。ジムはほとんどうめくような思いで、とっさに腕で顔を隠す。けれど触れたら、その代わりに、自分の精神が筒抜けになるのだ。このどうしようもない気持ちをさらけ出すか、彼に触れたい欲求を墓に埋めるか、ふたつにひとつというわけである。なんて男だろう。
 うつむいたまま、言葉に詰まっていると、スポックは衣擦れの音を立てた。そっと窺えば、彼はしれっと立ち上がり、ケットを丁寧に畳んでいる。今まさに、ものすごい発言をしたとは思えない態度だった。もしかしたら、スポック的には、他意なんてなかったのかもしれない。これだけのことをしておいて、他意がないのだとしたら、キングオブデリカシースレイヤーの称号を授与したいくらいだ。
「ジム、私は今、あのとき毛布が落ちていた意味を理解しました」
「え? うん……、えっ? 今か?」
「はい」
 キングオブデリカシースレイヤーは、コンパクトにしたケットをベッドに置いて、ごく淡々と座椅子を壁に寄せた。いつもの作業である。ああ、うん。まあ、そうですよね。
 ひとりで青くなったり赤くなったりしていたことが馬鹿らしいのと、それでもスポックの鈍感さに助けられたような心境で、ジムはほっと大きく息を吐く。
「昼寝なんて珍しいな」
「眠ってはいません。瞑想をしていました」
「は? 君、起きてて? たぬき寝入りでだましたのか?」
「精神に深く入り込んでいたため、覚醒が遅れました。動けなかったのは事実です」
「そう……
 よく分からないが、そういうことらしい。またヴァルカン人の新しい知識が増えたな、と思いながら、ジムはもう一度自分の頬をこすった。つまり、彼は起きている状態で、自分に触られていたわけだ。早く言えよ。切実にそう思う。
「お前、そんな無防備でいたら、いつか襲われちゃうぞ」
 思わず、そんな軽口を叩いて、すぐに言い過ぎたと肝を冷やした。どうやらまだ完全に落ち着きは取り戻せていないらしい、と自分の精神状態を悟って、ジムは深呼吸をする。
「襲われるようなことはないでしょう。ここは安全です」
「安全、かあ」
 テーブルにかがんでラップトップの電源を落としている背中を眺めながら、ジムは見られていないのをいいことに、心から自嘲の笑みを浮かべた。
 たとえば今、心から安心しているらしい同居人を見て、その穏やかさを思いっきり乱してみたい、と思っている人間がいることを、スポックは想像することもないのだろう。そう思うと、なんだかちょっと泣けてくるような気持ちになった。いとおしいような、せつないような、そんな感じの。
 ラップトップが沈黙して、ディスプレイを閉じたスポックが振り向く寸前、ジムは満面の笑みを作った。
「おっと待ったスポック、動くなよ。後ろ髪が珍しく乱れて寝ぐせが――、ああ! もう! このキューティクルストレート!」
「戻りましたか?」
「戻る前に記念写真撮りたかったのに!」
「喉が渇きましたね。お茶にしましょう」
「露骨に面倒くさそうな顔するじゃん」
「していません」
 思いっきり騒々しくはしゃぐと、スポックは慣れたようにあしらってくれる。
 すました顔でキッチンへ向かう彼の足取りを追いながら、ジムは両手を握り込んだ。